Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

舞台と灯籠

2017-09-23 23:07:53 | 民俗学

「小屋掛け」より

重柳「舞台」

 

角灯籠

 

法被と角灯籠を持って帰る伍長

 

火を灯された角灯籠

 

神社入口の5本灯籠

 

舞台上の角灯籠

 

矢原公民館を出発するお船

 

神社に鳥居前に着いたお船

 

拝殿前に入るお船

 

帰路の舞台(井伊直虎の木偶)

 

笛(すべて女の子だった)

 

 お船の調査だから「舞台」と呼ばれるものは対象外、だとは思うのだが、一緒に調査に入っている大学院生のSさんとは舞台の位置づけがはっきりしないとお船も見えてこないよね、と何度も言葉を交わしたもの。午前8時から舞台を造り上げるのだが、これを担うのは保存会ではなく、伍長の方たち。重柳には8の常会がある。ひとつの常会内にいくつかの隣組があり、その長が「伍長」と呼ばれ、重柳には27人の伍長がいるという。今年は1から4常会までが舞台作り、5から8常会までは幟立てと灯籠立てを行った。もともとは舞台も青年団が作って曳いたというが、保存会が担うようになった段位で既に伍長の人たちによって舞台は造り、曳かれていたという。祭りのほとんどを保存会が仕切っている中で、伍長の人たちが担う仕事があるというのは特徴的だ。この舞台はお船と違って途絶えることなく続けられてきたという。今でこそ船中心であるが、もしかしたら舞台に意味がより深い意味があったのかもしれない。写真でも解るように、ここの舞台には腕木というものが付けられ、これが曳行時の舵となる。伍長の人たちは毎年これを担うわけではないため、写真を見たり、経験者の指示に従って舞台を造り上げていく。今でこそ舞台を煽ることはしないが、かつては張り出しているハネ木が壊れるまで煽ったという。煽るからこそ、この舞台には腕木が付けられるのである。腕木がないと舞台を前後に煽ることはできない。煽った形跡が「腕木」に残っているというわけだ。

 5から8の常会の人たちによる灯籠などの準備の方が、4までの常会の人たちによる舞台製作よりも時間を要した。聞けば1本灯籠の数は35本ほどあるという。これを重柳地区の中に立てる。そのほか5本灯籠というものを神社の入口に立てる。エリアの広さに比べて灯籠の数が多いという印象を受ける。さらに伍長の方たちはすべての準備を終えると神社拝殿の横に並べられていた角灯籠を二つずつ手にして家に帰っていった。自分の住む組の中の道端にこれら角灯籠は灯されるのである。

 さて、この日舞台の準備を終えた後、夕方まで時間に余裕があった。Sさんとともに昼をとった後、隣の旧穂高町矢原のお船を見ることに。公民館と神社の間の距離はそれほどない。矢原ではこの間を曳行するのみだということで、午後1時半に公民館を出発した船は、片道20分ほどで神社に着いて神事となる。神事終了後の午後2時半に神社を出発すると、15分ほどで公民館に戻る。曳行時間はわずかなもので、この曳行のためにお船が造られる。重柳と違って、宵祭りにもお船を曳行するというので、集落の方たちに披露する時間はそこそこあるものの、これだけのためにかけるエネルギーは並大抵のものではない。矢原では3っつの地区が年番を順繰りに務めるといい、年番がすべての準備を行うという。重柳と違ってお船には腕木はつかず、煽るようなことはしない。船の骨格はやはり舞台のような櫓であり、そこにナラの木を使って船型に膨らみをつけて造られる。木偶は穂高の人形師にお願いして用意するという。またお船の後ろに舞台が曳かれ、、こちらにも木偶が乗せられる。今年は井伊直虎の木偶であった。谷原には2台の舞台があって、宵祭りに曳かれるものと、本祭りに曳かれるものは別のもの。そして宵祭りの舞台は重柳のものに近く、本祭りに曳かれるものはまさに舞台らしいもの。また矢原ではお船が時計回りで神社に入ると、拝殿前に止められ、神事終了後そのまま神社を出て公民館に帰っていく。いわゆる他のお船のように境内3周回る、というようなことはない。

続く

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忙しい日々

2017-09-22 23:09:15 | つぶやき

完成した木偶

 

 

 義母が亡くなった翌日に重柳に入っているし、母の亡くなった3日後にも重柳に入っていて、本来なら神社にも足を踏み入れているから良いことではない。重柳で聞いても、保存会員の家に不幸があれば、関わるのを避けるという。準備には手を出したとしても、祭りには行かないという。基本的に趣味で行っているわけではなく(とはいえ現地で聞くことはわたしの意図に沿っているから趣味的ではあるが)、仕事で行っていると割り切っている。そう言える根拠は、「保存会員よりいるね」と言われるほどここ数日は重柳に足を運ぶ事になる。そんななか昨日も記したように稲刈りが気になるところから、今日は午前中に稲刈りをし(わたしでなければできないハザ作りをするために)、午後は提出期限になっている仕事を整理し、その後重柳へ向かった、というように仕事が忙しいのに行かなくてはならないという義務感にある。ということで今日はお船に木偶を載せて仕上げをするというお船製作の最終日。子どもたちの笛の練習も今日が最後となる。重柳には一緒に調査に入っている大学院生のSさんとともにお邪魔した。

 その年のお船の飾りつけは、保存会の飾り付け班の班長さんの意図に任されている。したがって班長さんのイメージしたもので仕上げられる。今年の題材は〝独眼竜〟である。もちろん主役は伊達政宗。既存にある人形(元は穂高の人形師に頼んで作ってもらったもの)を工夫してそれらしく細工していく。この1ヶ月ほどかけて少しずつ準備がされてきた。相対するのは史実はともかくとして真田幸村。今年は2体の木偶で表現される。よそでは穂高の人形師に頼んで場面に応じた人形を用意するところも多いが、ここでは自分たちで工夫して場面を作り上げる。だから近くで見ればとても素人っぽいのだが、少し離れて見ればそれらしくちゃんと見える。舞台張りが製作した船の上に、馬と木偶2体という具合に乗せて行くのだが、祭りの本番では船を煽るため、木偶が落ちないように固定するのに時間がかかる。そして何といっても木偶の持ちのものだ。刀を高く振り上げる伊達政宗の持つ刀が振り落とされないように固定するのに苦労する。年によっては午前零時を過ぎることもあるという木偶乗せは、この日のうちに終えなくてはならない。宵祭りの朝からは「披露」ということになるからだという。乗せた木偶の周囲のあらを隠すように細工する最終段階を終えて、午後10時半にはお船の前で飾り付け班の人たち全員で記念撮影をして作業を終えた。

 既に暦も変わろうかという時間も迫っていたのでお暇しようとしたら、会長さんたちから「ラーメンを食べてって」とお誘いが。班の方たちは仕事を終えたということでこれから慰労会をされる。ということでせっかく声を掛けて頂いたので遠慮なくいただくことに。この日子どもたちの笛の練習も最終日だったということもあって、子どもたちにもラーメンが振舞われた。このラーメンを作っていただける方たちは、保存会の中でも「催事班」というまったくの雑用係。昔はなかった班だというが、こういう場面を支える人たちも必要だということで、近年設けられた班だとか。それぞれが分担して、この大掛かりな祭りが成り立っていることをあらためて感じたわけである。

 終電のなくなったSさんを松本市内まで送り届けて、わたしは家に向かった。既に暦は変わろうとしていたが、明日の朝は再び午前8時からの舞台作りにとんぼ返りすることになる。

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稲刈り日和

2017-09-21 23:10:49 | 農村環境

 

 会社でも「稲刈り」だからといって休みをとる人が…。かつてならもっと農作業だからといって休みをとる人がいたものだが、今は珍しくなった。なぜならば自ら農業をしている人が減ったこともあるが、農家であってもすでに農業をしていない人も多くなった。もちろんそれは「農家」ではないのだろうが…。「こんなはずでは…」、そう思っている今年の9月だ。このところ盛んに触れているお船祭りの調査で、土日といえば埋まっている。加えて立て続けに母を亡くして義理も忙しかった。ということで稲刈りをする日がない。先日もお船祭りの現場でこのことについて聞いてみた。ようは稲作地帯だから、農業が忙しくはないのか、と。かつては毎日のようにお船の準備をしたというから、農繁期の中でどうやりくりしていたもなのか。かつては収穫がもっと遅かったから影響なかつたのかもしれない。

 すっかり稲刈り日和となっているここむ数日、天候の様子をうかがって「明日は休みます」という会話が聞こえる。今年になって何度か触れているが、伊那市から辰野町まで広がる段丘上の西天竜の水田地帯は、数年前に比較して稲を植えている水田が減った。転作している水田が目立つようになった。それに合わせるように、以前ならこの季節になると水田に波のように並んだ稲はざがずいぶんと少なくなった。もちろん稲を植えている水田が減ったから当然なのだが、稲が植わっていた水田でもコンバインで刈ってしまう水田が多くなった。何を意味するかといえば、農家が担い手、あるいは営農組織に作業を委託している、あるいはすべて手放している農家の面積が増えているということだ。国の施策がその方向だから当たり前かもしれないが、ここ5年でずいぶん変化したといえる。

 とはいえ西天竜の水田は1反歩程度と小さい。今日も段丘崖のようなところにある小さな水田に、大型のコンバインが入って稲刈りをしていたが、いつまで経っても終わらなかった。見ていると後進しては前進を繰り返して刈っていた。水田が小さくて回転するより前後の動きだけした方がやりやすかったようだ。現場のすぐ隣の水田でバインダーで稲刈りを始めたおじさんは、隣の家の水田を刈っているとか。忙しいから刈って欲しいと頼まれたとか。刈り倒すだけ頼まれて、持ち主は明日仕事を休んではざ掛けをするんだとか。あちこちで稲刈りの最盛期である。

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縦書き文章のこれから

2017-09-20 23:59:45 | つぶやき

 「東経13755分、北緯3552分に位置し、標高は845㍍、地区面積は2425平方㌔である。そこに2659世帯、6476人(平成29年4月現在)の人たちが住んでいる」といった表記に気になるところはない。これはあくまでも横書きであるからだ。これを縦書きで表記したらどうだろう。本日記が縦書きにできないから、実際に実感できないが、青字の部分を縦に1字ずつ並べ、赤字の部分は2字を横に並べて表記したとしたらどうだろう。読みにくくないだろうか。

 今までも気にはなっていたのだが、いざ自分の文が漢数字を洋数字で縦書きされると違和感が強い。上伊那郷土研究会の『伊那路』へ投稿したものが校正で戻されてきた。あらためて原稿にあった漢数字をほとんど洋数字に書き換えられている姿を見て疑問符だらけ。おそらく編集方針なんだろう、そう思って印刷所の担当の方に漢数字に戻してくれないか、と頼むとやはり方針だという。教えていただいた2年前の9月号の「寄稿のお願いと要領」というものを確認した。年号は洋数字で1字ずつ縦に並べるのだという。とくに「読みやすい表記への統一を図るため、入稿原稿を右記①~③の表記に、そのほか漢数字を洋数字に変更したする場合がありますので、ご了承ください」とある。①~③は、前述の漢数字は洋数字にというものと、見出しも漢数字ではなく洋数字にするということ、註の入れ方に関することの3種類だ。とても気になるのが「読みやすい表記」という部分。果たして縦書きの文を洋数字で並べたものが読みやすいのだろうか。前述したように、西暦の場合は4桁の数字を1字ずつ縦に4つ並べた表記をする。ところが和暦は2桁年の場合2字を横に並べて1字扱いで表記される。数字が縦に連なったり、横に連なったり混在するのである。ところが引用したものについては漢数字で表記するから、漢数字と洋数字が同じページに混在することも珍しくない。事例としてこんなケースも紐解くとあった。2500㍍を2500と縦に表記したすぐ後に、「2千㍍」という表記をしたもの。混在が混迷となっているのではないだろうか。また「生徒1人の尊い命」という文を縦に並べると「1人」が縦に並ぶ。「一人」が適していると思うのだがどうしても「1人」表記となる。

 こうした表記が他にもあるのだろうか、そう思って他誌を見てみても、縦書き文書に洋数字を使っている例はない。本当にこれが読みやすいのか、そう思う。そこまで現代人への読みやすさを提供するのなら、いっそ横書きスタイルに変更した方が今の人々には受け入れられるのではないだろうか。というか、それほど縦書き文がわたしたちの生活から消滅しているということなんだろう。そう思って新聞離れと言われる今の新聞を開いてみて気がついた。新聞の表記は『伊那路』と同じだ。これからこういう時代がやってくるのだろうか。わたしにはどうみても読みにくいのだが…。

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寒々としたこのごろ

2017-09-19 23:09:36 | つぶやき

 夕方だというのに、「今日は空いている」そう思って入ったコンビニで、レジには1人、2人それぞれがふた手に別れてレジで精算しているようだ。だから「わたしも」すぐにでも精算して店を出られ、そう思ったのだか、なかなか前の客の対応が終わらない。ふた手に別れたそれぞれの先客は、2人とも「おでん」を注文しているのだ。あれや、これや、と。確かに涼しくなったが、先客がいずれもたくさんのおでんを注文しているのには驚く。もうそんな時期なのか、と。

 夏のあいだ寝床に使っていたひんやりする敷パットは、もはや冷え冷えして「そろそろかな」と思っていた。何度となく朝までの間に目が覚めてしまうのはそのせいかもしれない。半袖の夏用パジャマも季節はずれになりかけていた。ということで、母の葬儀を終えた翌日、冷え冷えする寝具をすべて交換した。朝方の気温が15゜を下回るようになると、もはや夏物は心地良い眠りを迎えさせてくれないようだ。今年は9月に入ってから、すっかり涼しくなって、とりあえず半袖で会社には通っているが、通勤時間帯は寒いくらいだ。「コタツが欲しい」と口にするのも、そう遠くないのかもしれない。

 今まで母の入所していた特養に何度となく足を向けていたから、ふと気がつくと「あそこへ向かう道はもう通らないのだ」とひとり言を口にしたりする。この春伊那に通うようになって、今まで以上に顔を出せると思っていたのに、仕事が忙しくて今まで同様に、週一がせいぜいだった。仕事に余裕ができる「冬場になれば」と思っていのだが、それは叶わなかった。季節の移ろいの中で、あらためて母がいなくなったことを実感するのだろう。顔をだしても「ありがとね」と少し時間が経つと口にしていた母。「兄は来たの?」と聞けば、「仕事が忙しいんだら」と答える言葉を何度も聞いた。特養に移る前にもそうだったが、甥や姪もほとんど家を離れた母のところに顔を出さなかった。とりわけ特養に移って以降、一度も足を運ばなかったようだ。寂しさもあっただろうが、一度もそんなことを口にすることはなかった。「みんな忙しいんな…」、そう言って自分に言い聞かせていた。確かに「早くお父さんのところに逝きたい」とは言っていたが、「痛い、痛い」と言いながらもボケないように詩吟を口にしたり、本を読んでいた。しかしながら、以前にも書いたように、特養はリハビリがなく、周囲の同居人も老健時代にくらべるとしゃべる人がおらず、会話のない暮らしに部屋にいることが多かった。果たしてそこまでして特養に入る必要性があったとは、わたしにはとても思えないが、それを口にすることはしない。そして母は逝った。手術後意識が戻らなかったから、生きた言葉を交わした身内はここしばらくの光景から、わたしと義理の姉くらい。残念でならない。

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2017年台風18号

2017-09-18 23:31:34 | 自然から学ぶ

 

 朝起きると、庭にはサンシュユの葉がたくさん落ちていた。風が強かったことがわかる。「台風18号」という台風が印象深い台風であることは、これまでにも何度か触れた。仕事の上でもこの名称はたびたび聞こえる。ちょうど9月ごろになると、この数を数えるのだろう。母の通夜の席でも、建設資材を扱っている従姉が「このごろ台風がこないので仕事が少ない」と言い、今回の台風も「きっと素通りだ」と予測していた。飯島で観測史上最大の風が吹いたとニュースで言っていたが、確かに風は強かったのだろうが、あくまでも瞬間の風速であって、長時間ではなかった。

 従姉が予測した通り、台風がやってきた夜から朝にかけて、このあたりで降った雨量は微々たるものだった。気象庁の飯島観測所のデータでもトータルで10mmにも満たない。その証拠が上に掲載したアメダスの時間ごとの移り変わりだ。データが重かったので30分おきではなく、1時間おき、それも少し小さくして編集してみた。おわかりのように、17日午後9時の時点では長野県内はほとんど雨が降っていない。長野県を避けるように雨が降っている。そして時間が経過しても、いわゆる強い雨が降る場所は、長野県を避けるように移っていく。せいぜい県境域に強い雨をもたらしているものの、内部では雨の量はもちろんのこと、その時間も短かった。なるほどこんなことがいつも繰り返されていると、県内の河川は穏やかなもの。河川中に木が繁茂して当然なんだろう。

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水難除け

2017-09-17 23:56:04 | 歴史から学ぶ

 

 4月に「石尊信仰の今を訪ねて」を記した。石尊というと「東信」という印象がわたしにはあったが、それは南信ではあまり耳慣れない信仰であったからだ。4月の石尊信仰を訪ねた例会後に巻山圭一氏が「長野県民俗の会通信」259号へ例会報告をされた。その中で「私にとっての地元、松本・安曇野近辺ではあまり「石尊講」「大山講」というのは聞かないと思っていたのだが」と記しながら、実は松本でも犀川流域や松本市内に石尊信仰が展開していたことについて触れている。

 先日来安曇野市重柳を繰り返し訪れているが、重柳の八幡宮の境内に「石尊大権現」の大きな碑が建っていることに気がついた。向かって右側に並べて「大天狗」、左側に「小天狗」と刻まれている。背面には「天保二辛卯歳 二月吉日 村中」と刻まれている。前傾の巻山圭一氏の報告の中に『松本市史』民俗編の記述から引用した事例がある。それによると女鳥羽川が田川と合流する岬状の地点に、石尊神社(石尊大権現)というお宮があるという。周囲は公園に整備されていて、「犀川通船船着場跡」という石碑が建っている。この犀川通船が信州新町まで開通したのは天保3年だったという。このことについて巻山氏は合流地点という立地から「洪水や氾濫を防ぐために石尊神社が祀られ、石尊講があって、大山にも代参がなされたものであろう」と述べている。そう考えると重柳の中を流れる中曽根川は、旧犀川河床だったともいうから、犀川通船開通のころ建てられたこの「石尊大権現」も水難除けを意図したものだったのかもしれない。

 

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長野県における民俗研究のこれから①

2017-09-16 23:21:53 | 民俗学

 長野県民俗の会では、11月18日の総会において「現代民俗学」をテーマに講演と討議を企画している。関西学院大学の島村恭則先生に講演をお願いし、長野県にいて民俗研究をしている者が、これからどのような研究対象を求め、どのような研究をしていくのか、そんな視線で議論していこうというのだ。その一環として、今日の207回例会では、國學院大學名誉教授の倉石忠彦先生にお願いして「都市化の中の民俗学」と題した講演をしていただいた。従来の民俗学と言って良いのか分からないが、これまでの「民俗」という表向きのイメージで捉えている方たちには少し共感性というところでは難しさがあるかもしれない。例えば島村先生の研究対象をうかがってみるとそれは歴然とする。関西学院大学の研究者データベースに、島村先生について次のように記載されている。

◆フォークロア研究、現代民俗学専攻。人類のヴァナキュラー(その土地の固有のもの、固有の様式であること。また、そのさま。デジタル大辞泉より)な創造性についての究明、Living Folklore(現代民俗)のグローバル比較研究を課題とする。 ◆近年の具体的な研究テーマは、以下のとおり。 ①北米、ヨーロッパのフォークロア研究の動向をふまえた、フォークロア研究理論の内発的体系化。②物質文化(material culture)と表現文化(expressive culture)をめぐる学際的研究。③現代伝説(contemporary legends)のグローバル比較研究。④地方都市における花柳界の盛衰と文化資源化に関する民俗学的研究。⑤引揚者が生み出した戦後の社会空間と文化に関する民俗学的研究。⑥在日朝鮮半島系住民が生み出した戦後の社会空間と文化に関する民俗学的研究。⑦瀬戸内海沿岸の人の移動と都市形成に関する民俗学的研究。

 後半部分はまだ分かるかもしれないが、前半部分については具体的にはイメージが浮かんでこない。こうした研究をされている、言ってみれば都市にいて民俗学をされている方と、地方に暮らしていて民俗研究をしている者が、どう相互理解をし、現代民俗学を議論できるのか、そんなところが注目されるところだろうか。

 企画側としてはプレシンポとして位置づけていた今回の倉石先生の講演はいかなるものだったのか、県内で民俗研究をしていく者として何が見えたのか、そんな部分を倉石先生の講演内容を紐解きながら考えて行ってみたい。

 倉石先生の表題は「都市化の中の民俗学」というもの。まず、日本民俗学会の発行する「日本民俗学」と長野県民俗の会が発行する「長野県民俗の会会報」で扱っている最近の論文の内容を比較すると、前者の日本民俗に見られる研究者の主たる関心は近現代における都市社会における文化事象であったり、国際的研究活動にある。いっぽう後者は現代的事象に関心がないわけではないが、民間信仰に関する関心が強い。では古い時代の日本民俗学の関心はどうであったかというと、長野県民俗の会の関心とさほど違いは見受けられなかった。ではなぜ現代に至って両者の間に差異が生じたのか。時代が変われば研究者の関心が変わるのは、現代の生活実態を踏まえて研究者が研究テーマを見出すのなら、民俗学にとっては当然のことながら、なぜ全国学会と地方学会の関心のあり方が違うのか、考えておく必要があるという。

続く

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消えるのか、「枝義理」

2017-09-15 23:22:44 | つぶやき

 ここ数日葬儀のことばかりだが、立て続けの不幸だったから仕方ない。とはいえ、今年の正月に義父を送り、一昨日義母、本日実母を送る。そればかりではなく、周囲をうかがうと先ごろ叔父さんを亡くしたし、ここにきて入院したり身体の不調を訴えたりする親戚が多い。みながみな90歳前後の年齢になってきているから当然のことかもしれないが、あまりに続くと不安が募る。今日の葬儀でも伯父さんや伯母さんで参列できない人が数人おられた。父の葬儀から数年経っているが、あの時とは状況が変わってきている。父の葬儀後の精進落としにあった顔が、今日の葬儀にはないのである。

 出棺の折、兄は狭いからといって、座敷の縁側から出棺するのを辞めて玄関から出棺することを選択した。しかし、親戚の中に「狭くたって出せるのならお父さんの時と同じようにしてやったらどうか」という声があがって、兄が折れて座敷の縁側から出棺することに変えた。よく言われるように出棺は玄関からするものてはないと言われている。もちろん迷信に過ぎないのだろうが、意外と葬儀の中には忌み嫌うものが多く、いまだ踏襲しているものは多い。とはいえ前述したように父の時とくらべて変化している部分もいろいろあるのだろう。とりわけ気がついたのはわたしに宿題として課せられている「枝義理」のことだ。母の場合亡くなった2日後に葬儀となったため、意図的に知らせない限り葬儀があったことを知らない人も多いだろう。父の際にあった「枝義理」が、今回はひとつもなかった。これは「枝義理」の消滅を意味するものなのか、それとも告知不足によるものなのかは分からない。

 さて、先日妻の母の葬儀を前にやってきた辰野町の親戚に「枝義理」のことを聞くと、「枝義理」という単語は知っていて、その意味についてこう話された。「会社関係のように明らかに弔意を表す相手が異なる場合」と。我が家のあたりで行っている、喪主以外の人へ香典を出す、というものとは少し違った解釈をされていた。

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葬儀の日取りを導く決めて

2017-09-14 23:46:22 | つぶやき

 母の葬儀の日取りを決めるのにすったもんだした。なぜかについては昨日の妻の母の葬儀と比較するとわかる。火葬場での点火はほぼ同じ9時ごろ。火葬時間は変わらず、収骨まて含めて1時間半から2時間弱というところだろうか。ところが葬儀の始まりは妻の母の場合は午後2時、ところがわたしの母は正午、ここに2時間の差がある。妻の母の火葬場は家から火葬場まで少し遠い上に、葬儀場までの距離もあったから、もし妻の母の葬儀を正午に始めるのは物理的に不可能。わたしの母の場合も無理があるから葬儀の時間を午後1時にしてほしいと言ったのだが、葬儀場はOKだが、檀那寺がNO。「正午葬儀で間に合うはずだ」、そう寺の大黒さまが譲らない。それほど生家の檀那寺は発言力が強い。檀家が希望を言っても聞いてくれない、という話は常日ごろのこと。格式が高いから檀家間での不満もよく耳にする。

 そもそも近くに住む親戚に火葬から葬儀を1日で済ます、そう説明すると「珍しいな」と感想が漏れるほど、この地域では葬儀の前日に火葬をして翌日葬儀というケースが多いようだ。それは葬儀を正午に始める日程にある。なぜそれほどまでに正午にこだわるか。禅宗の寺である檀那寺、葬儀には5人の伴奏がつく(戒名にもよるが)。この伴奏に加わるお坊さんが下伊那地域にある寺の住職であることが多い。下伊那地域では妻の母の事例のように、午後2時ころ葬儀が始まることが多い。ということは正午に上伊那地域で葬儀をした後、下伊那地域に行って葬儀を掛け持ちできるというわけだ。これが午後1時に上伊那で葬儀を行うと、午後2時の葬儀には間に合わない。ようは1日のうちにふたつの葬儀を掛け持ちするためには、上伊那では正午に葬儀を始めないと困るというわけだ。格式が高くこの地域の元締め的存在の寺が葬儀の手綱を握っている、ということになる。その証拠に、驚くべきことは、妻の母の葬儀がまだ行われていたのに、わたしの母の葬儀に伴奏でやってくる寺の名前に妻の母の葬儀で導師を務められている寺の名前が並んでいた(母は義母の葬儀が始まる直前に亡くなった。それから母の葬儀の段取りとなったわけで、おそらく住職はまだ葬儀中だったと思う)。ようは「〝泉〟出ずる」で触れた住職が、わたしの母の葬儀の伴奏でやってくるのだ。このことは妻の父の葬儀以来その住職と会話をする機会が増え、わたしの生家の檀那寺の伴奏にも「よく呼ばれている」ということは聞いていた。「もしかしたら」と思っていたらその場面が訪れたというわけなのだ。それも1日おいてのこと。きっと住職も驚くことだろう。前々日に導師を務めた家の主だった顔が、2日後に再び主だった親族に並んでいるのだから。

 必ず掛け持ちするとは限らないはずなのに、当初から「正午から」を押し通す生家の檀那寺には融通は効かない。

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母、逝く

2017-09-13 23:59:44 | つぶやき

 こんなこともあるんだ、そう思わせる今日の出来事。

 母が亡くなった。義母と違って眠っているような顔は、声を掛ければ返答しそうなほど、特養のベッドの上と変わらない。わたしが訪れると夕食後ということもあって、このごろは眠っていることが多かった。もっと早く行けば、まだベッドの上で身体を動かしていることもあったのに、夏場ということもあって草刈を終えてから訪れる、あるいは外出した際に合わせて訪れると夕食後ということが多かった。だから眠っている顔はこのところよく見ていた。その顔と今日の顔も変わらない。

 昨日も触れたように義母の通夜を終えて家に帰ったころ、兄から立て続けに携帯に電話が入っていることに気がついた。「何かあったのだろうか」、そう思っていると固定電話が鳴る。兄からであった。2日前に脳梗塞になって特養から救急車で病院に運ばれた。その際の兄からの電話では救急病棟にいるが、話もしているし、半身に影響はあるがもう半身は動いていて「心配ははない」という印象だった。翌日会社帰りに寄ってみるとたまたま義姉と一緒になって病室で母の様子をうかがった。眠っているのか起きているのか、ちょっと朦朧としている感じだが、義姉としばらく昨日からの動きと医者から聞いた話しをしていた。そのうちに母の話をし始めたら聞こえたのか笑みを繰り返し浮かべた。でもちょっと眠そうで何度もあくびを繰り返した。リハビリをして一般病棟へ移れるように処置をしていただけると看護師さんからは聞いた。安心して義母の通夜の日を迎えたのだが、夕方になって心筋梗塞を併発したということで、心臓の様子を見てみるとかつて発した心筋梗塞で治療したステント内が詰まっているとか。そのステント内の塊を排除する手術に入ったところ、固まった塊が多く、なかなか除去ができず5時間にも及ぶ手術になったとか。それでも無事手術を終えて、帰途についた兄の携帯に再び病院から連絡が入った。「もう一度来てほしい」と。そこで前述の立て続けの兄の着信になったわけだが、結局、心臓が弱っているせいか、呼吸が止まってしまう時があるとかで、補助的に人工呼吸器を入れても良いか、という承諾のためだったとか。

 今日は朝から義母の出棺ということで行く予定だったが、それでも5時間も手術をして昨日行けなかったこと、また面会時間が限られているということもあって、出棺を見送って母のところに顔を出してみた。ところが看護師さんから「意識が戻らない」という心配な言葉を聞く。「場合によっては…」みたいな話になったが、医者の見立てもあるので、様子見ということになった。その足で火葬場に向かい義母の骨を拾い葬儀場へ。会葬者も迎え間もなく葬儀という段階になって兄から電話が入った。「ダメかもしれない」そんな言葉だったように記憶する。葬儀場をあとにして母のいる病院に向かっている途中に再び兄から電話が。「午後1時40分に亡くなった」と。病院ではすでに家に帰る準備が行われていて、入院したと聞いてやってきた甥夫婦がたまたま最期を見送れたという。聞けば医者から説明があると呼びだされた兄たちが、たまたま母のベッドの横で説明を聞いているとみるみるうちに状況が悪化して亡くなったという。なんとあっさりと、そして世話のない逝き方だったのだろう。つい数日前まではふつうに食べていたのに、この数日のうちの変わり様なのだ。わたしにとっては2日前の義姉との会話中の笑みが最期の母の「声」だった。

 病院から送られる際に、深々とお辞儀した医者がその頭をなかなか上げようとしなかった。誰にもそうしているのか、それとも今日だけだったのかは分からない。考えてみれば病院もこんなに早く症状が変わってしまうとは思っていなかったよう。もしかしたら治療の選択に間違いがあったのかもしれないが、もう高齢だった母には、そしてこれまでにも長く患っていたことから考えれば致し方ないこと。常日ごろ他人には「迷惑をかけない」「かけたくない」、そう口癖のように言っていた母。家族にはまったく迷惑をかけず、あっという間に逝った「母らしい」お別れだったのかもしれない。義母の葬儀の日に母を送るという、まさに「こんなこともあるんだ」と思う今日だった。

 合掌

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〝泉〟出ずる

2017-09-12 23:25:53 | ひとから学ぶ

 義理の母の通夜だった。かつて通夜を葬儀場でやっている姿を見て、「通夜くらい家でしてあげれば」、そう思っていたものだが、今では我が家でも葬儀場で通夜をするようになった。義父の際もそうだった。理由は明解だ。元気な故人の兄弟たちも90歳前後になってきて、畳の間に座るのも大変で、昔の家ともなると尚更段差や狭さに制限される。そのことを思えば葬儀場のよあにフラットで、椅子に座る環境なら通夜に参加してもらいやすい、ということになる。トイレも広いし、気遣いも低減される。そういう面のメリットを求めて、葬儀場での通夜を選択している。少し違和感はあるが、老齢化した家の求める形なのかもしれない。

 妻の実家の檀那寺は、通夜経をあげに来てくれる。納棺の前に通夜経を上げると、納棺が終了するまで住職は傍で待っていてくれて、納棺が済むと再び経をあげると、戒名の説明をしてくれる。さらには通夜ふるまいにも参列してくださり、葬儀よりも長く家族とともに故人を偲んでくれる。わたしの実家の檀那寺とはまったく違う(同じ宗派なのに)。

 戒名には義父と同じ文字が頭につけられた。二人とも教員だったということが共通の字で繋げられた。その字は「智」だ。「智」とは「物事をよく理解する。賢い。」あるいは「物事を理解する能力。」とある(デジタル大辞泉)。そしてその下に付された「泉」という漢字について、妻も義弟も「なぜなんだろう」と戒名を聞かされた時に思ったという。もちろん「智泉」であるからなんとなくイメージはつくのだが、その意図には住職の思いがあった。その解説にその場にいたみなが心を動かされた。実は住職の寺の名前にこの「泉」がある。寺の名の1字をいただいたというわけなのだ。そのひとつの理由として、義母は7月に行われるお施餓鬼になると、毎年花をたくさんお施餓鬼のために届けたという。もちろん妻もそこに関わっていたことだろうが…。お施餓鬼を花でいっぱいにしてほしい、その思いが住職にとって嬉しかったという。そして二つ目の理由として、住職が中学生のころ、お盆に「経をあげに回ってこい」と先代に言われて経をあげに行ったという。その際「こんな小坊主をよこして」というようなことを何度か回る家で言われて、かなり落ち込んでいたという。そんななか妻の実家を訪れると、義母は「よく来てくれたなー」と労いの言葉をくれたという。その言葉が落ち込んていた心をずいぶんほぐしてくれたという。そんな優しかった義母への感謝を戒名に表してくれたというわけだ。悟りの世界におられても、きっとさまざまな人間模様を垣間見られていることだろう。そうした中で接した優しさや、心のありようは、悟りのをも動かす、ということなのだろう。感謝の心が満ち溢れるような風を感じた。

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開田記念の碑が立つ空間

2017-09-11 23:33:14 | 西天竜

 

 今までにも何度か通っていたのに気がつかなかった。南箕輪村の北に塩ノ井という集落がある。段丘を上がったところに塩ノ井神社があり、その裏手にたくさんの石造物が並んでいる空間がある。庚申塚と言われているだけに「庚申」塔が多い。古いものは元文5年(1736)のもので、以後庚申年に建立されてきている。近くにある「文化・自然遺産分布図という看板があって、それによるとここは「ちとり場」と言われていたようだ。「ちとり場」ということはいわゆる馬の地をとったところ。わたしの記憶のある時代には血とり場が近くにあったが、「血とり」ではなく爪切り場だったいずれにしても塩ノ井神社の裏手の道沿いや、墓地内などにも「馬頭観音」がいくつも立っていて、ちとり場であったが故のことなのだろう。この血とり場の脇に「開田記念」という碑が立っている。この碑に気がつかなかったのだ。よく見ると「西天龍」という言葉が彫られている。「開田記念」の下に「前農林大臣從三位勲三等山本悌二郎閣下題額」あり本文が始まる。

なき人に見せばや
変る秋の来て
西天龍乃
稲のざ波

白馬堂書

背面には次のように刻まれている。

 

西天龍役員 有志者

征矢嘉十郎   農林技手笹木重作
征矢友三郎   加藤泰能
穂高儔二    征矢平次郎
征矢侑三    征矢孫太郎
征矢眞三    征矢政通
加藤利三郎   征矢朝一
征矢孝治    穂高正一
昭和七年十一月 征矢弘久

六十三齢
征矢定次郎建之

石工 大泉 出羽沢為十郎

 

征矢性がほとんどで、そこに穂高性などが加わっているから、塩ノ井の関係者が建立したものと思われる。西天竜の水田地帯は、今でこそ段丘上に広大に広がっているが、西天竜幹線水路が開削されたことによって水田になった地。とりわけ段丘崖直上などは最も水に乏しい地であったはず。したがって未開地で平地林がかなり広がっていたと考えられる。段丘崖下であれば湧水によって暮らしの場が展開できたであろうが、段丘崖上では人々が暮らすことは難しかった。この段丘崖線が人々にとって空間の境界域だったと考えられる。そうした姿を今もって段丘崖に求めることができる。段丘崖上にある塩ノ井神社周辺は特別な空間域でもある。神社を囲うように墓地が点在する。後世の新たな墓地も造られている。前述したように地とり場も設けられていた。おそらく葬儀が展開された場所もあったのだろう、そう思っていたら崖下には現在は無住なのだろうが寺もある。段丘崖の上下にそうした空間が散りばめられた場所は、西天竜エリアでも、この塩ノ井が代表的かもしれない。

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小屋掛け

2017-09-10 23:52:53 | 民俗学

お囃子の練習より

掲示板に貼られた重柳八幡宮祭典案内

 

 重柳八幡宮の祭りまであと14日、ちょうど2週間前ということになる。区民の方々への祭りを知らせる文書も間もなく配布されるという。祭りを取り仕切る「重柳八幡宮祭り保存会」は、その名の通り、祭り保存が主旨になる。お船の保存会ではない。にもかかわらず、宵祭りに曳かれる舞台には保存会としては手を出さない。これは保存会が祭りを仕切るようになった昭和53年時、舞台は伍長会が仕切っていたが故のことなのだろう。伍長会が担っている部分まで取り上げて保存会が口を出すのを避けたと考えられる。簡単に言えば継続性のあったほかの人たちが担っていた部分はそのままにして、衰退しそうな祭りのほかの部分を保存会として担うことにしたわけである。

 お船祭りの調査だから、お船とは無縁な部分は調査対象にはならないのかもしれないが、そもそも祭りの全容を知らないわたしには、それらも把握しておく必要があるのだろうと、昨日のことは今日は忘れて重柳に向かった。

 今年の祭りの日程は下記のようだ。

 9月23日
  午後7:00~  スマイリーフジ「大マジックショー」
  午後7:00~  富くじ受付開始 重柳八幡宮境内本部にて
  午後8:15頃  伍長の皆様による舞台の奉納・神事
  午後8:30頃~ 「しげやなギッズ」による楽器演奏
  午後9:00~  会長挨拶~子供の太鼓披露
  午後9:30まで 富くじ受付終了
  午後9:30~  富くじ抽選会

 9月24日
  午前10:00~ 宝探し(無料)、輪投げ・お楽しみくじ(1回50円)
  午後12:00~ 保存会員・小3~6年生 公民館集合・記念写真撮影
  午後 0:30~ お船曳き出し(青年会館前から)
  午後 2:30頃~ 「ソーレあづみの」様によるヨサコイの演舞
  午後 3:00頃~ お船お宮入り・神事・お宮祭り
  午後 3:30頃~ 神餅・福銭まき

 今年の宵祭りにおける余興はマジックショーだという。昔も必ず余興を外部に依頼したという。今日はそうした余興の舞台となる小屋掛け作業が小屋掛け班によって行われた。本祭りに大雨が降ると、小屋掛けをしても観客が雨天下になってしまうため屋内に移行して行われるという。それでも毎年小屋掛けすることに意味があるのだという人もいる。やはり地域内の人の関わりを重視していると思われる。祭りまでの物語がまさにこの1ヶ月に詰め込まれている、そう思った。

続く

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義母の死

2017-09-09 23:04:55 | つぶやき

 義理の母が亡くなった。数日前から「もう近いかも」と妻には言われていた。仕事も忙しければ、仕事外のことでも忙しくて、そうは言われてもなかなか顔を出せなかった。ここ2週間ほど足を運んでいなかったので、水田の畔草も気になっていた。この9月は空いている休日が少なく、その空いている休日の今日、草刈に2週間ぶりに向かった。そう言われてから初めて見た義母の顔は、食べられなくなってしばらく経っていることもあって、痩せこけていた。正月に義父をおくってまだ1年弱。義父をおくったころにも「そう長くはないかも」と妻は口にしていたが、ほぼ8か月、妻も義弟も一所懸命義母の最期の道を繕った。

 考えてみれば、妻にとっては義父から数えれば長い介護の道だった。いいや世の中にはもっと長い介護生活をおくっている人もいるだろうから、あえて妻や義父の介護とのかかわりが突出していたとは言わない。しかし、おそらくふつうに仕事をしていたら難しいこと。妻と義弟が分担したからこそ、わたしにはそれほど負担がなくこの道が完結したと言える。「旦那さんが理解あるから」などということを言う人もいるが、わたしなどまったく支障があったわけではない。それでもと言われれば、草だらけで「この家住んでいるの?」と言われても仕方ないほど、ほったらかしだった我が家の悲惨な光景くらいだろうか。

 ということで義母の介護の終焉は、我が家にとってはひとつの区切りにもなるのだろう。結婚後義父の農業を手伝うために通った実家通いは、後に介護通いになり、実家にいる時間が生活のほとんどということになって何年もたつ。もちろん介護が終焉したからといって、妻の実家通いも終焉を迎えるわけではない。わたしも休日といえば通っているように、農業が残る。義父から引き継いだ農業を、これからもずっと妻は続けていくだろう。周囲の人々との軋轢は多いが、意図的に残してきた環境がある以上、これは続く。

 合掌

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