つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

織田信長とルイス・フロイス

2018-07-15 | 岐阜県

 昨日は放送大学の公開講演会で、放送大学教授の杉森哲也先生を岐阜に迎えました。テーマは、「織田信長とルイス・フロイス」。昨年、Gifu  信長展を見るために岐阜市歴史博物館にも東京から来られています。そこで展示されたフロイス像は貴重なものらしく、カメラに収められました。撮影自由は有難いと言われていました。東京ではそうはいきません。その像はもともとはインドのゴアのもののレプリカ。フロイスは、ポルトガル人のイエズス会宣教師。名前は知られていますが、肖像画がないのです。

 昨日の講演では有益な情報が多かったです。南米の言語は殆どがスペイン語なのに、なぜブラジルだけポルトガル語なのかという謎が解けました。そのころは大航海時代。世界を二つに分けて、あるラインより西と東にスペインとポルトガルに決められていました。日本はポルトガルの領域に入っていたため、ポルトガル人のフロイスやザビエルが布教にやって来たのです。鉄砲伝来もポルトガル。このラインのポルトガル領域にブラジルは入っていたのです。

 フロイスは、信長との交流はじめ多くの日本滞在中の記録を残していますが、その記録がマカオに置いてあった時に、火災にあい全焼。写しのみが残り、それを探して世界中からかき集めたものを和訳したため、とても時間がかかり、正しい信長像が伝えられないまま、今日に至りました。著書「日本史」を見ると、決して信長は暴君ではなくて、知的な会話も多いのに、日本のドラマでは悪い面が誇張しすぎです。フロイスは日本語がうまく話せたらしく、信長との会話もいきいきと描かれています。12巻ありますが、岐阜の部分だけコピーを頂きました。この原本を、20年前、岐阜城に登城したとき、その展示室で見たことがあります。

 日本が、もしこの二国に近かったら植民地化されていた心配がありました。南米はじめ多くの国の宝物を略奪し荒らしまわったこのニ国の行状を考えると、日本は極東の地であったため、守られてよかったと思いました。

 昨日は猛暑でしたが、いつもより多く130人の人が聞きに来ていました。今朝新聞を見ると、熱中症で搬送された人が1535人、死者6人とありました。

 

 

 

                                  当時の世界地図

懇親会で   右はセンター長

コメント (2)
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