Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

ダムに沈み、そして観光林道開発から半世紀(後編)

2017-08-13 23:08:29 | 民俗学

ダムに沈み、そして観光林道開発から半世紀(前編)より

 開発に葛藤した村々が、その後衰退の一途を歩むのはある程度パターン化している。とりわけ開発ありきの時代にそうした葛藤に見舞われた地域は、その後の村に多くは期待できないような環境が待っていたかもしれない。山間の地が、かつて繁栄した(栄えていた)という話はあちこちにある。それらも言ってみれば開発と同様のハレ的出来事がかかわっている例が多い。資源が枯渇するとともに衰退していった山間のムラも多い。奈川に訪れた開発の波も、同様に高度成長の時代という背景にあった。ダムの湖底に沈んだ家々の人々は、多くは旧波田町へ移転したという。奈川に近く、それでいて奈川とそう変わらない地を望んだのだろうが、それは多くの人たちが実際にそうした境遇に至れば求める環境ではないだろうか。移転を余儀なくされたら、なるべく従前地と同じようなところに住みたい、そう思うもの。もちろんそうした思いはしだいに希薄化していく現在の環境ではあるが…。

 宮本常一の『私の日本地図2 上高地付近』には、多くの写真が掲載されている。奈川左岸の山は草刈り場が多かったといい、今とはまったく異なるハゲ山のような山々が写真でうかがえる。そして何といっても、今と違って川の姿は雨が降れば瞬く間に荒れそうなほど、石がごろごろしている。もちろん護岸などなく、農地もたびたび流されただろう。裏を返せばダムによって川は少なからず穏やかになっただろうが、いっぽうでダムの影響ともいえる地滑りが、入山(にゅうやま)の地を集団移転に誘った。土田拓氏はこうした奈川の谷の開発は、「道」にたどり着いたと捉える。その道が結果的に現状をつくりあげたのだろうが、いずれにしても日本中のあちこちで描かれたストーリーだ。入山に関して宮本の次のような文を土田氏はとりあげた。

徒歩時代には、神祠峠(ほこらとうげ)と同じように荷物持ちを主とした強力の村であったが、飛騨道が谷底を通るようになって、まったく忘れ去られていた。それがダムができると、奈川谷へはいる道は入山のすぐ下を通ることになり、また湖畔の村として観光的な価値も出てくるだろうと、部落の者は大いにはりきっている。もとおなじような条件にあったのだが、神祠峠とはまったく対蹠的な変化をすることになる。山中の村は自分たちの力だけではどうにも運命の切り開きようがないのである。(前掲書47ページから48ページ)

もちろんこれを宮本が記したとき、地滑りが起こることなど予想にもしなかっただろう。とはいえ、移転したのはここで記している「入山のすぐ下」により近い位置である。今と違って、たとえばブナの原生林が鬱蒼とする光景(移転前の入山にブナが多いことは前回触れた通り)に価値を抱く人はいなかった時代である。経済効果という金銭的価値に重きをおく時代に、果たして入山に明かりが入り込む環境があったのだろうか、そんなことを考えさせられる。

 土田氏は入山に嫁いだ女性から聞いた荷を運ぶ際に利用した紐のことに興味を抱いた。女性は移転後のムラに嫁いだのだが、畑は元の入山にあったため、そこまで畑作に通った。入山のほかの人たちは麻縄を使って背負っていたが、女性はおばさんが作ってくれたタオル地の紐を荷運びに使ったという。厚みがあって表面がボソボソしていて滑らなくて良かったという。後に新しいものを作ってくれたが、新しいものはツルツルして使いにくかったという。土田氏はその女性ならではの境遇(松本市内から嫁ぎ、農業未経験、元の畑に通うという農作業の形態など)から発した「工夫」に親近感を示す。女性にとっての「道」があり、それは「畑へ通う道」だったという。開発以後の生活変化を理解するという意味で、個人の細かな視点からモノを見ていくのが面白いのではないか、と土田氏らしい捉え方を述べられた。

終わり

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