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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ある地域の自治組織

2024-08-02 23:06:32 | ひとから学ぶ

 ある地域での話を聞いた。約250戸くらいあるという集落は「区」である。その下に常会が8あり、「ゴコ」と称されているいわゆる隣組に当る集まりが25ほどあるという。区の役員は「耕地総代」とも称されるようだが、4つの集落から一人ずつ4人選出されるという。そして区長はその4人で話し合いで決められるという。一人は区長、ほかに副区長、総務、会計という役員となる。耕地総代4人の互選で区長が決まる、というのは意外だったが、ここまではごく普通な姿かもしれない。そして何と言ってもこの区の構成には、通常神社の氏子総代と言われる人が「文化保存伝習部」という名称で区の役員に加わることだ。神社総代が区の役員に入るというのは、きっと違和感があるだろうことは容易にわかる。政教分離は、国家と宗教団体の分離の原則をいう。神社という宗教性の高いものが、自治組織の中では分離されて当然なのかもしれないが、実は自治組織の中で、意識されていても、従来通り自治組織の役員のように捉われている例は多い。寺は檀家制度によって集落全ての人が同じ寺に属すことはなく、また集落ごと寺があるわけでもない。そのいっぽうで神社は、集落単位で氏子になっていることがほとんどだ。自由に神社を選択しているなどという例は聞いたことがない。したがって神社総代を決めるには、自治組織の役員との重複を避ける意味でも、自治組織の役員選考に合わせて行われるケースが多くなる。とりわけ農村部はこの形が一般的かもしれない(長野県内では)。

 ということでここで例示した区では、神社総代ではまずいから、という意識もあったのだろうが、前述したような名称を付して、実際氏子総代と同様の役を担っているという。しかし、「文化保存伝習部」という名がついていることで、むしろ氏子総代以上に自治活動にかかわることが多いよう。まさに自治組織を担う一役員なのである。耕地総代と文化保存伝習部、合わせて8名については、常会からの推薦というようなスタイルをとっているようで、8常会の常会長は、区の役員を決める選考委員になるのだという。これら8名の役員の任期は2年で、任期が切れるとそっくり変わるのだという。したがって役員が次期重なることがないため、けっこう大変だという。そして何と言っても事業が多い上に、とりわけ耕地総代と言われる4名は出席する日数が多く、役員の負担が大きいという。あまりに役員の負担が大きいため、役員のなり手がいなくなると懸念されていて、現在の役員構成に限らず、区の様々な問題を検討しようということで、「検討委員会」が編成されたという。

 かつてこの地区の祭礼について何度となく足を運んで調べたことがあったが、当時からその祭礼に行われる芸能への力の入れように驚いたもの。地域の一体感がなければなかなかできないことと思ったものだが、今回自治組織の役員の実態を聞いて、この徳の役員の大変さを実感したわけである。わたしの周辺の地域と違い、都市近郊である。にもかかわらず、氏子総代が自治に大きくかかわり、そして隣組を「ゴコ」という。地域の自治とは、見た目以上にその地域の特殊性があり、都市近郊でもつきあいが強い地域が意外に多い。もちろんあくまでもこの区らしいものであって、隣もそうだというわけではない。地域社会がとても多様だという例である。

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真夏の避暑空間

2024-07-25 23:39:50 | ひとから学ぶ

 ある図書館へ平日の昼間訪れた。もちろん調べものに行ったわけだが、机でしばらく調べていると、まず高齢の女性がわたしの前にやってきた。本を読む風でもないが、落ち着きがなかったので「なぜなのだろう」と様子をうかがっていた。しばらくすると、今度は高齢の男性が手荷物を持って女性の横に座った。袋の中からアルバムのようなものを取り出して、机の上に出した。最初は女性は関係のないのかと思っていると、女性が小さな声を掛けていて、その様子から二人は夫婦だとわかった。女性も男性も、よそ行きの姿ではなく、まるで家の中で過ごしているのと変わりない格好のよう。普段着よりもさらに自宅着という感じ。机の上に持ってきた荷物を雑然と広げ、大きな机の上はその夫婦の持ってきたモノが広がっている。最初は図書館にある新聞を広げていた女性は、それを返すと編み物を始めた。男性の方は、写真の整理をしている。なるほどアルバムはそのため持ってきたのだ。編み物をしている女性を見て、男性の写真整理が終わるまで続けるのかと思っていると、間もなく編み物に飽きたようで、また違うことを始める。

 このように夫婦は図書館にやってきたが、そもそも図書館の本を読みに来た風でもない。時は午後2時を過ぎ、疎とは炎天下。今日はどう見ても35度以上の暑さ。お二人は、家からここに避暑に来たのだろう。まるで自宅で過ごしているような動き。自宅に冷房がないのか、あるいは電気代を抑えるためにここに来たのか、そのあたりは定かではないが、もちろんこの夫婦に限らず、同じ意図で訪れている人がいるのかもしれないが、これほど図書館とは異なった空間を醸し出している姿はなかなか見たことがない。暑い夏が故の、唖然とする光景だった。

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これも「残念なこと」

2024-07-17 23:45:13 | ひとから学ぶ

 ある市でのこと。ここにも何度かここに至る経過のようなものを記したから、思うところがあるのだが、友人が代表を務める委員会の事務局(市のある部局)と長らく調整していた件が、結局友人の申し入れは全く聞き入れられず、上からの指示で思わぬ方向へ進むことになったと、友人から知らされた。わたしも何度となくその事務局に依頼されて会議に参加したこともあって、さらには友人と対策を練っただけに、「あの時間は何だったんだ」と思うばかり。もともとその部局は市長の意向もあって立ち上げられたもので、現在、県内でも他では表立った動きがない事業だけに、その業界では注目されていた。しかしながらその実態はまったく残念なもので、友人は上から見事なほどにその立場を虚仮にされて、わたし以上に残念な想いを募らせているに違いない。

 そもそもここでいう「上」とは、友人と同じ委嘱された身であり、委員長に選ばれただけの立場なのに「権限は自分にある」と、友人の願いをことごとく破棄した上に、会議の場で虚仮下ろすような言葉を友人に吐いたともいう。その「上」に限らず、わたしがかかわった何度かの会議で「この人たちはいったい…」と思うような言葉をいくつも耳にした。例えばここでいう「上」の人は、「立場をわきまえろ」と、会議の席でわたしに吐いた。会議の中には事務局と委嘱された委員、そして今になって察すると助言者にあたるわたし(友人から推薦で事務局から依頼されていて、その会議の中では同じ立場だと認識していた)だった。「上」は委員と助言者は同等ではないのだから「口を出すな」というような意図があったのだろう。それまでかかわっていた会議の中では同じ立場(もちろん委員とそうでないわたしは、委嘱上の違いがあることは認識していたが)だと思っていたら、たまたま会議に同席した「上」に「お前は違う」と明確に言われたと、その時に察知したわけである。もちろん納得できなかったので意見をしたところ、口を濁すようにごまかされたが、以後その会議において同じ立場ではないという捉え方がされて、事務局もわたしには意見を聞かなくなることに…。

 これは「上」からの言葉であったが、同じ会議でそれまでにも意外な言葉はいくつも耳にした。「地元に残った人たちは勉強が苦手だったから」と口にされた方は、地域で聞き取りをしても「これ以上何を聞くの?地元の人たちが語った内容はわたしでも知っていること」と口にした。また「聞き取りをしたが良い話者ではなかった。何も得るものがなかった」と口にされた方も…。そんな言葉にわたしは憤慨し、「それでも機会を得た話者から何を聞き出すか努力しなければいけない」と言ったが、そもそも聞き取りは「必要なのか?」という意識が彼らには漂っていた。「上」も含めて、いずれも教員OBである。民俗の世界では、このような経験がほぼ皆無だっただけに、「この人たちはいったい何者なのか」と思ったわけだが、考えてみればどんな学歴でも等しく見てくれるのは「民俗学」の世界だけなのかもしれない。先ごろ自費出版した際にも、わたしが「高卒だから」ということを「あとがき」に記したところ、大学の先生から次のような言葉をいただいた。

「あとがき」で御自身の立場を述べられておられますが、戦前に松本で行なわれた「話をきく会」の主催者三人は、全員研究・教育・文化財等を職業とした者ではありません。池上喜作は中卒で商人、弟の隆祐は大卒ですが代議士、胡桃沢勘内は小学校を出ただけの銀行員でした。ただただ民俗学が好きなだけだったのです。一般の方たちが加われるのが、この学問の価値であり、柳田もそれを願っていたと思います。

 残念ながら田舎では知識の高いのは教員、という認識が本人たちにいまもってあることを知った。そしてそのような人たちがある市の予算を使って残念なものを作ろうとしていることを、市長は知らないだろう。そもそも友人が市長に直接話そうとしたらお咎めをもらった。今、この市はだめかもしれない。

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畔草のこと

2024-07-06 23:13:14 | ひとから学ぶ

 8月例会において、畔草管理について報告する予定だ。先ごろ発行された「長野県民俗の会通信」302号へ、わたしが先ごろ刊行した本への書評をいただいた板橋春夫先生は、第1部の「写真で見る上伊那の民俗」の中で一番感動したのは、「畦草刈り」についての記事だったという。そして「昭和五十年代に圃場整備された地域の区画は大きい。しかも苗が植えられた後、雑草が生える畦がきれいに草刈りされる。著者はそれを美しいと見る。どの家も周りを気にしながら草刈りに精を出すが、それは見栄ではなく、強制でもなく、きれいにしたい、という気持ちが地域全体にある雰囲気なのである。」とその写真から捉えられた。その上で、「それに対して、評者が住む群馬県伊勢崎市の水田はどうだろうか。お恥ずかしい限りである。散歩に出て、近くの水田地帯を歩く。二十年前から歩いているが、近年は畦に雑草が多くなり気になっていた。なかには耕作放棄の場所もある。近所に住む農家の人に聞くと、二毛作なのだが、稲刈り後に麦を作らない家が出ているという。また、稲は水まわりなど手間が掛かるので、稲作をやめて麦一本化の農家もあるらしい。それで荒れていると説明してくれた。」という。これは致し方ないことで、高齢化した担い手組織がこの後どうなっていくか不透明な中、とりわけわたしのフィールド空間では、そう遠くないうちに耕作できなくなるのでは、という印象が拭えない。何より転作誘導されなくなったのに、水田が減少している。例えば西天竜である。10年ほど前には水田の青々した姿が当たり前だったが、今は転作されている姿が目立つ。もちろん転作なら良いが、何も作られていない水田も目に付くようになった。コメ作りが加速的に減っているのでは、と思うほどこの時期になって水田の姿が少ないのである。

 そして草刈りである。例会におけるわたしの報告は、今ところ次のようなテーマを考えている。

①草刈の現在
②草刈の範囲
③刈った草をどうする
④この後の草刈

というようなもの。以前から日記で記しているように、本ブログにおいて閲覧の多い記事に「草刈をする範囲」がある。そこにも図を示しているが、わが家の場合、草刈をする範囲が、ふつうの人より広い。そうなった経緯もあり、それについても触れる予定だが、地域によって違いもあれば、農家の考え方によっても異なる。そしてその範囲は、あるいは暗黙の了解は変化しつつある。その上でこの後、どう変わっていくのか、といったところまで触れる予定である。

 さて、今日も草を刈った。昨日の石拾いでふだんしない動きをしたせいで「腰が痛い」。それでも我が家では、1週間草刈を何もしないと、あちこち草の丈が伸びて、この先の炎天下での作業負担が嵩む。したがって少しでも草を刈っておかないと、間に合わなくなるというわけである。「草刈をする範囲」でも触れている上側の田んぼとの境界ライン。写真のとおりである。ふつうは法下が境界(ここでいう境界とは草刈境界のことを言う)であるが、わが家と上の田んぼとの境界は法下ではない。その上、写真でもわかるように、わが家では前週に法半分まで刈っておいて、草寄せをしてなかったのだが、上の田んぼの人が今日草を刈って、その草が我が家で刈った範囲に倒れ込んでいるのである。そもそも上の田んぼの人が刈る法面を我が家で刈っているのに、その刈り倒した草の上に、草が倒れ込んでいて、「これ誰が草を寄せるの?」状態になっているのである。果たして、この後動きがあるのか、ないのか……。

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何が「不公平感」か

2024-06-13 23:34:16 | ひとから学ぶ

 先ごろ、8日の信濃舞知日新聞中信地域版のページに「不公平感ないか?」 塩尻安協の賛助金、朝日支部は村が公金支出 他支部から疑問もという記事が掲載された。「塩尻交通安全協会(塩尻市、朝日村)が全11支部に上納を求め、協会の運営費として使う「世帯割賛助金」について、朝日村全域を範囲とする朝日支部(事務局・朝日村総務課)は本年度から、村が支出する補助金を充てることにした。」というもの。集金する安協担当者の手間を省く意味で「公金支出」となったのだが、それに対して「疑問」という声を記事は取り上げている。「疑問」の意図は、ようは賛助金、いわゆる赤い羽根や緑の募金のように、募金的意味合いがあるものを一律公金支出では、「出したくない」人の意見が無視されることにならないか、というわけである。確かに一理あるものの、記事の内容を読んでいくと、むしろ違う意味の不公平感が浮かぶ。ようは徴収率の問題である。

 塩尻の安協では「支部に集金を求める世帯割賛助金は以前、所有する車の台数や運転免許証を持つ人の数に応じて、各支部が独自に世帯当たりの額を決め、集金していたという。だが、支部により額が異なることから「不公平ではないか」との声があり、塩尻市と相談し、一律千円を目標に集めることにした。」という。その上で世帯数に対する徴収率は、「2023年度は高い方から順に、楢川支部(76%)、洗馬支部(73%)、朝日支部(64%)、北小野支部(60%)。低い方からは片丘支部(15%)、広丘支部(22%)」などだったという。この徴収率の違いは、隣の動向をうかがいながら行動する田舎らしいパターンを映し出している。そして田舎というか山間部ほど徴収率が高く、都市部は著しくその率が低下する。面白いのは徴収率の低い片丘支部では、「6~7年前、住民から使途を問われた集金担当者が明確に答えられなかったのを機に、ある常会がそっくり支払いをやめた。「払わなくてよいようだ」との話が広がり、現在の低徴収率につながった」らしい。ようは個々の家で隣をのぞいたのではなく、集団で隣の様子をうかがって、「あそこで出さないのなら、うちも出さなくて良い」という感じの行動が起きたというわけである。こう見てみると、一律公金支出の方が、よほど講へ宇世が保たれていると見える。募金とか賛助金について、どこの地区がいくらだから、ここではいくら、みたいなことにならないように、あまり地域ごとの金額を告知しない傾向もあるのかもしれない。しかし、そもそもその賛助金とは「何なのか」ということになる。

 実は2015年1月30日の日記「集金常会・中編」に、同じ塩尻市の安協の話題を記している。塩尻市「声のひろば」というページに「常会の役員が交通安全協会の費用というので、毎年千円集めていますが、あれは何のことでしょう。常会を通して、赤十字とかいろいろの費用が集められ、公共の費用をこういう形で集めれば、反対のしようがないですが、再考していただくわけにはいきませんか。常会役員をこういう形で使うのは、どういうものでしょうか。」というものがあって、その回答についてわたしは日記に記している。そもそも安協の担当者は常会で決められていて、常会に入っていない人から集金する必要はない。裏を返せば、いわゆる自治会に加入しなければ、このような賛助金に限らず募金の話もないわけで、それが納得できなければ自治会を脱退すれば良い、という短絡的なことに繋がりかねない(実際、そういう事実もあるだろう)。そう考えると、そもそも自治体がらみでこのような集金を、個々の家に求める手法そのものが言及されるべきこと。しかし、いまだに地域社会はそこまで異論は発していないのも事実。そして都市化した地域ほど協力者は減る。わかりきったことではあるが、「どこかおかしい」ことに変わりはない、そう思う。

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『栄村東部谷の民俗』を概観して

2024-05-29 23:26:04 | ひとから学ぶ

 「意外と文字化されていない事実」で触れた埼玉大学文化人類学研究会が1992年に発行した『栄村東部谷の民俗』を確認してみた。「志久見川沿いの集落景観」で触れた集落ごとのお堂の存在についての記述を求めたわけであるが、民俗学を専攻されている学生たちの目にどのように映ったのかが知りたかった。「東部谷」と銘打っている「谷」は志久見川の谷に当る。ただ調査されたのは北から志久見、長瀬、北野、極野の4集落であり、今回わたしが志久見川を下りながら概観した全ての集落に渡っていたわけではなく、代表的な集落をピックアップしたということになる。したがって「どこの集落にもある堂」という視点はそこにはないものの、それぞれの集落についてそれぞれの堂の記述がされていて興味深い。4集落ごと第1章において「概要」を示しており、その中で県道を南へ川を遡る形で概観している。そこには堂の存在がルート上のどこにあるか記載されているが、それと現在の地図(グーグルマップや国土地理院の地図)を対比して遡上しても、どの堂なのかはっきり今となっては分からない部分もある。ただ、かなり詳細に記述されているので、本書を参照しながら、集落を実地で遡ってみると良いのかもしれない。何より本書には集落図が記載されており、ありがたい。その集落図と現在の集落をグーグルマップで対比すると、家の数がかなり減少していることに気づく。その上で「志久見」の第1章概要に記されている「薬師」といわれる字名のあたりが柳在家との境界になり、そこには薬師堂があるというのだが、わたしが現地で県道を北へ下りながらの視線に薬師堂は目に入らなかった。どこにそれがあったのか、これもまた宿題である。そもそも「第四節 堂宇・小祠」の中には十王堂は登場するが薬師堂は見えない。記載間違いなのかどうかも含めて、あらためて現地踏査が必要なのだろう。

 集落内において堂の存在、あるいはかかわりについてどうなのか、という面においても読み込むと見えてくるのだろうが、地図と文章を対比しながら再確認してみようと思う。本書を概観した中で気づくのは、どの集落にも「修験」が登場することである。ホウインサマとかホウゲンサマと呼ばれる人たちで他地区に住まうそれらの人を頼り、様々な場面で依頼していたようである。新築の際のジマツリや新年のカドツケなどお祓いと言えばそうした修験にかかわる方に来てもらっていたようだ。その中で、新年になって行われるヒマチはどこの集落でも行われていたようだ。このヒマチ、我が家の近辺でもオヒマチと称して行われていたもので、それらは修験者が担っていた。いまでこそ修験者の存在は薄くなっているが、かつてはどこでも修験者とのかかわりがあったのではないかと想像する。

 また、葬送の記述ではかつての葬儀の様子が詳細に記されており、現在もうかがえるように、お堂のある墓地において引導が渡され、そのお堂には葬送道具が保管されていた様子が見える。単純にお堂といっても、集落に複数のお堂があるところもあり、役割があったようにもうかがえる。いずれにしてもそれほど戸数の多くない集落において、自ら管理するお堂を持ち(これらは寺の管理するものではない)、そこを中心に人々がかかわり、暮らしていた様子がうかがえ、本書は志久見川沿いの人々のかつての暮らしを、そして現在の姿と対比しながら見るには大変参考になる書であることに間違いはない。

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気遣いと、選択と

2024-05-21 23:12:59 | ひとから学ぶ

 朝通勤時、ふだんなら渋滞もしないような場所で渋滞する。地方なので、通常なら渋滞など発生するはずもないのだが、朝の通勤時だけは別の世界が訪れる。なぜかと言えば、交差点を右折しようとする車が曲がれずに待っているから、後ろに車が繋がる。右折先に通勤先の会社があるからなのだが、大会社ではないので、何台も右折するというわけではない。しかしながら、対向車線の直進車がいれば、曲がることはできない。だから渋滞発生となる。毎朝のことだから、それを回避するべく、手前の信号機のない交差点で右折し、何らかのルートで会社へ向かおうとする人も時おりいる。また渋滞する交差点は100メートルほどのところにもうひとつ信号機があって、両者ともに同じような渋滞を引き起こすが、片方は交差点が広く拡幅されているため、右折車がセンターライン寄りに沿ってくれれば、その脇をくぐり抜けていくことが普通車なら可能だ。もちろん大型車が右折車の後ろに着いてしまうと無理ではあるが…。渋滞させない気遣い、ようは右折車はセンターライン寄りで対向車が途切れるのを待つ、繰り返すが大きな車であったり、運転手によってはすり抜けられるという判断ができず、結果的に渋滞を引き起こしてしまうことはあるが、それでも少しでも渋滞させない、後続車に迷惑を掛けない、という意識があれば、1台でも、2台でも渋滞の列から消えていく。そういう意識を持たず、ど真ん中で右折を待てば、場合によっては対向車が全く途切れず、1台も交差点を進むことができず、信号が「赤」になってしまう、そんな光景を目にすることも珍しくない。なぜこんなところで、というような渋滞が延々と続くことになる。選択肢を増やすための行為をして欲しい、そう思う。

 もうひとつ、対向車である。右折車をあえて右折させてあげる、そういう意識もちょっとしたもの。直進車が優占だから、けして右折させてあげる必要はないが、ちょっとした気遣いで渋滞はまったく発生しない。対向車線に車が繋がっている、という光景を視界に入れさせて、その上でそれを解消するという判断を誰かがしてくれれば、車が繋がることはない。さらには車間が空いていれば「右折する」という意識がないと、結果的に右折できずに渋滞が長くなってしまう。いずれにしても、「ちょっとした行為」が無い限り、選択肢はなくなる。

 さて、我が家では昨年軽トラックを新しくした。今はダイハツかスズキぐらいしか軽トラックを製造していない。いずれの軽トラックも給油口は同じような構造らしい。鍵を使わないと給油口が開かない。前に乗っていた軽トラックは普通車同様に、運転席で給油口の扉を開ける操作ができるため、鍵を使う必要はなかった。そう言えばと思い出すのは、何十年も前の車は、鍵を使って給油口を開けた。まるだ大昔に戻ったような給油口の構造には、買い替えた時に驚いた。でも今の軽トラックは「こうですよ」と聞いてびっくり。この時代にしてなぜこのような構造なのか、と。確かにまるで軽の乗用車に乗っているような印象を受けるほど乗り心地は良くなったものの、この構造はないだろう、と思うのは給油口だけではない。座席のリクライニングのレバーがドアと反対側にある。車を降りてリクライニングをさせようとすると、反対側にレバーがあるからとてもやりづらい。とくにわたしの乗っている車は、座席後部に少し空間のあるタイプの軽トラック。その空間に荷物を置いていると、この操作を頻繁にする。とてもじゃないが、面倒くさくて仕方ない。なぜこういう構造になったのか、信じられないような利用者への「気遣いの無い」選択である。

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思うこと

2024-05-10 23:59:59 | ひとから学ぶ

 平成14年11月30日にまだ上村だった下栗で長野県民俗の会総会シンポジウムが行われ、報告者の1人として発表の機会を持つことができた。その内容については、「下栗の自然と生業」と題して長野県民俗の会会報26号に発表した。そのシンポジウムの後、当日参加された大学生の女性から感想というか、意見をいただいた。わたしの報告はそれほど内容の濃いものではなかったものの、時を置かずに直接送っていただいたことに、ちょっと驚いたことがあった。そのことについて彼女に問うと、発表など聞いた際には、感謝の意味も込めて必ず感想を送っているとうかがった。「なるほど」と思ったし、それだけ速攻で意見としてまとめておけば役に立つんだろうな、などと感心したものだった。そんな経験があったから、「わたしも」とは思いもしたが、発表はもちろん、出版された本を贈っていただいても感想どころか返事もできないようなこともあった。この日記(ブログ)を始めた原点には、その際の出来事が少なからず影響している。平成17年の7月から始めているから、その数年後のこと。

 この3月末をもって退職して区切りとして自費出版本(内容は民俗関するもの)を印刷した。公開をしない予定のものだが、それらはお世話になった方々に配布した。多くは会社関係であるが、もちろん民俗の仲間にも配った。これまで出版されて贈っていただいた方々にもお送りしたのだが、その中には大学の先生で贈っていただいた際に何もお礼ができなかった方々もおられた。そうした方々から、お礼の手紙をいくつかいただいた。わたしは何もできなかったのに、励ましの手紙をいただき、あらためて感謝とこれまでの自らの対応のまずさなど、自己内省しているところである。とりわけ書評用にと長文をお送りいただいた先生は、開封後すぐに読んでいただき、すぐに書評形式でまとめていただいた。発送して1週間もしないうちのこと。これにはもう感謝しきれない思いだ。わたしもそうだが、「後で」と思っているとずるずると日が過ぎていき、思っていたことが無しえないのが常だ。ふつうの人はそんなものなのかもしれないが、繰り返すが冒頭の女性のような心持で、必ず感想を記す心がけは大事だと、つくづく思うところだ。日々の積み重ねが大きなものになる、そう思う。だからこそのこの日記なのだ。わずかずつでも1年には膨大な分量となる。もちろん内容は薄いが、後に資料となり得るものがたくさんある。

 そうした感想なり、言葉が欲しくて配布したわけではないが、受け取ったことへのなんの反応も示してくれない人も多い。とりわけ会社関係の方たちは、ほとんどが無音である。配布する必要があったのか、と自らに問う事にもなるが、これが現実だと、今は残念に思っている。退職時に慰労会を、という声をいくつも聞いたが、仕事が忙しいこともあってほぼ全て断った。それが間違いだったとも思わないが、意外に定年の日を境に、何ごともなかったように、再雇用の日々が始まり、1か月が過ぎた。もう何年もこんな感じだったのか、と思わせるほど、もはやよその人となっている。自らの鏡を見ているのだと、今は悔やみはしないが、もっと自由に生きてくれば良かったと思っている。ずいぶん人のために「やりすぎた」のかもしれない。その上でこの程度なのだから人間として何もなし得なかったのかもしれない。そういう意味では、あらためて過去の自分に戻れば良い、と今は思っている。

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「郡境域」を実感した日

2024-04-12 23:50:49 | ひとから学ぶ

 先に定年を節目に出版した本へ、上下伊那に関する地域性を扱ったものを掲載した。ふたつの上下の伊那郡を例として、両者の意識差を示そうとした試みで、その中で印象ではなく、特に数値化して地域性を示したものに、雑誌『伊那路』と『伊那』の購読者数を扱ったものがあった。ようは上伊那地域で発行されている『伊那路』と下伊那地域で発行されている『伊那』、その両者を数十年という長きにわたって購読してきた背景には、曖昧な地域に暮らしているから両者を購読なければならない、という意識があったからだ。両者の境界域に生まれ育ったから、片側だけでは自らの立ち位置から察すると「片手落ちである」というもの。双方に視線を向けないと、結果的に周縁部から中央域を眺めるだけになってしまう、それを打開するには(言ってみれば自分の存在を高めようという意識からのものなのかもしれない)両方の意見を聞いて、その中間的立場で物言いをすれば、それぞれの地域から認められるのではないか、という思いである。こういう思いは、周縁部だから育まれるもので、中央部の人たちには育まれない意識と、わたしは勝手に思っている。

 

 今日、友人と飲み屋で飲んでいて、郡境域、とりわけ下伊那と縁の深い中川村について話をしていたところ、隣席で飲んでいた年配の方が「違う」とわたしに怒っているのである。なぜそうなったかといえば、前述したように両誌の購読者の数を例にして、「中川村の人たちは、どちらかというと南を向いてている」というような話をしたうえで、中川から見れば上伊那郡にありながら伊那より飯田が近く、交流圏としても飯田に傾向しているというような話をしていたわけである。もっと極論を言えば、上伊那郡でありながら、下伊那へのまなざしが強い地域であることをわたしは主張していたわけである。それに対して「おまえはどこの者だ、中川は上伊那郡だ」と怒り心頭なのである。飲んだ席での自由な発言にほかならないのだが、よほどわたしの口にしていた意見が気に障ったようだった。もちろん中川村が上伊那郡であることは百も承知であり、その上で行政的区割りを抜きにして「実際のところ住民の意識はどうなんだ」という面で話をしていたわけなのだが、それでも許せなかったようだ。両雑誌の購読者を数値化した際のことは、以前にこの日記でも記したことであるが、実際のところ、上伊那で発行されている雑誌より、下伊那で発行されている雑誌の購読者が6割以上を数える。明らかに住民の意識は下伊那へ傾向していると言えるわけで、もちろん怒り心頭の方たちは残りの3割に入る方たちなのかもしれないが、これは調べた上での事実であったわけである。異論を唱えられた方たちは、きっと「中川の方たちなのだろう」、そう思って反論はしなかったわけである。

 

 ところがである。電車で帰ろうと駅に向かうと、先ほどの年配の方たちが数人固まって上り線ホームへ向かっていく。見つかると厄介と思い、少し距離をとって同じホームに立ち電車を待ったわけである。おそらくわたしの降りる駅の近くまで乗っていくのだろう、そう思ったわけだが、なんのことはない、遥か手前の駒ヶ根駅でみなさん下車していった。まさかここからタクシーで該当の村まで帰るはずもない。おそらく駒ヶ根にお住まいの方たちなのだろう。もしかしたら中川とはまったく無縁の方たちかもしれないし、あるいは中川出身なのかもしれない。とはいえ、後者だとしても今は中川には住んでいない。言ってみればその村を捨てたわけである。出身地を指摘する意見が聞こえたから反論せずにはおられなかった、そんなところなのかもしれない。気持ちはわかるが、現実、今住んでいる人々の代弁はできない。これこそが、境界域の人々の厄介な意識なのである。必ず北を見ている人もいれば、南を見ている人もいる。その上で、自分の暮らしてきた領域はどちらかであり、自ずと思い入れが生じる。だからこそ、境界域は同じ方向を見られない多様さがあるのだ。たまたま飲んだ席で、こんなタイミングの良い事例を垣間見れて、わたしはとてもうれしかったわけである。まさにわたしの意図している意識の体験なのである。

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繰り返すが、「無法地帯」

2024-03-11 23:01:45 | ひとから学ぶ

 2022年1月に「無法地帯」を記した。現在もそ際に触れた小黒川パーキングを、朝毎日利用している。朝方はこのスマートインターを利用して降車する車が多い。県内のスマートインターの中でも、利用頻度の高いスマートインターといえる。その際に利用した図を、あらためてここで再利用する。

 「無法地帯」では、通常誘導通りに進めば青色ラインでインター出口に向かうなかで、利用頻度が高いため、インターで降りようとする車が繋がっていると、「停止線」で停止するため緑色ラインから来た車に道を譲ることになり、結果的に後続車が青色ラインから入ってきた車の前に出ることになることについて触れた。おそらく毎朝緑色ラインで通過して、そこで記した行為を行っている車がいるだろうことは、躊躇なくここから誘導ラインではなく、そのまま進んで緑色ラインで売店前を通過している車が見られることからも確実である。「事故に遭えば良いのに」とは言い過ぎかもしれないが、平気でこれをやる人がいるのには勘弁ならないところ。繰り返すが、青色ラインに車が繋がっていなくとも、「いつも通り」のように緑色ラインに入り、売店前を通過してインターゲートへ左折する車がいる。明らかに毎日、このルートで走っている証拠でもある。

 先日も、小黒川パーキングへ本線から分岐してパーキングにゆっくりと減速していくと、後ろから勢い接近してきた車がいた。ふつうに青色ラインに入ってゲートに向かうのなら、前に車がいるから急接近する必要などないが、すっと緑色ラインに進む。明らかにわたしの前を狙っていることがわかったので、「お先に行けば」と青色ライン上で急ぐこともなく停止線まで進んだ。もちろん停止線の前を緑色ラインから左折して、先にゲートへ入って行った。またまた繰り返すが、わたしの前に車はいなかったから、わたしが青色ラインでそれほど減速せずにいって、停止線で徐行せずに突っ切ればわたしの方が早かっただろうが、そこまでする人の前に、無理に出ようとすれば「何をされるかわからない」ので、そんな愚行には出なかった。停止線は「一旦停止」と路上にペイントされてはいるが、「止まれ」はないので、違反ではない。したがって「無法地帯」のパーキングやサービスエリア内では、高速道路本線上同様に、先行し者が優占とも言える。ようは青色ラインの方が距離は短いから、緑色ラインに入った方が、「必ず早い」というわけではない。こうした愚かな行為を日々実践している人たちに、「何と申しましょうか…」。

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拭えないこの後の時代を憂い 後編

2024-03-08 23:05:23 | ひとから学ぶ

拭えないこの後の時代を憂い 前編より

 それにしても、わが社の会計検査へのかかわり方は、わたしが生業に着いた半世紀近く前と何も変わっていない。お客さんとの関係から、どれほど手間をかけても、これに対する報酬はない。前編でも記したように、約2週間ほど、出先の要員の半数以上がこれに終始した。したがって通常の業務は止まったままだから、当然のことこの年度末の忙しさがさらに忙しくなる。民間の意識であれば、赤字になることに時間をかけるはずもない。

 かつてなら該当物件にかかわった皆が物件に間違いがないように見直し、そして掃除をしたり、周辺整備をするというのは当たり前だった。ところが今はコンプライアンスがものを言う。発注側と受注側が対等であるならば、できあがったものへの発注側への検査に、受注側が関わることはあり得ない。ようは昔のような関係者全員での準備は過去の話なのである。ところがいまだにわが社のかかわり方に変化はない。いったいわが社とは「何者なのか」と、知らない人々には映るだろう。今回も竣工書類に関してデータを依頼したところ、受注者側の社長は「なぜ必要なのか」と担当者に注意したという。既に受注側が納めた物件に対して「会計検査だから」といって手を貸す必要など「ない」というわけだ。受注側は、発注側の意図通りにモノを納め、検査して納めたもの。いまさらそこに手間(費用)を要す必要が無いのは、ごく当たり前な意見だろう。ようはかつてのような役所と業者の関係はそこにない。これもまた当たり前のことと言えるが、それほど世の中は変わっている。かつての慣れあいのようなものはまったくなく、対等といえばその通りで、文句のつけようもない。しかし、それほど割り切られた社会で、地方の自治は成りたつのか、と問われると、わたしは疑問である。

 今や勤務時間に対しての統制も厳しい。たとえ建設会社であっても、残業がたやすくできる時代ではなくなった。正当なルールに沿って雇用関係が築かれる。おそらくわたしにはまだ見えていないが、農業の分野でもいわゆる法人のような空間ではそれが当たり前になっているのかもしれない。個人農家が、いまだに農作業時間に制限が無いのとは、まったく異なるのである。したがって会社組織においては、環境は様変わりしてきている。いっぽうでわが社はどうかといえば、確かにかつてに比べれば改善されてきているが、世間のしわ寄せが「ここにきている」と言っても差し支えないほど、昔と変わらない。結局すべてのコンプライアンスが正統化されれば、この社会は動作不能となる。なぜならば、カバーできない世界が必ずあるし、人手不足は一層それを顕在化させる。伸縮性のない社会、あるいは応用力のない社会へと進み、それを受け止める人々がいなくなった時、社会の崩壊、あるいは破裂が見えてくるのではないかと危惧するのがわたしのひとり言であって欲しいと、願うだけである。

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拭えないこの後の時代を憂い 前編

2024-03-07 23:48:27 | ひとから学ぶ

 空白は長らく続いた。そうこうしているうちに、わたしも生業の一線を退く日が近づいた。定年ともなれば、その末期はゆっくりと生業の一生を振り返る時間が欲しいところだが、まったくそのような余裕がなかった。これまでにも何度か記してきたが、年々余裕がなくなり、まさかの怒涛の3月を迎えた。まだ3月も半月以上あるが、昔のような定年の迎え方は、わたしには少なくともない。とはいえ、ここに記すことができるようになっただけ、ほんの少しではあるがかすかな隙間が見えてきたということになるだろうか。

 今週はこれまでにも度々キーワードとして登場した「会計検査」があった。このキーワードで検索すると、この日記にも何度となく記事が現れる。そして改めて過去に記した記事を読んでみると、つくづく「なるほど」と思わせるものを書いていたことを知り、かつての自分の捉え方に感嘆したりする。例えば2017年に記した「希にみるピンチ」である。会計検査を迎えるにあたってのこころの揺れが見て取れる。その上で、

いまだ実際に会計検査を迎えるにあたって、当時と同じような課題は残る。それは一過性の出来ごとであることにも起因する。台風のようなもので過ぎてしまえば忘れてしまう。しかし、あらためて過去のものを紐解いたとき、自ら担当したものならいざしらず、人の携わったものは理解するのに時間がかかる。だからこそ伝達すべきことは文書で残す必要があるし、記憶に留める必要がある。ところが我が社は多くの人材を人員整理で失った。今もってその余波はあって、すでに社にいない者の手がけたものが該当すると、もはや目も当てられない。教訓を目覚めさせてくれる機会でもあるのだから、それに学ばない手はない。

と記した。今もってその流れは変わらず、「嫌なもの」だから過ぎてしまえば「忘れたい」とみな思う。検査そのものは月曜日から金曜日まであるが、実質的には木曜日までの4日間が勝負。その間1日済むごとに解放される人々がいる。当日を迎えるまではピリピリと情報を得ようとするのに、終わった途端にすべて捨てる。情報すら他部署に流さない。いってみれば「自分さえ良ければ」という雰囲気はあからさまだ。そして今回ほど部署間の情報共有がなかった検査はなかった。理由は様々だが、統率すべき本社の対応のまずさは特筆できる。とりわけ今回の検査では、わが社の関わる物件が数多かった。例えばわたしの管轄エリアでは、8割以上がわが社が関わったもの。これほどの確率で該当する例は今までなかったと記憶するほど。そういえば「繰り返し、「疑問に思う」」に「思い出すのは10年以上前のこと、…」と記した会計検査の際も、わが社の関係物件が多かった記憶に残る検査だったかもしれない。いずれにしても、一人複数地区を担わなくてはならないほどの物件数で、該当地区の発表以後約2週間、ほかの仕事はストップしてそのための準備に当たった。「問題を発しない」が合言葉であり、無事に何事もなく終えられることを描く。そのためには準備に完璧は無いから、無限大の準備が続けられる。そしてその対応は、これまで日記に記してきた通り。例えば「やられたら「やり返す」」に記したように。

続く

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遠い「山」

2023-12-27 23:52:51 | ひとから学ぶ

 今日はあるお客さんの全国表彰受賞のお祝いの祝宴であった。妻には「忘年会が無いといったじゃない」と言われ、忘年会と間違われた飲み会であるが、明らかに忘年会ではない。長年務めていただいた功績に対する評価を受けての受賞なのである。ごく身内の8人ほどでの集まりではあったが、市長さんやそのお役所の方たち、また受賞者との深い縁のある方たちが集まった宴会の席であった。コロナ禍を経て、なかなか飲み会が復活しないことについては、先日触れたとおりだ。しかしこうした仕事上のお客さんとの懇親の席は、むしろコロナ禍以前以上に今年は多かった。その締めくくりの今日だったように思う。

 

 その席でも話題になったのは「地域性」だった。諏訪とか下伊那とか、木曽、松本といった地域との比較の上にある「伊那」である。そうしたなか、今までの認識がいろいろ間違っていたことにいくつか気づいた。長くこの地で仕事をしてきたのに、「そうだったんだ」と何度口にしたことか・・・。ここは「富県」と思っていたエリアが、実は東春近であったりして伊那市内の旧村境界は複雑に入り組んでいることをあらためて知ったところ。伊那市と言えば南箕輪村との境界域が複雑に入り組んでいて、認識しづらいことは周辺の人も、また市内の人でも気づいていること。そうしたなか、東春近には西山に共有山があるといい、また美篶の共有山が新山にあったりと、旧村エリアで捉えると、村から遠く離れたところに山を持っていたところが多いようだ。なぜ遠いところに山が必要だったかといえば、やはりカリシキ山が必要だったということなのだろう。とはいえ、東春近からみれば、西山は天竜川の向こう側の山。また美篶から見れば新山は天竜川の支流では最も大きいとされている三峰川の向こうに位置する。大きな川を隔てても欲しかった「山」なのである。なるほどと納得できるのは、東春近には川向こうの西春近の中に「木裏原」という飛び地の集落が存在する。天竜川の右岸だからみな「西春近」なのかと思えば、なぜか東春近が存在するのも、東春近の共有山が西山にあるというのだから理解できる。こうした複雑な地域は、けして珍しいわけではないだろうが、とりわけ伊那市域には顕著のような気がする。そしてそれが市域の人々の根幹にいまもって根付いていて、集落ごとの意識に影響している、とはわたしの考えだが、興味深いところで、ちゃんと調べられるといいのだが・・・。

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個人と「家」

2023-12-26 23:36:54 | ひとから学ぶ

 来年度に向けて予算を組んだり、人事のことを考えたり、そういう時期である。公民館の地域の末端(分館)の役員を3年続けて担って、今年でひとまず公民館からは外れることができる。とはいえ、コロナ禍は活動が中止になったから、フルに活動したのは今年だけだ。「楽をした」と言われればその通りで、中止は裏を返せば「ありがたかった」という正直な気持ち。そう思う人は、こうした地域の役を担っていた人には多いだろう。これまた裏を返せば、そのものの必要性にもかかわる。

 わたしはもう来年度は無関係となるが、来年度の役員をお願いする際に、候補をあげてもらった方たちに順番に依頼した。みなさん優先順位一番の方たちが受けていただいたから、一人目で終わったため、ここでも「楽をした」。役員は4人。上から二人はスライドして役員になるから、新たに加わる二人だけお願いすればよい。ただし、来年お願いする候補者に単身赴任の方がいた。快く引き受けていただいたが、上部の役員会は平日の夜開催されることもある。その場合「休む」か「代理」となるが、わたしは「代理」ならほかの役員が担えば良いと考えていた。ところが、役員の中から、「引き受けたのなら引き受けた人がやってもらわなければ困る」と意見された。ようはほかの役員が「代理」で上部役員会に出席するというのは「NO」だと言わんばかり。受けた者が出られないのなら、受けた者が代理を探せということになる。そもそも上部の役員会に部外者が出席しても役割を、また地域の分館の内容を理解していなければ「意見」はもちろん「同意」も「反対」もできない。だから「役員が代理」するべきだ、とはわたしの考えだったのだが、違う意見の背景には「奥さんが出ろ」という意図が見えた。もちろんある程度内容を理解できるだろうが、本旨とはいえない。地域の分館の役員会に奥さんが出てきて発言するのも違うし、そもそも役員は「家」で担っているわけではない。ところがそれら意見の背景には「家」単位の考えが見え隠れする。ようは「昔」の地域意識である。役員は個人名なのに、トータルには「家」で受けているような感覚。

 すでに「家」という存在は希薄化しているし、そもそも今や独り身の人も多い。何世代も同居しているのは過去の話で、地域社会の構成は、家単位でみてもそこには一人か二人程度という「家」が多い。この事実を踏まえれば、当たり前に役員はその個人が担っているもので、家族とは無関係だ。確かにいまだに昔のような家族も存在するものの、それが一般的だという考えは、もう昔のこと。何より昔の考えで役員を捉えていたら、役員の担い手はいなくなる。そして事実役員のなり手がいなくて困っているわけだ。地域社会こそ、地域ごと多様であってよいわけで、それぞれ従来のやり方にこだわることなく、柔軟に変えていけばよいのに、なかなかそれができないのは頭の固い人たちがいまだ意見が強いからだ。田舎が「暮らしづらい」のはこういう事例から垣間見えるわけだ。

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公民館活動のアンケートをしてみて

2023-12-24 23:42:29 | ひとから学ぶ

 公民館分館の役員を担って3年、今年は分館長を仰せつかった。コロナ禍明けということもあって、すべての行事が予定通り実施されたが、まだまだコロナ禍前通りというわけにはいかなかったのと、やはり自粛という時期を経たためか、活動が低調気味であったことも確か。これを再考する「良い機会」と捉える人も多く、そもそも必要性は何か、と以前から自問自答していたわたしには、住民が実際のところどう考えているのか、知りたい気持ちもあった。たまたま予算の問題や、相変わらず役員中心になったり、参加者が固定化されるところをみてきて、アンケートをしてみたら、ということになった。

 各戸一人が代表で答えるのではなく、住民みなに考えてもらおうという意図で、家族数渡るように解答用紙を用意してみたが、結果的には70戸弱に配布して一戸当たり2枚の回答は得られなかった。家によってはもっと家族がいる家もあれば、一人暮らしの家もあって、平均一戸当たり2枚解答があれば理想だったが、戸数の1.4倍程度の回答数に終わった。とはいえ、グラフでもわかるように、男女半々といったところだったことから、必ずしも世帯主が回答したわけではなく、ふだん自治会の総会に出席される方たちだけではなかったところは良かったのかもしれない。

 世代別では60代以上で半数を占め、50代まで含めると6割を超える。高齢化しているから仕方ないものの、実際はもっと若い人たちにも回答してほしかったわけだ。分館で行っている行事に対しての意見を中心に、そもそも公民館活動に対して意見も募った。とりわけ公民館活動に対する意見は様々だった。「地域のつながりのためにも交流できる場を作るべき」という意見もあれば、「公民館活動は必要だと思うが、スポーツ中心であり、老人世帯は参加できず、分館費を納めるだけになっている」といった意見もある。確かに計画された事業はスポーツ中心だ。運動系と文化系と色分けすると、ウエイトはかなり運動系に偏っている。「交流」という現実的な活動を頭に浮かべると、結果的に運動系になってしまうのも仕方ないのだろうが、それはそれで仕方のないこと。文化系はより多様性があって、みなが参加するという意味では選択が難しい。意見にはそもそも「活動しなくて良い」という厳しいものもある。ようは負担金を集めるのに、「出すだけ」の人にとって見れば、人のために身銭を切っている感じで、不公平感を募らせている人も少なくない。すべての人が納得して活動することは不可能であり、結果的には地域という名のもとに、不公平感を持つ人は犠牲になっていると言ってしまえば、確かかもしれない。しかし、地域で人々の交流を醸成していくには不可欠でもある。理解してもらうしかないが、「よそではどうしている」という情報はとても少ない。全国的にある活動なのだから、良い知恵をもらえばよいのに、と思うが、そういう情報はなかなか入ってはこない。

 人口減少によって、かつてと同じようにというわけにはいかないことはみんなわかっている。しかし、それを「どうする」という決断がなかなかできないのも、毎年役員が変わっていくから仕方ないもの。そういう意味でもアンケートの意見は参考にはなるのだろう。

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