Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ストリートビュー

2024-07-11 23:43:03 | つぶやき

 グーグールマップを利用させてもらっているから、そのものに異論はない。とりわけストリートビューにはいろいろな情報をもらえる。特に知らない土地に行って、どこに何があるかをイメージするには、価値あるツールだ。例えばまったく未知であっても、遠いところから印象を得ることができる。事前にイメージを作り上げるにも良いツールだ。最初にこのツールを目にした時には、「ここまで映るのか」と思ったもの。個人情報にうるさい時代なのに、ずいぶんオープンな情報だと思った。

 とりわけよく利用するのは、路側にあるものを探す、あるいは確認する時だ。例えば最近記した武石村の自然石道祖神について、グーグルマップへのリンク付けをしている。これらは、当日探しながら回ったが、その場所を地図などに記録していない。その変わり、自宅で回想しながら位置を再確認している。したがってストリートビューで見られる道のものについては、事前に探し出そうとすれば、それも可能なのである。もちろんまだそうした利用の仕方はしていないが、ストリートビューに登録されている道路が多いほど利用価値は高いということになるが、やはり狭い道や、山の中の道には到達できない。

 さて、このストリートビュー、自分の家も見えてしまうので、わが家の草だらけの状態もわかってしまう。ということはこうした家の状況を知られたくない人には迷惑なツールということにもなる。とはいえ、このツールで時おりモザイクではないが霧状態に加工されている場面に遭遇することはある。しかし、ストリートビューが一部区間継続しない事例があって驚いた。ストリートビューに登録されているかどうかは、グーグルマップ上の「人」マークをクリックすることでわかる。遭遇した事例は、グーグルマップ上にはストリートビュー対象道路なのに、進もうとしてもそれ以上進まないのである。どこの区間であるかをここでは示さないが、その事例は、その道沿いにある大きな家がモザイク状態になっていて、屋敷が広いためその家を映さないために進まなくなっているようなのだ。隣接している家もモザイク状態になっていて、その家同士が同じ関係者なのか、あるいはストリートビューへ両者が削除請求をしたかはわからない。いずれにしても家全体がモザイクにされている例はそう多くはなく、そもそも「消すことは可能なのか」と思うが、検索すると方法を説明しているページがある。ただし、そこには「グーグルマップのストリートビューに、個人として知られたくない画像が掲載されていた場合は、Google社へのリクエストによる「ぼかし加工」を申請することになります。しかし、リクエストを送信したからといってGoogle社が必ず応じてくれるとは限りません。」とあり、確実にモザイク化してくれるかの補償は無いようだが、この筋の専門家なら容易なのかもしれない。いずれこういう事例が多くなるのかどうか、もちろん利用させてもらっている側とすれば、周辺の状況からイメージする際に、モザイクは無いにこしたことは無いのだが…。

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上の階へ

2024-07-10 23:28:40 | つぶやき

 わたしの職場にはエレベーターがある。そして自分の会社は3階に執務室がある。ようは必ず3階までは上らなくてはならない。もっと上の階で働いている人は、もちろんそこまで上らなくてはならない。もし、ということもあるが、5階で働いていたら「どうか」と問われても、今は3階にある環境と変わらず同じことをするだろう。それはエレベーターを使うか、使わないかということ。

 若いころはどうだったと問われると、やはりそれほど高い階で働いたことはないが、あまりエレベーターを利用したことはない。今ほど「使わない」という前提はなかっただろうが…。やはり高層階であったら違っていたのかもしれないが、2,3階レベルでは、エレベーターを意識することはなかった。したがって今も、会社でエレベーターを利用することはほぼない。この「ほぼ」というところが怪しいのだが、実は同僚が一緒だと使う方向で選択する。なぜかといえば同僚がそれを選択しようとするからだ。とりわけ若い人たちは、基本的にエレベーターだ。1階上下する程度はともかくとして、2,3階通過するような移動は、基本的にエレベーターが常識化している。エレベーターのある方向に進むか、階段のある方向に進むか、その1歩が違うのである。したがって人に合わせて、エレベーターを選択するようにする。いってみれば忖度しているようにも見えるが、自分ではそれほど強く意識しているわけではない。

 歳を積み重ね、歩くことを意識するようになったが、もともと歩くことがは苦にならない方だった。ふつうに階を上にという際には、エレベーターを探さずに階段を探す。ごく当たり前の昔からの意識である。でも若い人たちと限定することはないが、エレベーターを利用する人も多いことは確か。だから人とは一緒に行動しない、方が気を遣わなくても良い、ということになる。もちろん下る際もそうだが…。

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石拾い

2024-07-05 23:39:57 | つぶやき

 仕事の現場で、石拾いをした。水田の整備をするにあたり、耕土が少なかったため、耕土をよそから持ち込んだ。ところが、その後耕起をしようとしたら石が混ざっていて、耕作者から「これでは耕作できない」と言われて、石拾いとなった。搬入した際に、しっかり土を確認していればこのような事にはならなかったのだが、既に耕土を戻してから2年ほど経過していて、当時の関係者に責任を問うこともできなかったことが今日に繋がった。もともと石が多いと聞いていて、春先に様子をうかがった際には、表面に大きな石があるばかりではなく、シャベルを突き立てても硬くて入らないところがあって、耕土中にも多くの大きな石が混ざっているのではないかと想像していた。もちろんこのような状況では耕作どころではない。耕作者が「耕作できない」というのも当たり前だ。

 実は石拾いは我が家でもやっている。以前災害復旧で直してもらった田んぼ、直してもらったのは良いが、石だらけ。そもそも水を浸けると崩れそうなこともあるのと、周囲との軋轢もあって、復旧後一度もコメを作っていない。ようは転作状態なのである。それでは災害復旧をした効果があがっていないということになるが、だからといってそのままにしておけば、結局耕作放棄地になってしまう。そういう意味では崩れたら直す、をしていかないと山の中でのコメ作りは衰退してしまう。いいや、それで良いという意見もあるが…。そんな田んぼだが、工事の際に耕土を剥いだ。耕土は長い間の耕作によって作り上げられたもので、農家にとっては命のようなもの。工事によってその耕土がほかの土と混ざってしまわないように、土木工事では耕土を剥いで工事を行うことがよくある。しかし、耕土を剥ぐと、どうしてもほかの土と混ざる。とりわけ耕土の下が礫層であったりすると、剥ぐ際に混ざってしまうことがある。長野県内では礫層の上に耕土があるケースが多く、耕土を剥ぐと石が混ざる、とは当たり前に言われること。したがって工事の際に「耕土を剥がないで欲しい」という農家も珍しくない。我が家でも結果的に耕土を業者が起こした際に石が混ざったわけで、小さなトラクターで起こすと、小さな石でも衝撃が大きい。起こすたびに石が当る。その度に石を拾うのだが、そこそこ大きな石が露出したりする。

 さて、今回の石拾い、トラクターで起こした際に石に当ったところを中心に拾ったが、小さな石は無数に混入している。こぶし大以上のものをといって拾ったが、それより小さな石がたくさん。起こしているとロータリーの中で石がガラガラ音を立てているのがよく聞こえる。耕土というよりは砂利を起こしているようなもの。そうした中に巨大な石が混ざっていたりする。標高950メートルという高地ということもあって風は涼しかったが、暑い日中の石拾いは、疲れが身体に溜まりそうな作業だった。

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「お金がないから夏休み廃止して」から

2024-06-28 23:00:42 | つぶやき

 SmartFLASHが発信した「「もうオシマイだよ、この国」お金がないから夏休み廃止して!悲しき調査結果に広がる首相批判」がウェブ上のあちこちのサイトで引用されている。「貧困問題に取り組む認定NPO法人「キッズドア」(東京)が記者会見し、困窮世帯へのアンケート結果を公表した。」というもので、“小中学生のいる世帯の計60%が、子どもの夏休みを負担に感じ、「なくてよい」「今より短い方がよい」と考えていることを明らかにした。理由は「子どもが家にいると生活費がかかる」が最多だった。”という。調査は、5月の終わりから6月の初旬にかけて行ったアンケートで、1821人から回答を得たという。回答されたのは半数以上が40歳代、30歳代が3割弱、50歳代が2割という構成。その居住地は南関東が4割弱を占め、あとは全国に広がるという。そして母子家庭が9割というから、困窮家庭の母子家庭の答えと捉えて良いのだろう。母子家庭に困窮家庭が多いということを如実に表していることになるのだろうが、こうした背景を踏まえた上でのアンケートと捉えなくてはならない。

 記事はそのあたりの詳細はそれほど触れておらず、引用の中には「困窮家庭へのアンケート」という部分があっさり紹介されていて、タイトルだけ捉えると「お金がないから夏休み廃止して」が独り歩きしそうなイメージを与えている。とはいっても、困窮家庭においては物価が上がれば当然困窮度が高まる。その上で片親世帯となると、当然こどもの世話で仕事はもちろん、さまざまな制約が生まれる。「夏休みが無い方が良い」という思いもわからないではない。そもそも昔に比べたら休みが多い。世帯所得についても触れられていて、200万円以下が5割強で、300万円未満まで含めると8割に及ぶという。そして夏休みの長さへの質問について、「今より短くて良い」という回答が47パーセント、「今のままで良い」が37パーセント、さらに「なくて良い」という回答が13パーセントあったといい、その理由の最も多いものが、「生活費がかかる」(78パーセント)というものだった。さらに給食がないためにその手間を要するという理由も76パーセントと高かった。

 おそらく困窮者でなくても同じような意見を持っている世帯がいるとは思うが、情報が飛び交う世の中であるからこそ、こうした話題が賑わう。困窮世帯にとっては今に始まったことではなかっただろうが、最近の物価上昇は確かに影響は大きい。そしてこの流れは止まっていた歩みが進みだしたように、「値上げ」が肯定される印象を与えて、さらに困窮家庭は厳しくなるのだろう。政治が批判されて当然なのだろう。「ふつうの暮らし」とはどのような暮らしなのか、この世の「ふつう」が見えづらくなるとともに、いっぽうで余裕のある人々が楽しんでいる姿が見え、いっそもっと苦しい世の中になれば「本気になるのではないか」などと思うが、それでは日本が立ち行かなくなるのだろう。自分のことは自分で護るしかない、誰かが助けてくれるはずもない、しかし、最低限の暮らしが保障される環境は整えてほしい。

 参照 キッズドア記者会見

 キッズドアではオンラインセミナー「困窮家庭の子どもたちの夏休み ―調査結果より―」を7月10日に予定している。

 

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上田民俗研究会総会へ

2024-06-16 23:20:14 | つぶやき

 昔から入会していたわけではなく、手元にも会報は5冊程度しかないから、入会して10年余といったわたしにとっては比較的経験年数の少ない研究会の総会があった。最近上田方面へ足を向けていることもあり、参加してみようと思ったわけであるが、もしかしたら、前会長さんに会えるかもしれないという淡い想いもあった。先ごろ生業のひと区切りを目途に刊行した本を送らせていただいたところ、丁寧なお例文をいただいていた。総会があったのは、上田民俗研究会という。昭和28年に発会している歴史のある会で、長野県民俗の会に比べたらずいぶん以前から活動がされていた会である。もちろんそれだけ上田地域には民俗学の先進的意識を持ち合わせた先生がだがいらっしゃったということになる。そうした歴史ある上田地域の民俗学については、多田井幸視氏によって「信州民俗学の先達たち(上小地方を中心に)」と題して『上田盆地』44号(上田民俗研究会 平成30年)に報告されている。

 コロナ禍は活動を停止していたということで、総会に提出された資料は令和2~5年度をまとめた活動報告と決算報告、そして令和6年度の活動計画と予算について報告された。初めて出席した総会であるが、そもそも会員が20名余という少なさには驚いた。総会に参加された会員も、高齢の方が多い印象。こうした地域の研究会のどこの会でも同じような現象が見られるのだろうが、それにしても会員数の少ないのには驚いた。長い歴史を刻んて来た会にしては、残念な思いがあるのだろうが、前会長の酒井もとる先生が会長を辞退されて、ここで止めてしまうのか、それとも続けるのかという葛藤もあったのだろうが、何とか久しぶりの総会を開いて次の1歩が踏み出せた、というところなのだろうが、そもそも出席された方々も、旧来の会員は少ないようで、新しい会員が継続の1歩を踏まれたことは、少し明かりを見た感じではあるが、それにしても「ここまできていたのか」という印象を受け、いずれほかの地域でも同じ光景を目の当たりにする経験値になったと思うほど。何よりいつも行動をともにしているような方たちの顔はなく、新鮮な印象を受けたものの、民俗の会でも、東信地域は会員の少ないエリアで、例会を開くにも開きづらい傾向が度々口にされるほど。それでも単独で上田地域を中心にこうした会が、とりあえず存続されたことに安堵するとともに、どこまで会員が減っても、意欲さえあれば継続できるという姿を見たようにも思う。私にとっても東信にはあまり目を向けてこなかっただけに、きっかけになればと思っている。

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繰り返される「場面」

2024-06-11 23:19:45 | つぶやき

 床に入って寝ていた先週末の高熱顛末。床に入り、眠りについてもそう長くは寝られなかった。すぐに咳が激しく出て、自分の咳の息苦しさで頻繁に眠りから覚めた。うとうとしながらも、寝入り際なのか、それとも咳き込む直前なのか、必ず脳裏に浮かんでくる場面があった。今となってははっきりと記憶にないのだが、その場面は毎回同じなのである。よくぞここまで、と思うほどその場面はくり返し登場する。仕事の場面なのだが、眼が覚めた時には、その場面に納得して自分なりに解消していた。にもかかわらず、数日を経た今では記憶がはっきりしない。納得するほど繰り返し登場することを自分なりに許していたにもかかわらず、咳き込んで苦しい中でトラウマのように登場していた。

 それほど熱を出して寝込むことはめったにないと、先日も触れた。しかし、熱が出て、うつろな世界に漂っていると、必ずといって良いほど、仕事にかかわる場面に自分は立っている。なぜ「仕事」なのかと思うのだが、疑問にも思わず、床の中では「あたりまえ」に受け入れていた。とりわけ頻繁に、そして短時間で眼を覚まし、繰り返される同じ場面が、これほどわたしにのしかかっているわけでもないのに、何だろうこの繰り返しは、と今になって想う。

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「こんなことは初めて」

2024-06-10 23:54:31 | つぶやき

 先日「高熱が出た」を記した。5日分の薬を処方してもらって薬局で薬を購入して飲み始めたが、いつもすべて薬を消費するまでもなく病は治っていた。ところがもう5日になるというのに、風邪はすっかり良くならない。したがって薬を飲み続けていて、間もなく5日分の薬はなくなる。熱は下がったものの、咳が止まらず、「どうしたものか」と思いながら勤務先の近くにある耳鼻科に行ってみた。最初の医者で、「のどが痛い」「咳が止まらない」と言ったら「耳鼻科の方がいいかも」と言われたので、耳鼻科を選択した。どうにも最近の医者はあてにならない。とりあえず咳が止まらないし、一層咳がひどくなったので、耳鼻科へ…。よく話を聞いてくれると聞いていたので、行ってみたのだが、うーん…。とりあえず薬をもらったので「様子をみるしかない」、そう思っていただいた薬を飲み始めた。

 最初に行った病院では処方箋をもらって薬屋に行ったが、今回はお医者さんから薬をもらった。最近はほぼ処方箋をもらって薬屋に行くという前者が一般的だが、久しぶりに直接薬をいただいた。いわゆる院内処方というやつ。このあたりでは患者が院外化院内を先手くすることはできない。したがって院外の方が面倒なうえに費用も高めになるとはいっても、院内を選択することはできない。ある意味、旧来の院内処方をしているお医者さんは、患者本位と捉えて良いのかもしれないが、それにしてもいまだに両者が存在していることに、患者とすれば違和感を持つのは自然だろう。

 さて、わたしより先に風邪を引いて、わたしにうつしたと思い顔を合わせるたびにお詫びする会社の女性は、「わたしも」と言って、薬を全て飲んでしまって、結局お医者に再度診てもらったという。「こんなことは初めて」とはわたしと同じである。。今流行っている風邪は、どうも1度の往診では治らないようだ。

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残されたフイルムカメラ④

2024-06-09 23:20:30 | つぶやき

残されたフイルムカメラ③より

 

GS645S専用カタログ

 

GS645シリーズカタログ

 

 

 もう1台、その後レンジファインダーカメラを購入している。フジカのGS645シリーズの1台で、マキナ67を持っていたこともあり、最初に発売された蛇腹式のGS645にとても興味があった。このGS645が発売されたのは昭和58年であり、発売後すぐに興味を示していたが、結局手に入れたのはGS645Sであった。GS645には蛇腹式のGS645とこのGS645S、もうひとつGS645Wがあった。それぞれ35mm相当で47mm、37mm、28mmというもので、それぞれ9万円前後の価格帯で、中判カメラとしてはお手頃な価格だった。ただ、一眼レフカメラを使うようになってからは、レンジファインダーカメラを使う頻度は落ちていて、このカメラも、実際に利用したことはそれほどなかった。中判で風景を撮るならマキナ67、動きのない固定物を撮る際にも35mmカメラを利用していて、このカメラの役割はなかったといってよい。最も手放す可能性があったカメラだが、今もって所持している。中判カメラとしては、とても軽くて扱いやすい、ということはあったが、もともとブローニーフィルムは装填するのが35mmに比べると手間取るとこと、そして何と言っても1本当たり撮影できる枚数が限られているという点は、わたしの撮影対象からすると使用頻度を低くした。

終わり

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残されたフイルムカメラ③

2024-06-08 23:23:27 | つぶやき

残されたフイルムカメラ②より

 

カタログは1984.12.1版

 

 CLEに始まったレンジファインダー式のカメラへの傾向、とはいえ一眼レフカメラを使いたかったこともこころの中にはあった。とりわけ下伊那に戻って祭りの写真を撮るようになると、一層一眼レフの必要性を感じた。当初はスナップ程度の写真だったが、本格的に祭りをカメラに収めるようになるきっかけは、やはり一眼レフカメラの購入だった。キャノンの手ごろな価格のそれを購入して少しずつ祭りで写真を撮るようになったが、さらにその思いが膨らんで、結局最初に購入した一眼レフカメラは手放して、ここで紹介するニコンF3を購入した。ニコンでも最も長く製造された名機と言われるカメラなのだろうが、このカメラを買ってからはモノクロの写真をたくさん撮った。人ごみの中で動きながらポジション取りをして写真を撮ったから、傷だらけのF3であるが、これも今もって所持している。とりわけ撮影した際に時間を記録したかったため、コマ間に日時などを記録できるデータパックを付けていた。最もよく利用したカメラ、と言えるだろう。その上で、モノクロ専用機だったため、カラーを撮りたい時のスペアとして、同じF3をもう1台、中古を手に入れた。それも所持しているわけだが、実際のところ2台持ちながら撮影をしたことはそう多くはない。今と違ってフイルムだからモノクロとカラーを交互で撮影することができなかったため、用意したもので、2代目のF3はそれほど利用しなかった。どちらもHP(ハイアイポイント)ファインダー機である。 

 

残されたフイルムカメラ④

 

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高熱が出た

2024-06-06 23:01:40 | つぶやき

 暑さ、寒さに関する微妙な体感について、これまでにも何度か記してきているが、キーワードが浮かばず、あるいは適当にキーワードを打っても過去の日記が引き出せない。わたしは若いころ、自ら「変温動物」と思っていた。意外に暑さ、寒さに順応して過酷な条件(高温、低温といった)の中でも「屁とも思わず」外業をしていて、驚かれたものだ。若かったから「当たり前」とも思っていたが、今の若者は、もしかしたらすぐに音を上げるのかもしれない。よく言われたのは、真夏の炎天下でも、帽子も被らず、水分も取らず、山の中を歩いていも「おまえ汗かかないなー」と言われたこと。まったくふだんと変わらない表情を見て驚かれたもの。

 そうした順応性のあったわたしも年老いて、暑いのも寒いのも「得意」とは口に出せなくなった。先日、床に入ると「寒いなー」と思った。掛布団に毛布を掛けていたのはそのしばらく前のことで、すでに掛布団のみで寝ていたから、そのうちに体温で布団が「温まる」そう思っていたのだが、なかなかその「寒さ」が消えない。もちろんなかなか寝付けない。前日、あるいは後日の同じ時間帯の気温状況を見比べても、その日の気温が低かったわけではない。にもかかわらず、「寒い」と感じたのは何だったのか、今となっては定かではないし、そもそもわたしの体調との関係性があったのかもしれない。その夜床に入った際には、確かに「寒さ」が強かったわけで、そう思わせる要因のようなものがあったのかもしれない。結局しっかりと寝付くことができず朝を迎えた。起きると「のどが痛い」。わたしは気管支系に弱点があって、咳が出始めと、なかなか収まらない癖がある。最初はそれほど咳がでるわけでもなく、「のどが痛いなー」程度で、回復してくれれば良かったが、変わらずその状態が数日続き、いよいよ咳が我慢ならなくなった。そして今日、いよいよ高熱が出た。コロナワクチン接種で高熱が出たことはあったが、記憶にないほど昔に遡らないと、高熱が出たこが最近はなかった。かつてにら電気敷布を利用して、無理やり熱を出させて「直す」という解決策を持っていたが、若いころのはなし。今同じことをして治る気配はない。

 ということで病院に行って診てもらったが、処置はなし、薬の処方箋をいただいて薬を購入して家で寝ている。もちろんコロナではない。きっと、あの時毛布を掛けて寝ていたら、もう少し違っていたのかもしれない流れ。この調子では、明日も熱は確実に下がらないだろう。若いころのようなわけにはいかない、そう実感させられた微妙な体感であった。

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差し入れ

2024-06-05 23:41:17 | つぶやき

 ある現場に行った。「どうしようか」と思ったが、歩きやすそうだったので、人の家の庭を歩いた。家の中に人影が見えたので、「まずいかなー」とも思ったが、「その時はその時」と思って安易に選択した。が、やはり家から男性がでて来られて「なんですか」と問われる。「すみません、断りもなく、この前にある水路のことで調べています」と答えると、男性は怒っているわけでもなく、気さくに話しかけられてきた。実はこのお宅の敷地内の下に大きな水路が流れている。もちろん男性は認識されていて、「どっかこの辺を流れているらしい」と言われる。もちろん正確な位置はご存じないよう。それからしばらく立ち話となった。

 古い家を綺麗に改装されていることから、もしかしたら、とは思ったが、古民家を購入して改装されて住まわれている。聞けば県内の方ではない。綺麗にされていたので、「ずいぶんお金をかけられたのでは?」と聞くと、このあたりの建売住宅よりはかかっているかも、と。わたし的には新しい家を好きなところに立てた方がいいのではないかと思ったが、古民家が欲しかったという。それも全国を探されていたというので、「なぜここに」と当然聞いてみた。すると、今までにも手付金を払って購入寸前までいった物件がいくつかあったという。しかし、登記面でうまくいかずに成約したなかったという。したがってそれらが成約していたら、ここには住んでいなかったというわけだが、今はここで満足されているよう。口から出たのは「二つのアルプスが見える」こと、「東京にも名古屋にもすぐ近くのインターからすぐ行ける」ことらしい。加えて一応飯田線が通っていて駅も遠くない。飯田線はリニアの駅に連絡しているから「なくならない」とも。この言葉を聞いて思ったのは、リニアがやってきて最も好材料なのは、当面(今生きている人たちが存命中)飯田線は廃止にならないだろう、ということ。これって以前にも記したのかもしれないが、メリットに違いない。

 同じ集落の中で新しくよそからやってきたのは「我が家」と「あの家」と指を指された家の2軒だけだという。いずれも新築物件ではない。地域にも入って仲良くさせてもらっているという。

 その後しばらく仕事をしていると、缶コーヒーを手にやってきて、「暑い中大変だね」と差し入れをしてくださった。長い生業の中でこういうケースは度々あったが、おそらくよそから住み着いた方に差し入れをしていただいたのは初めてだと思う。

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記されなかった「昭和62年の記憶」

2024-06-02 23:55:30 | つぶやき

 “空白に見る「その時」”に記したように、昨年は空白だらけの日記だった。ということは、いずれ後になって困ることになるのだろうと、相変わらず古い日記を検索していて気づかされる。

 毎日持ち歩いているメモリーの中を、あらためて覗いていて気がついたのは、2021年ころの日にちをタイトルにしたフォルダがいくつもあったこと。毎日持ち歩いているのに、ふだん覗きもしなかったのは、もちろん忙しくて覗く暇がなかったということになる。そうしたフォルダ内にフイルムをスキャンした写真が何枚も入っていて、見た瞬間には、かつて日記で利用した画像だろうと思った。ところがその画像をここで検索にかけると日記に登場してこない。何故だと思い、スキャンしたころの日記を紐解いてみると、当時も空白の日がけっこう多い。例えば2021年の9月だ。記録されているのは13日。ようは月の半分にも達していない。前月の8月は数えるくらいしか空白が無いのに、9月に入って多出している。やはり秋になると生業が忙しいことと、このころにも会計検査が入るといって準備をしていた。そして今回検索しようとしたキーワードは「安源寺」である。中野市安源寺で行われる獅子舞について検索しようとしたもので、当時「昭和62年の記憶」というタイトルで連載日記をしるしていた。最終ナンバーは51番である。安源寺にも昭和62年に訪れているため、その記事がきっと「ある」と思って検索したのに無いのである。

 ということで「昭和62年の記憶」をナンバー51番から遡っていくと、41番の前「木曽の石仏」の日記がない。そして遡ること33番まで空白なのだ。ようやく32番に「中谷大宮諏訪神社例祭」が登場する。それ以前はすべて記録されているようだ。この状態から思いついたのは、空白の日に割り当てていたのに「書けなかった」ということだ。あらためて何を書こうとして準備していたのか、2021年のメモ帳を開いて見た。すると空白ナンバーには次のような記事を予定していた。

33 飯山市桑名川名立神社例祭・補追
34 霊諍山石仏群その4
37 上松町若宮八幡獅子狂言
36 安曇野
37 安源寺獅子舞
38 飯山市富倉ひゃっとう 
39 千国諏訪神社獅子舞
40 木曽の石仏

 やはり「安源寺獅子舞」を予定していたというわけである。連載物でも完結していないものも過去にあるが、それらは継続中のつもりであって、このような途中を抜いている例があったのは、すっかり忘れていた。当時のメモ帳には、これら連載日記以外のものについても、日を決めてタイトルが記されていたが、多くは記録されることなく今に至っている。今さらこれら記事を書くつもりはないのだが、連載物については空白を埋めた方が良いのだろう、とは思っているが、全てを埋め尽くすのは無理かもしれない。「毎日持ち歩いている」、ということはいつでも遡って書くつもりでいたのだろうが、今ごろ気がついているという情けない話である。

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残されたフイルムカメラ②

2024-05-22 23:03:43 | つぶやき

残されたフイルムカメラ①より

 

 

 初めて買ったカメラがレンズ交換式レンジファインダーカメラであったことについて一昨日触れた。最も愛着のあるカメラであるわけだが、もう1台やはり中古市場で比較的高額で扱われているカメラを持っている。プラウベルマキナ67である。昭和54年に販売されたカメラで、「プラウベル」というメーカーはもともとドイツの会社であったが、日本のドイグループに売却されている。ドイから発売されたカメラがこのブウベルマキナ67なのである。このカメラも飯山に暮らしていたころ購入したから、昭和57年ころだろうか、手に入れたのは。わたしの購入したカメラ第2号である。名称の通り、6×7判、いわゆるブローニーフィルムである。2018年6月10日に「フイルムスキャナー」を記した際に掲載した写真2枚は、プラウベルマキナ67で撮影したものである。写真としては気に入っているものであるが、さすがに蛇腹式カメラだから、当時よく行ったお祭りで使うには抵抗があった。人ごみの中でこのカメラを構えて動き回ることはできなかったし、そもそもブローニーフィルムで6×7判だと10枚しか撮れなかった。ようは10枚撮ったらフイルムを装填しなくてはならず、とてもお祭り向けではなかった。したがって風景写真専用機といったところだった。

 なお、クラシックカメラ オンライン・グラフ誌の「CameraGraphic」にマキナ67が紹介されていて詳しい。当時のパンフレットは一昨日のCLEもそうだが、その後のオープンプライスと違って定価が印刷されていて、当時の価格が解ってありがたい。

 

残されたフイルムカメラ③

 

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残されたフイルムカメラ①

2024-05-20 22:19:27 | つぶやき

「MINOLTA CLE」カタログより

 

このモノクロのパンフの4人、全員鬼籍に入られた

 

モノクロの背面に印刷された「男の拘泥り」

 

 

 最近新たにカメラを買った。いわゆるミラーレスのカメラだ。これまで利用していた一眼レフが気に入らないわけではない。ミラーレスが欲しかった。なぜかといえば、ミラーレスはシャッター音が小さい、あるいは消すことができる。一眼レフはどうしてもシャッター音が大きくて、周囲にいると「今シャッターを切った」とばれてしまう。そういう意味で無音のカメラを使いたい時がよくある。

 かつて若いころに京都に知人がいて、よく一緒に写真を撮りに出かけた。その方はいつもライカを持っていて、それも何台も所有していた。わたしにはとても手の届かないカメラだった。そしてその知人の撮影したモノクロ写真は、ちょっと違った。そもそも知人自ら現像して焼き付けていたから、単純にカメラの違いだけではないと思うが、知人の写真を見せていただく度に、「やっぱりライカは違う」と思ったものだ。以来長くカメラを愛用してきたが、やはりライカはもとより、メーカーの最高機種は手が届かなかったので、いつも二の次のカメラを買ったもの。わたしの長いカメラ人生は、こうして中途半端なカメラで締め括られそうだ。

 さて、子どもの頃、我が家にはカメラというモノはなかった。世間ではかなり普及していたようだが、貧乏だった我が家にはカメラはなく、それはわたしが成人になるまで続いた。わたしが最初にカメラを買ったのは、飯山の小さなカメラ屋さんでだった。その第1号機がここに掲載したパンフレットのカメラ、MINOLTA CLEである。一眼レフが時流の中で、あえてレンジファインダーのカメラを購入した。このことは過去の日記にも記しているはずだか、人とはちょっと違ったカメラを持ちたかった、というわたしなりの主張だったとも言える。このカメラが発売開始したのが1981年というから、発売して間もなく購入したことになる。以降、わたしにとっては愛用機であり、自分の給料で最初に買ったカメラということで思い入れも強い。もちろん今も所有しているが、けっこう傷だらけである。一時は購入時の定価より中古販売価格が高い時期があったが、さすがにフイルムカメラは今は安い。それでも10万円くらいの中古品が出回っている。もちろん使うために購入したカメラだから傷が多く、そんな値段では売れないことは言うまでもないが、その後何台もカメラは購入した。そしてそれらフイルムカメラは、現在も何台か所有しているが、もちろん利用することはない。いずれ手放すこともあるのかもしれないが、このMINOLTA CLEだけは、最後まで手放すことはないだろう。

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何年たっても、草刈三昧

2024-05-19 23:33:34 | つぶやき

 

 写真は、これまでにも何度かここに掲載してきた我が家の土手のもの。先週の土曜日と今日、2日がかりの成果だから、ここに取り上げてみた。3枚目の写真が我が家の田んぼである。かつてはこれで3枚あったが、上2枚は、畔を抜いたから、現在は1枚になっているが、形状はL型といって良いのか…。我が家の田んぼも含めて、上に建物があるまでの間には何枚もの田んぼがあるが、現状は我が家のひょうたん型の田んぼが1枚耕作されているたけで、あとは全て耕作されていない。一応草刈管理はされているので「放棄」されているわけではないが、ほぼそれに近い。我が家ではこの2枚、どちらかというとまだ形が整っている方。実際に稲を植えている田んぼは前述のひょうたん型の田んぼと、1反近くある家浦の田んぼのみ。この写真の空間では、最も小さく、形状の悪い田んぼを耕作している。人から見れば「なんでこんな田んぼを」と思われても仕方ない。形状が良いのに耕作しない理由はいろいろある。以前にも触れた通り、2枚目の写真のように、ここは災害復旧で直してもらった。見事な土手であるが、復旧のレベルは見ての通り、ていうか写真では分からないかもしれないが、いわゆるフトン籠の色が違う。黒っぽいところと、白っぽいところは、施工時期が3年ほど異なる。黒っぽいところを直したら、すぐに崩れた。後に大雨があってその崩れが拡大して、また災害復旧をしたというわけだ。黒っぽいところは本物のフトン籠。白っぽいところはパネル式の施工しやすい簡易のフトン籠。近後はフトン籠を施工できる人がいなくなって、こうしたパネル式や、かご枠のようなものでないと施工できないとまで言われる。その証かもしれないが、黒っぽいところは籠がすでに孕んでいて、まともに施工されたとは思えないようなありさま。下の土地も元は田んぼであったが、その田んぼと我が家との田んぼの高低差は、大きいところで5メートルある。復旧してもらって法勾配が緩くなったから、意外に草刈はやりやすくなった。1枚目の写真の土手は45゜より急なので、草刈が厄介で仕方ないが、復旧した法面は、法面に容易に立つことができる、とはいえ、もうちょっと年を重ねると大変になることは確か。

 さて、この大きな土手と、上の田んぼ土手、さらにはよそ様の田んぼの土手の法尻まで刈るから、この空間の草刈は1日では済ませられない。さらに刈った草をそのままにしておくと土手が衰えてしまうため、草を寄せる。現在は田んぼを耕作していないので、田んぼの中に草を寄せることができるが、かつて耕作していた際には田んぼの中に寄せるわけにはいかないので、寄せておいてさらに運び出した。このように法面が大きな我が家の田んぼの管理は、ここだけではない。ところで、草を寄せるだけではない。1枚目の写真の道路。以前から記している通り、我が家では田んぼの下に水路と道路があるところが多い。この土手の草を刈れば、草は下にかき寄せる。加えて刈る前の写真を掲載していないからわからないだろうが、道路わきに草が大量に生える。したがってその草も刈るから、ようは我が家の土地だけの草刈ではない。加えて刈った後に草を片付けなくてはならないから、水路内の草を掻き揚げるととともに水路内にたまった土砂もあげる。さらに道路に草が散らばって残っていると何を言われるかわからないため、箒で掃く。ちょっと信じられないくらいこの空間は手が掛かるのである。もちろん、写真は箒で掃いたあとのもの。

 なお、草刈の範囲を示したものは「草刈の範囲」参照

 かつての災害復旧前のものは「農繁期」参照

 また、我が家ではこんな空間も草を刈る。「続 本日の成果」参照

 

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