Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

押場の観音さん

2017-07-10 23:54:25 | 地域から学ぶ

日曽利押場

 

観音の衣に彩色の痕

 

 「ヨケ道」について触れたが、三間畝(さんましょう)と同じように観音さんがまとめて祀られている場所が飯沼の先、日曽利(ひっそり)にもある。「ヨケの観音さん」で触れたように、三間畝にはヨケ道にあった三十三観音のうち、一番から十七番までが祀られている。ようは十八番からあとの三十三番までは日曽利側にまとめられたということになる。ということは、一番が飯沼側に、三十三番が日曽利側に祀られていたということなるのだろう。もともと同じ南向村だった両者が、今は中川村と飯島町に分かれている。南向村の中心が飯沼より南にあったのだから、当然ムラの中心から日曽利に向かえば、手前が一番になるのはごく普通のこと。そう考えるとこの山道というか川沿いあった危険な道は、主に日曽利のためにあった観音さんということになるだろうか。

 主要地方道伊那生田飯田線を飯沼から日曽利に向かって行くと、「飯島町」という看板が見えてくる。もちろん振り返ると反対側に「中川村」という看板が立っているわけであるが、ちょうど小さな沢が天竜川に流れ下っている。おそらくこの沢が丈ケ沢と言われる沢なのだろう。この看板の上手に少し先の日曽利側から上ると、意外にも現在は転作されているが数枚の水田がある。その山付けに石仏群が見える。ここを押場というらしい。看板が立っていて説明書きがある。


善光寺道と押場の石造群

 古くから天竜川左岸(竜東)の山づたいに開かれたこの道は、日曽利から中川村の飯沼と駒ケ根市吉瀬を結ぶ重要な生活の道でした。
 この道は、日曽利と飯沼に残る道標から、古く善光寺道と呼ばれ、また古瀬に残る道標から高遠道とも呼ばれました。
 昭和の初め、天竜川電力株式会社の報償道路として竜東線(現在の竜東線の前身)が完成してからは、この道を使用することはなくなりました。
 この押場地籍は、中川村との境界で、この先の丈ケ沢を渡ると、「よけ」と呼ばれた大変な難所がありました。
 押場には、現在三十四基の庚申塔、馬頭観音、観音立像、墓碑があります。かつて「よけ」の道筋に祭られた三十三体の観音立像は、飯沼の観音塚とここに分けられ、押場には十八番から三十三番までの十六体が集められました。
       平成九年三月飯島町教育委員会

 初めて訪れたと思っていたらそうでもない。まだ看板が立てられる以前に立ち寄ったことがある。この石仏群については『長野県中・南部の石造物』(長野県民俗の会編)に掲載している。丈ケ沢を渡ると大変な難所だったという通り、町村界を過ぎると主要地方道伊那生田飯田線は、しばらくの間落石防止用のモルタル吹付区間が続く。いわゆる絶壁となっているようなところ。この難所があったが故に、かつて南向村だった日曽利も飯島町へ分離して合併することになったのではないだろうか。

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ヨケ道

2017-07-09 20:09:21 | 地域から学ぶ

三間畝観音さん

 

ヨケ道の地蔵

 

ヨケ道

 

草刈をする老人

 

 かつて「ヨケの観音さん」を記した。2006年以来、中川村飯沼の三間畝(さんましょう)というところにある観音さんを訪れた。今でこそ車の通れる道幅で観音さんまで行けるが、わたしが初めてここを訪れた時代には、まだ歩く程度の道しかなかった。対岸には飯島町本郷の段丘が展開し、その向こう側には南駒ヶ岳の峰々が望めるはずなのだが、「ヨケの観音さん」でも触れた通り、今は周囲の木々の枝が伸びて視界が良くない。かつて陣馬形山までよく望めたと言われるほど、天竜川東岸の山々には木が少なかったというが、戦後になって木を盛んに植えたものの、結果的にそれらの木を伐採するに至る前に林業が廃れてしまって、今や山々は鬱蒼とした木々で覆われることに。戦後の山の景観変化は著しかっただろうが、今はただただ木々の伸びる姿を望むだけ。

 ヨケと呼ばれる道は現在の主要地方道伊那生田線より高い位置にあった。飯沼神社脇の道を100メートルほど北へ進むと、山手へ登っていく急坂がある。かつては同じ位置に歩く程度の観音さんに上る道があったのだが、その道が3メートルほどに拡幅された。上っていくとすぐに 左手にお地蔵さんが1体立っている。「安永九子」と見えるから1780年造立。三間畝にある観音さんには「安政七年」(1860)銘のものがあるから、その観音さんよりちょうど80年前に建てられたものだ。道沿いに建てられた三十三観音以外にも、このように道を通る人たちを見守る石仏がそれ以前からあったというわけだ。

 お地蔵さんから少し道を上ると道下に1軒家がある。家の上を下って飯沼神社の方に向かう歩くほどの道が今もある。おそらくこの道がかつてのヨケ道と呼ばれた道なのだろう。ここから三間畝にある観音さんに向かって坂を上っていくと、大きな斜面を手鎌で草刈をされている方に出会った。斜面の上に電柵が見えたから耕地があるのだろう。「畑ですか」と聞くと「水田」だという。今は転作されているというが、この尾根に水を引くのも容易ではなかっただろう。ヨケ道のことを聞くと、いまひとつピンと来ないよう。飯沼側では日曽利側に比べると「ヨケ」ということを言わなかったのかもしれない。「どこまで刈るんですか」と聞くと「上まで」と言われる、大きな斜面をみな手鎌で刈るのだと知り、思わず「大変ですねー」と発してしまった。「仕事だから」と言われるおじいさんに山仕事で鍛錬された背中を見た。

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「新山」と「にゅうやま」

2017-06-02 23:54:00 | 地域から学ぶ

「新山」と「にいやま」より

 新山でいろいろ活動をされている方に話を聞くと、「にゅうやま」と呼んでいるのは「よその人たち」と言われる。ようは周囲の人たちがそう呼ぶようになって、内側にいると「にいやま」なのに外へ行くと「にゅうやま」になっているよう。ここから解るのは、よその人たちが「にゅうやま」を広めたとも言える。前回も触れたように、新山の周囲とはいえ、同じ富県の人たちは「にいやま」と呼ぶ。外部から自分たちの地域の呼び名が変わってしまったとしたら、ずいぶんお節介な話だ。

 歴史を辿って「かつてはそうだった」という呼称にまつわる話はよくある。とくに地名研究によってその意味を解き始めると、現在付されている漢字さえ異なったものとなる。「新山」が「丹生山」だとしすればこれも同例である。また「新山」については「新」を英語読みして「new」、そこから語呂合わせのように「にゅう」が付されたなんていう説明も登場している。

 「かつてはそうだった」そんな例で近年頓にちまたの呼称が変わってきたのが、本日記でも何度か触れた「風越山」だ。わたしの記憶では「ふうえつざん」だったが、現在ではほぼ「かざこしやま」で統一されている。そもそもなぜ「ふうえつ」になったかなのだろうが、ウィキペディアには次のように記されている。

中世の和歌にも「風越の峰(かざこしのみね)」と詠まれ、飯田市内の小学校・中学校・高校の校歌にもみな「風越山(かざこしやま)」とうたわれている。 昭和24年、飯田西高等学校と飯田北高等学校が統合され、飯田風越高等学校(いいだふうえつこうとうがっこう)が誕生し、その後、「ふうえつざん」と呼ばれるようになった。現在、地理書、各種の資料、行事等でも「ふうえつざん」という名が使われているが、「風越山」の正式な読み方は「かざこしやま」である。

ようは高校名が山の呼び名に変化を与えたというものだが、それにしてはずいぶん「ふうえつざん」が常態化していた。もしかとたらこれも外部の人々によってもたらされたものかもしれないが、わたしにとって飯田とかかわった時代背景からは「ふうえつざん」しかありえない。これはそれぞれの人によって捉え方が異なることなのだろう。

 「新山」にしても歴史を紐解けば「丹生山」と表記され呼び方ももちろん「にゅうやま」だったかもしれないが、今は「新山」であり「にいやま」である。現在住んでいる人々の想いもあるだろうし、「新山」になった歴史もある。本来に合わせて「にゅうやま」と呼ぶのなら漢字も「丹生山」と変えるのならまだしも、地域がそれを求めているわけでもないのに、なぜか「にゅうやま」に変わりつつある根源には何があるのか、今後も注意深く探っていこう。

終わり

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「新山」と「にいやま」

2017-06-01 23:17:25 | 地域から学ぶ

 かつて「日本で最も小さいトンボ」で「新山」の呼び方について触れたことがある。伊那市富県の一部であるが、昔はひとつの村を形成していた地域。三峰川の支流新山川沿いに展開する、伊那市内にある集落では平成になって合併した高遠や長谷をのぞくと、少し景色の異なる山間地域である。「日本で最も小さいトンボ」では、「新山」のことを「「新山」を流れる新山川のことを「ニュウヤマ」川という。この「ニュウ」も地すべりから発した地名かもしれないが、「ニイヤマ」と呼ぶ人と「ニュウヤマ」と呼ぶ人がいて、正しくは「ニュウヤマ」と呼ぶものだという人が多い。実はかつては集落の名も「ニュウヤマ」だったのだが、新山村という村が合併で誕生した際に「ニイヤマ」と正式に読むようになった」と記した。仕事上で「新山」のことをどう読んだら良いかと思って、あらためて「新山」でいろいろ活動されている年配の方に確認をしてみた。すると「にいやま」と読むのが本当だという。「日本で最も小さいトンボ」に書いたこととちょっと違う。

 『角川日本地名大辞典20長野県』(「角川日本地名大辞典」編集委員会 1990年)には、「にいやま」(851頁)と記されており、戦国期大永4年(1524年)2月吉日の諏訪神社前宮三之柱造営料請取日記に「新山之分」とあり、中世は「新山郷」、近世には「新山村」とされていた。ここからも元来「にいやま」であったことははっきりと解るわけだが、とりわけ地名の分野からこの「新山」を解釈する際に「丹生」から説くものが広まった。松崎岩夫氏は、『伊那地方の地名』(信濃古代文化研究会 1984年)において、「に」を「丹」と解釈して説いており、〝「にゅう」の語源は「丹(に)であ〟るとしている。そもそも「新」を「にゅう」と読んでいたわけではないが、「新」は「丹」であるというところから始まっている。ようは呼び方にはこだわっていない。松崎氏によると大永年間の記述には「丹生山」とあったものの、「新山」に変わってしまったと記している。

 松崎氏がこのように地名を説いたのが昭和59年。松崎氏の説が広まって「にいやま」が「にゅうやま」に化けていったかどうかは解らないが、いま伊那市内に限らず周辺地域の人たちに「新山」を何と読むかと問うと、かなりの人たちが「にゅうやま」と答える。今日も会社の女性にそう質問してみると、「にゅうやま」と答える。「たしか小学校は〝にゅうやま〟小学校と言ったはず」と。そこで新山小学校のホームページを閲覧してみると、そもそもアドレスにhttp://www.ina-ngn.ed.jp/~newyama/とある。「newyama」はどう見ても「にゅうやま」である。さらにこのところ子どもたちが大型紙芝居というものに力を入れていたようで、そのタイトルが「丹生山物語」なのである。なぜ丹生山をあてたのか定かではないが、明らかに学校では「にゅうやま」を意識している風に捉えられる。もちろん冒頭の話をしていただいた方によると、小学校も「にいやま」小学校と呼ぶのが本当のよう。そもそも「新山」を「にゅうやま」と呼ぶ固有名詞はないという。

 会社で聞いた際に若い彼は間違いなく「にゅうやま」でしょと言う。それは国道361号から県道210号へ分岐する箇所にある信号機に「Nyuyama」とローマ字表記されているからだという。「にいやま」と読むのだと教えていただいた方によると、この信号機、最初は「Niyama」と表記されていたという。ところが気がつくといつの間にか「Nyuyama」に変わっていたと。この信号機を通る方たちにとっては「新山」は「にゅうやま」なのである。以前にも記したように、そして松崎氏が言うように「丹生山」であったのかもしれないが、しばらく前までは「にいやま」であったことは確かで、村内でもそう読むのが「本当」のよう。会社にいる富県の方も「にいやま」と答えられた。ようは新山村から後に富県村の一部になり、現在は伊那市富県となっているが、そうした明治以降の流れの中では、明らかに「にいやま」だったようだ。

続く

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和合

2017-05-28 23:16:09 | 地域から学ぶ
 「あの道の悪さときたら〝天下一品〟」そう路線バスのドライバーに言わしめた道は、かつての県道深沢阿南線。もちん今もそう状況が変わったわけではないだろうが、そう言わしめた昭和時代にくらべたら、だいぶ整備されたといっても良いが、きっと地元のひとはもちろん、よそからやってきたひとには「危険」だと思わせる箇所はまだまだ多い。以前「お鍬祭り」に関連して同じ阿南町日吉のことについて触れたが、日吉もこの県道が走る和合の一部。しかし日吉はこの県道とは谷が異なり、売木川沿いにある集落。何度となく日吉を通る道のことはこの日記でも触れてきているが、阿南町の中心部と売木村の中心部を結ぶ県道は、日中ほとんど通る人がいない。おそらく日吉の集落関係者、あとは釣り人だろうか、通るとすれば。飯田方面から阿南町を経て売木村へ連絡するには別ルートの方が当然早いが、ちょっと別の道を走ってみようというひとにはお勧めだが、何より「落石」がいつあってもおかしくない。冒頭の深沢阿南線より険しい。
 
 さて、冒頭の言葉は昭和55年7月7日付け信濃毎日新聞朝刊に掲載された特集記事「道ー新たなアングル」の26回目の記事のもの。山間地の多い下伊那地域にあって、その公共交通を担う信南交通のドライバーの口から語られたもの。同特集には大きな写真が掲載されているが、「落石注意」の標識とともに、ロックシェードの上に「これでもか」というほどに落石が留まっていて、いつかロックシェードが押しつぶされるのでは、と思うほど。話題の中心はこの道沿いにある和合集落だ。当時地区には159戸の家があったという。現状を調べていないが、険しい道沿いにあるだけに、戸数の減少は否めないだろう。とりわけ整備されたといっても「落石注意」の状況から変わっていない箇所が今でも多い。西條の早稲田神社裏手のあたりから林道が整備され、もし県道がストップしたとしても和合まで連絡する道は確保されているかもしれないが、あくまでも林道であって、そちらも通行止めにならないという保障はない。近年豪雨というものがこの地域にはなかった。したがって比較的穏やかな山間の景観を保っている〈ようは地肌がむき出しになったような箇所は目につかない〉が、ずっと災害が起きないという保障もない。とりわけ山間の孤立した地区として和合は比較的大きな集落。行政にとってもこの地区をどうしていくかというのは課題に違いないのだが、とりわけ「念仏踊り」に代表されるように民俗という視点で貴重性が高い地域というあたりが足かせにならなければ良いが、などと思ったりする。
 
 記事では飯田下伊那の国道県道改良率は県平均を10ポイント下回る38パーセントと記している。もちろん県下最悪だという。「ここにだけ光をあてろというのは無理かもしれない」がギリギリの状況を「道」という観点で示すには十分な例だったよう。同特集には同様の扱いの記事がほかにも登場するが極めつけとも言える事例だった。ちなみに同記事において「そこから先の国道151号線も改良されなければならない」とあげられた国道151号線は、この後、平成の時代を迎えるまでにほぼ全面改良されている。
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自治会は行政の下部組織か

2017-04-24 23:50:48 | 地域から学ぶ

 近ごろ「議会だより」なるものが配布された。議員が何をしているんだ、と疑問符をあげる住民に対しての証拠品なのかもしれないが、いまどきは議会の内容が有線放送で流されるし、議事録もネット上に公開されているので、証拠品はいくらでもあるのだが、それでも日々忙しい住民に告知する意味では大きな証しなのだろう。そんな議会だよりに「自治会」という単語が頻繁に登場するのは、それだけ自治会に行政が頼っているせいなのかもしれないが、議員が自治会をどう捉えているによっても登場する頻度は違ってくるのだろう。とりわけ気になった議員の発言が二つほど。

 ある議員は「今後、自治会再編成の取り組みが必要と思うが」と投げる。その理由なのだろうか、「持続可能な行政運営に効率、効果、コストより進める必要と考える」と言う。自治会が自治会費を徴収して運営している部分に効率とか効果とかコストなんて行政が口にする必要もないこと。自治会とは行政に対してどういう存在と考えているのか、そこから説明してもらわないと意図が見えないのだが、こうした発言に疑問なく応える行政側は、自治会を役場のコストダウンのために存在している組織だと、少なからず考えているのだろうか。考えてみれば自治会ほどムラ社会の姿を今に継承している存在はないかもしれない。もちろんかつてのムラ社会のことなど、今の自治会にかかわっている人たちなど知る由もないのだろうが、とはいえ毎年役が変わっていくような変転の著しい中で、それほど変化なく継承されているのは、そもそも役員任期が「短い」が故のことなのかもしれない。短期間に変えることはできないし、慣れないから前例に倣うことになりがち。そこへ継続している行政が口を出すと、その風になびいていく。言ってみれば行政が自治会を意図のまま操ることも容易いのかもしれないが、行政はもちろん自治会が行政の下部組織ではないこともよく知っている。返答の中で町長は、「住民生活に重きをおいた行政運営を図っていきたい」と言う。ここでいう住民生活とは、住民の考えに従うということだろうから、そもそもの議員の発言に価値は見られない。

 もうひとつは自主防災のこと。震災以降にわかに自主防災が叫ばれ、その単位は結果的に自治会というところでまとまる傾向にある。ふだん顔を合わせる人々によって組まれるのがごく自然なのだろうが、「自治会によって防災対策の温度差がある」とある議員は言う。そもそも自主防災とは自治会に任せて整えるのが良いのかどうなのか。とはいえ、「自治会で防災会議をを開いて周知させていく」という町長の応えに、やはり自治会は町の下部組織か…、などと納得したりする。

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ある自治組織のこと

2017-04-23 23:57:07 | 地域から学ぶ

 「石尊信仰の今を訪ねて・後編」で触れた鍛冶町会館の入口脇に、「鍛冶町」という町を解説した看板が立っている。そこには「天正十一年(一五八三)真田幸村の父昌幸が、上田城を築いたあと、真田氏とゆかりの深い海野郷海善寺村(現東御市)の鍛冶屋を移して造った町。宝永三年(一七○六)には三十二軒、明治五年(一八七二)には十六軒の鍛冶屋があった」とある。海善寺は東御市金井まで4キロほどのところ。東御市旧東部町に石尊信仰がよく残っているところからも、鍛冶町に移り住んだ鍛冶屋さんが持ち込んだ石尊信仰だったのかもしれない。

 鍛冶町会館の2階に階段を上ると、そこに「自治会役員」という役員それぞれの名前を記した表札が掛けられている。自治会役員を示す表札についてはこうした自治会館や集会施設でよく見かけられるが、黒塗りの表札に白字で示した風格のあるものは初めてみた。同じ空間に「平成29年 鍛冶町自治会役員名簿」なるものが貼り出されていて、そこには「1月26日」と示されている。確認してみなかったが、ここでは1月から12月が役員年度なのかもしれない。こういうとき、わたしの住む地域の自治会とすぐに比較してしまう。鍛冶町では隣組が22組あり、それを五つの「部」に分けている。部ごとに「議員」という人がいて、隣組の多い部には2人、あるいは3人の議員が割り当てられている。したがって議員は10名を数え、そのほかに議長と副議長という役割の人がいる。自治会内に「議会」というものがある例は初めて見たように思う。隣組は1組から31組であるが、前述したように22組しかない。ようは「4」とか「9」といった組はない。そのほか「15」とか「「17」といった欠番があるのは、統合されたのだろうか。隣組の役員とは別に多様な役員が配置されているのは、わたしの住む地域と同じこと。そんな役員名を見ていてわたしの地域にはない役員が割り当てられている。例えばこの日石尊講の話をしていただいた小宮山さんだ。その役名は「河川愛護委員」というもの。マチの中ということ、そしてとりわけ小川が流れているということが、こうした役員を配置するきっかけになっているのだろうか。また、町中らしいと言えるのが「商工振興会長」。「シニア鍛冶町会長」とはかつての老人会にあたるのだろうか。ほかに「壮年会長」というものもある。こうして一覧を見ていくと、最後の欄外に「青少年推進委員、育成会長、北小・三中PTA支部長は4月改選」と書かれている。やはり鍛冶町では1月から12月が任期のよう。黒塗りの表札があったり、議員がいたり、そして今でも1月から12月を年度としているところから、自治がこの空間だけで成り立っていることを強く感じる。わたしの住む地域の名ばかりの自治組織とは構え方が違う、そう思った。またわたしの住む地域と役員一覧を見ていて大きく異なるものがある。信仰に関することだ。わたしの住む地域では、神社に関する役が自治会に組み込まれている。裏を返せばだからこそ自治組織とも言えるのかもしれないが、こうでもしないと神社が維持できないからなのだろう。以前にも触れている通り、農村部よりマチの中の方が、自治会への関わりが高いのではないか(もちろん意識も)、そう思わせる役員一覧である。それを証すように、役員一覧の横に「会館清掃当番表」が掲げられている。月に2度行われる清掃について年間に行われる24回の清掃日と、その当番が誰なのかを年の始めに決めて一覧化している。「すばらしい」と思わず独り言を口にしてしまった。こういった自治組織の予算を見てみたい、そう思った。

 

 

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自治会で気になること

2017-03-26 23:15:30 | 地域から学ぶ

 自治会のこと、隣組のこと、いわゆる身近なつきあいについてはこれまでにも頻繁に扱ってきた。来年度は久々の隣組長ということもあって、こんな傾向の日記が増えるかもしれない。

 自治会の年度末総会の季節である。わたしの暮らす地域の総会もあったわけであるが、気になること2点。これに対して意見したとして、ひんしゅくをかって暮らしにくくなってもいけないので発言もしなかったが、だいぶこの地域に慣れてきたわたしにとって、今度の隣組長は次の隣組長になる数年後を見通して、ひとつの峠になるのかもしれない。

 ひとつは、事業報告だ。数十回という自治会長のかかわった業務を見渡しとき、町の主催する事業への参加、あるいは支援は果たして自治会長がしなければならないことなのか、ということ。例えば町が主催するマラソン大会への交通整理員としての参加。報告の仕方もあるだろうが、これは大会主催者から支援するようにどの程度アプローチがあったものなのか、そのあたりは報告だけではわからない。自治会長が率先して協力する場合もあるだろうし、自治会へ協力依頼があったから任意であったものの仕方なく協力したものなのか。同じような町が主催者であろう催しへの参加がいくつか見られる。行政から自治会に協力費という飴が出されているからしなければならないのか、まったくもって自治会を行政の支配下に置いたような図式がうかがえて気になる。そもそも協力費とはなんぞや、というところにも行き着くだろうが、自治会の内情に詳しい者はわかるが、そうでない者にはわからないこと。そもそも内情に詳しい人たちですら、それらがどういう意味であるのかわかっているのかどうか。自治会の申請事案に対して協力しているから自治会は支配下であるという意識を、行政側が持つのももちろんだが、わたしたちも抱いてしまっては立場がわからなくなってしまう。そういう視線で自治会を見ると、疑問点はたくさん湧いてくる。

 もうひとつはさかんに言われる自治会費のこと。自治会費の使用目途はそれほど異論はないが、同時に報告される公民館活動だ。おそらくそのほとんどが飲み食いと言っても言い過ぎではないのではないだろうか。会計でもやってみないと真実は解らないが、何の事業にいくら使った、という報告からでは使った目的はわからない。そもそも他の自治会ではどう使われているのか、いくら徴収されているのか、そんなことに心が向く。それぞれの自治組織ごと違っていて当然だとは思うが、そのいっぽうで自治会加入率が上がらないといってその会費負担を抑えられないかと言っている行政は、将来を見据えた提案をしていくべきだと思うのだが…。最も驚いたのは事業が雨天で中止になったというのに、慰労会だけは予算通り消化したというもの。加えて報告では「非常に盛り上がった」と。これを見る限りその予算が飲み食いであったということがわかる。自治会の規模によっても異なるだろうが、高齢者世帯のように無縁な方たちには、はっきりいって無縁な出費といって差し支えないだろう。もちろん公民館活動に無縁なほかの世帯も同様なのだが…。かつてのように世帯に何世代もが集い、必ず子どもたちがいるというような画一的な環境ではなくなった今、飲み食いはあくまでも参加者が自ら行うものだろう。

 そんなことを思っていたら、ひと世帯自治会を脱退したいと願い出たという。確かに「あの人なら」という声も聞こえるが、それだけではない問題があることを、自治会を担っていく人たちは、そろそろ考えなくてはならないのではないだろうか。

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