Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

オープンスペースへ

2017-08-22 22:44:15 | つぶやき

 実のところ、わたしはかなり気が短い。いつのころからか「切れる」という言葉を若者、あるいは子どもたち向けに使うようになったが、本当のところ、わたしは子どものころから気が短くて、「切れる」の最先端をいっていたかもしれない。意外に自分が思っていたことが、後のスタンダードになっていたりする。自分の歩んだ道は、後の若者を導くような流れだったと、今になって思ったりする。そんな「切れる」わたしが、先ごろ会社の年下の同僚〈部署が異なるので「同僚」という表現が正しくないかもしれないが〉に悪態をついた。悪態というか叱責かもしれないが…。筋の通っていない理屈には、どうしても納得いかない。自分のことではなく、同じ出先の社員に対しての対応があまりにも筋書き通りで、自分の責任を回避しようかと思われるような対応の仕方に、憤っわけである。かつて自分より若い人たちには怒らず、上の者ばかりに立てついていたわたしにとってみれば、自分が年老いたことを証明するような出来事。今や自分より年上といえば数えるほどだし、周囲を見ても再雇用の人たちばかりが年上。もはや上を見る気配などなく、下の者しか視界には入らない。歳をとればそれ相応の人間になる、とは自ら実践しているし、かつての自分しか知らない人たちにとってみれば変貌ぶりに、もしかしたら落胆するかもしれない。「あの〇〇はどこへ行った」とばかり。

 いつも帰途につくにあたり歩む道は、それほど往来のある道ではない。そんな道に歩道が設けられ、車道との間にはガードポストが置かれている。ようは車道と一線を画した空間であるが、とりわけ帰途につく際に、狭い空間に進んで居場所を求めることはしない。車が通らないならオープンな空間(車道)に、自然と足は進む。誰もがそんな選択をするとは思わないが、ガードポストに制約された閉ざされた空間を、疲れを貯めた身体は求めないわけだ。けして気が短いから狭まれた空間を嫌うというわけではない。しかし、何らかの因果関係がわたしはあると思うし、そうした自分の性格を批判されてもどうにもならないというもの。自分が自分を理解し、納得し、そして描こうとする世界に自らを押すしかないのである。

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