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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ダムに沈み、そして観光林道開発から半世紀(前編)

2017-08-01 23:03:37 | 民俗学

 土田拓氏は、長野県民俗の会第206回例会において「ダム移転集落に嫁いだ女性にとってのむらの道」と題した発表をされた。奈川といえば奈川渡ダムが村の入口にある。昭和36年に着工し、昭和44年に完成したダムで、水力発電を目的としたダムである。ダムの高さ155メートルは、現在日本で3番目に高いアーチ式コンクリートダムだという。それだけに湖底に沈んだ家々も当然ある。ダム建設による移転を余儀なくされたムラが、半世紀ほど経てどういう状況になっているのか、どう地元の人たちは受け止めているのか、そんな視線を当てる例会であった。

 土田氏は宮本常一が問題提議として書き記した『私の日本地図2 上高地付近』に登場する舞台をあらためて現地で確かめ、現在における意味を考え直してみると面白いのではないかと考えたという。宮本の記した時代は昭和40年ころ。パイロット林道(スーパー林道)の経済効果予測の目的で奈川安曇を訪れた宮本。いわゆる奈川温泉から白骨温泉まで通じる林道がここでいうパイロット林道である。奈川渡ダムとパイロット林道というふたつの大きな開発がムラの姿を変えようとしていたわけで、それを「経済効果予測」として調査が行われたというのだから、その後の大きな開発でも当然そうした視点でさまざまな調査が行われていれば、より一層いろいろなデータが集まっていただろうに、などと思ったりする。このことは以前にも触れたが、後に自然環境が重視され、とりわけ現在の国土交通省から始まった環境影響に関わる調査は、今となっては当たり前の事前調査となって他省にも波及した。ところがそうした調査を眼前にして、ではなぜ農村の人々の社会的調査が行われなかったのか、すでに宮本の時代に先駆的行われていた同様の調査に刺激される。故に農村は壊滅し、いまとなっては過去の姿を浮き彫りにできない開発後のムラが、日本にはあまたとあるだろう。

 さて時代性とも捉えられるだろう、ダム開発によって水没するにあたって多くの補償金がムラには入った。その行方は例えば「小中学校の校舎建築」とか「役場庁舎の改築」、あるいは「簡易水道建設」や「TVサテライト局」といった整備だった。都市部との生活格差があった溝を埋めようとする、あの時代の傾向だ。その後の人口減少をくい止めるような将来を見越した施策に手を出すことはできなかったのではないか。宮本は山奥の村の二つのタイプの村のことを述べている。「その一つを通り抜け村、その二を行きどまり村としておこう。前者の方は、それがどんな山の中にあろうとも、その時代時代の影響を受けてかわってゆく要素を持ち、後者は停滞しがちになる。このことは一応事実であるが、行きどまり村の場合も、生活条件の非常に悪い関係から、自給だけでは生活がたたず、外との交流はそれぞれ持っていたのである。」と。そして本書の副題でもある「上高地付近」は自然の制約をもっともつよく受けた通りぬけ村として取り上げてみた、というのだ。宮本の視た「行きどまり村」が外との交流を持っていたのは、本当に生活がなりたたなかったためか、周囲の村との行き来が少なかったのか、別世界であったのか、その捉え方には疑問も残るが、例えば宮本は奈川入山を「通りぬけ村」のムラの事例としてとりあげた。宮本の想定した通りに今があるのか、と問われれば、入山はすっかり姿を変えた。果たして経済効果予測とはどんなものだったのか、そんなことも頭に浮かぶわけである。

続く

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