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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

道祖神と同居する五輪塔残欠

2024-07-16 23:17:49 | 民俗学

鬼無里下新倉の双体道祖神と五輪塔残欠

 

鬼無里財又の道祖神文字碑と五輪塔残欠

 

信州新町左右礼の双体道祖神と五輪塔残欠

 

 昨日の“民俗地図「道祖神の獅子舞」修正版”には記号の凡例は付けたが、そもそもの地質図の凡例がない。したがって「何のことかわからない」、ということになるかもしれないが、地質図の凡例を全て明示するのは大変だ。わたしのイメージでは、特徴的な岩石を産出する地質のみ表示すれば良いのだが、それが叶わなかった。簡単ではないのである。自分でその地質だけポリゴン化すれば良いのだろうが、それもけっこう時間を要す。そもそもある程度質の知識がないとわからない。ということで、全ての地質を示した既成図を利用するに至ったわけだが、図はこのままとしても、意図する凡例だけは分かるようにしなければせっかくの地図が意味不明なものになってしまう。試行錯誤しながら修正する予定である。

 さて、このところ繰り返して触れている五輪塔残欠。これまで道祖神の形態に関する記述でこのことについて触れられてきたのかどうか、倉石忠彦氏は『道祖神伝承論・碑石形態論』で若干触れているが、特別視しているわけではない。今後文献を探していきたいが、とりわけ五輪塔がやたら目立つ神奈川県に注目するところだ。そうしたなか、この五輪塔について触れている『秦野の道祖神・庚申塔・地神塔』(秦野市立南公民館道祖神調査会編 平成元年)での扱いを引用してみる。道祖神の項は小川直之氏によって記述されているが、「石塔のない道祖神」に次のように書かれている。

石塔のない道祖神祭場にほぼ共通しているのは、五輪塔片あるいは石臼が置かれていることである。五輪塔片や石臼は道祖神石塔のある他の祭場にもしばしば見ることができ、偶然に置かれているのではなく、何らかの意味をもつといえる。大根地区では道祖神祭場の五輪塔片空風輪部を男石(オイシ)、火輪部を女石(メイシ)といい、セイトバライ前になると道祖神組の子どもたちが他の組の祭場から集めまわったといわれている。男石、女石という言い方は、双体像の男女の区別と同じ発想と考えられる。

こう記した上で、「道祖神祭場は一種の神送りの場、他界との境界でもあるわけで、五輪塔片が集められているのはこうした場に納め、災いを防ごうということである」と述べている。とはいえ、神奈川県内の道祖神には夥しく五輪塔が同居している。道祖神が1基でも五輪塔はたくさん、というように。そしてこの光景が長野県の長野市西山に多く見られるのはどういったことなのか、神奈川県ほどではないにしても、同じように道祖神と五輪塔が同居している光景を頻繁に見る。遠く離れた両者との関係や、両者を繋げるように他の地域にそうした光景が見られるのかどうか、この辺りを調べていく必要があるのだろう。

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民俗地図「道祖神の獅子舞」修正版

2024-07-15 23:20:38 | 民俗学

 

 先日“「かぶっつら石」とは”において、「かぶっつら石」について触れ、そこで「正月の獅子舞分布と限界線を載せてみた。糸魚川静岡線のラインを記入すればより分かりやすいのだろうが、いわゆるフォッサマグナエリアに特徴的に表れていることがわかる。」と指摘した。あらためてその地図を工夫してみた。もちろん先日も記したように、地図に中央構造線と糸魚川静岡構造線を追加した。そして地質図Naviのさまざまなデータを試作してみたが、最も利用価値のあるのは5万分の1地質図からシェープデータをダウンロードして利用すると、岩石名で表示でき、実際の自然石の石質の石が近在に無いか確認できる。ところがデータが多いのと、全ての地域のデータがオープンになっていないため、完全なものができない。したがってほかの地質図のどの地図が最もわかりやすいか、と思案したところ、20万分の1日本シームレス地質図にいきついた。そのデータを利用して作成した地図がここに示したものである。ここでは前回の図を少し修正している。ひとつは長野県民俗の会第239回例会において「民俗地図研究」の発表をした際に、長野市戸隠においても道祖神の獅子舞が行われているという情報を得たため、図に戸隠追通(おっかよう)の事例を追加した。もうひとつは、山梨県と神奈川県での実施例を追加した。したがって合計5地点の事例を追加している。獅子舞限界線については、戸隠の1事例だけで線を修正するのはどうかとも思い、戸隠の事例は限界線の外側のままにした。今後の課題である。神奈川県の事例は、いずれも秦野市の事例であるが、ほかの地域でも実施例が具体的に判明すれば追加していく予定だ。そもそも神奈川県下では「あくまっぱらい」と称して獅子舞ではなく仮面をつけて家々を回ったという事例もあったというし、獅子舞は広範囲で行われたという情報もある。

 さて、昨日同じ神奈川県の松田町の道祖神と五輪塔残欠の関係について触れた。実は獅子舞をしているという秦野市内にも五輪塔のかかわる道祖神は多い。今回事例を追加したのは、秦野市役所のホームページに公開されている「秦野の小正月」の中にある「あくまっぱらい」3例であった。そのうち菖蒲地区では道祖神に集合して「あくまっぱらい」が始まるという。その道祖神をグーグルストリートビューで確認すると、双体像の周囲に五輪塔残欠がたくさん並べられている。ほかの石造物がないことから、道祖神と五輪塔に強い関係性を抱く。このことについては、今後も神奈川県の道祖神に関する情報を集めてみたいと思っている。

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芝宮神社祇園 前編

2024-07-13 23:26:50 | 民俗学

 京都の祇園山鉾巡行も間もなくである。このあたりの地方での祇園といえば津島神社にまつわるものが多い。宮田村の祇園祭が行われるのも津島神社である。伊那谷では阿南町深見の祇園が知られるが、それもまた津島社の祭りである(諏訪神社境内社)。夏の流行り病が発生するころ、それを鎮めるために行われたものだが、今は夏祭り的に捉えられている。

飯島町七久保芝宮神社祇園祭宵祭り「祇園囃子」

 

 飯島町七久保の芝宮神社においても祇園祭が行われた。飯田下伊那に限らず、上伊那南部でも囃子屋台を祭典に引くところが多い。それらは祇園囃子の影響と思われるが、いっぽう高遠囃子の影響も考えられ、祭典で行われているものは、祇園とは関係ないものもあるのだろうが、囃子屋台については意識的に捉えてこなかったため、未見のものも多く、はっきりしたことは言えない。とりわけ囃子屋台だけ演じられているものもあれば、獅子舞とセットのように演じられているものもあって、後者のものは獅子舞の陰に隠れてしまっている印象が強い。なお、このあたりの囃子屋台とは、いわゆる山車風のものではなく、小型の屋台であり、とりわけ飯田下伊那に多い屋台獅子(練り獅子と最近は言われる)の胴にあたる部分に利用する屋台と規模的には同じくらいのものである。

 囃子は祇園祭のみで行われるもので、かつては屋台が引かれたというが、現在は屋台を引かない。いつ頃から引かなくなったと聞くと、ずいぶん前からだという。1995年に長野県教育委員会が発行した『長野県の民俗芸能 : 長野県民俗芸能緊急調査報告書』における悉皆調査の中には、囃子屋台は項目としてはあげられていない。ようは「芝宮神社獅子舞」の中に「別に囃子屋台が出」と付記されているにとどまる。こうした例は同報告書の中に夥しくあり、民俗芸能の捉え方が不統一な問題がここにある。「殿野入春日神社獅子舞」もそうであったが、獅子舞と囃子屋台(この場合囃子屋台とはいえ山車の屋台である)、そして「とりさし」、と複数の芸能が一緒に演じられていると、代表的、あるいは捉える側が主たるもの、と捉えた芸能の配下にほかの芸能が隠されてしまうケースは多い。したがって捉える側が複数のものとして取り上げれば、別の芸能としてあげることもあり得るわけである。

 さて、囃子屋台に先立って演じられる獅子舞のことは後で触れるとして、囃子屋台の様子は写真のとおりである。獅子舞の曲も含めて17曲あるという囃子の曲は以下のとおりである。

練り
数え歌
大摩
御岳山
程ヶ谷
狐券
道中囃
馬鹿囃
数え唄
俊道囃
野毛山
新囃
菊水
揚屋
篭丸
宮返し
浮舟

これらは、保存会の持っている資料に記載されている文字で示しており、漢字はあくまでもその資料による。このうち練り、大摩、数え歌は獅子舞の曲という。囃子屋台には花踊りが付属しており、現在は屋台はないが、踊りは小学生の女の子たちによって演じられており、今年は14名が踊った。相対して7名ずつ、男女で対となっていたが、本来は女の子が担ったという。この日は氏子集落内を回って上演するが、御嶽山と程ヶ谷、そして狐券の3曲を各所2曲ずつ演じて回った。獅子舞のさいの獅子招きも女の子が担ったと言われ、男の子は屋台を引くのがかつては役割だったという。

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「かぶっつら石」とは

2024-07-09 23:54:23 | 民俗学

 「かぶっつら石」とはどのような石なのか、小林大二氏の『依田窪の道祖神』に登場するこの石、検索しても独自の名前であってほかの例はほとんど登場しない。唯一といって良いのだろうが、長野市の天然記念物に指定されているものが「かぶっつら石」と呼ばれているらしい。旧中条村の日高にそれはあり、概要説明に「大峰型石英安山岩の強溶結凝灰岩という。古い時代の土尻川の流れや、大峯山の変還を明らかにする。権現山・大峯山(大町市・大町市美麻地区)から流入。」とある。以前にも触れているように、土尻川沿いには自然石の道祖神がある。ただ、それらは繭玉形であったり、五輪塔の残欠であったりと、旧丸子町西内や旧武石村の自然石道祖神とは異なる。しかし、同じ「かぶっつら石」が自然石道祖神地帯に存在していることに、何らかの意味を見いだしたい、というのが本音である。

 先ごろ「依田窪の道祖神の石質について」でも触れたが、小林氏は前掲書の中で「緑色凝灰岩・凝灰角礫岩といい、海底火山の噴出物によってできた岩石である。鹿教湯温泉より武石岳の湯まで分布」と記している。ここに地質図を示したが、鹿教湯から武石岳の一帯にあるのは溶岩及び火砕岩(玄武岩、安山岩及び流紋岩)であり、小林氏のいう凝灰岩系の地質は見られない。旧中条村の「かぶっつら石」は石英安山岩と示されている。確かに鹿教湯から武石岳にかけての地質は旧中条の「かぶっつら石」を産出する地域と似ているのかもしれない。

 

西内、武石周辺地質図

 ここに地質図(詳細図と凡例については地質図Navi参照)と以前触れた正月の獅子舞分布と限界線を載せてみた。糸魚川静岡線のラインを記入すればより分かりやすいのだろうが、いわゆるフォッサマグナエリアに特徴的に表れていることがわかる。もちろんまだデータ不足、かつ根拠付けが乏しいが、地質と石神仏とかかわりがあるのではないかと想像する。

 

道祖神の獅子舞分布

 

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旧武石村余里の自然石道祖神 後編②

2024-07-08 23:39:55 | 民俗学

「旧武石村余里の自然石道祖神 後編①」より

余里自然石道祖神⑩

 ⑨までおよそ200メートルごとにあった道祖神は、少し間をおく。下ること350メートルほどのところ、道路右側路肩に小さな自然石がふたつ祀られている。これもまたこれまでと同じようなゴツゴツした石である。

 


余里自然石道祖神⑪

 ⑩からさらに400メートル下ると、右に鋭角に曲がる道路がある。この道に入って下ったところに「道祖神」が立っている。この道祖神については、グーグルマップで確認するとして、道を戻って再び下ること130メートルほど、これもまた道の右側の路肩であるが、石に囲われた空間にゴツゴツした石がひとつ祀られている。小さな石もあるのでそれも道祖神かどうかは不明である。

 


余里自然石道祖神⑫

 ⑪から下ること400メートル。余里の最も奥だった①からすれば、しだいに道祖神と道祖神の間隔が広がっていくような印象を受けるが、道の左手に台石のようなものがしつらえてあって、その上ではなく後ろに自然石が祀られている。これまでの石は黒っぽかったが、今回は白っぽい石。ゴツゴツしてはいるものの、今までのものよりは小刻みなゴツゴツである。


 ここまでが余里である。12箇所に自然石道祖神が祀られていたことになるが、小林大二氏の『依田窪の道祖神』によれば余里には14箇所の祭祀場所があるとされている。したがってわたしが最上流から下りながら探し当てたもの以外に最低2箇所の祭祀場所があることになる。余里川右岸に家が点在しているところがあり、そうした集落に道祖神が祀られていることは、比較的近くに祀られている道祖神の現状から容易に推定される。この後訪れた際に確認してみたいと思う。いずれにしても余里の自然石道祖神の姿は、ほぼ同じような祭祀状況と捉えられる。石質についてまでそれぞれ確認できないが、再度訪問した際に、「かぶっつら石」についても聞き取ってみたい。

終わり

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旧武石村余里の自然石道祖神 後編①

2024-07-07 23:49:16 | 民俗学

「旧武石村余里の自然石道祖神 中編」より

余里自然石道祖神⑤

 

 前回の余里上組自然石道祖神④から余里川を下ること、100メートル、これもまた近い位置にあたるが、写真の「道祖神」文字碑が道の左手に見えてくる。台石の上に乗った高さ90センチほどの自然石に彫られた「道祖神」。ほかに銘文はない。この文字碑の脇に、二つのそこそこ大きな自然石が並んで祀られている。ひとつはゴツゴツした石で、もうひとつもゴツゴツしている部分もあるが、凝灰岩系の平滑な表面も見せている。

 

余里自然石道祖神⑥

 

 ⑤から下ること200メートル、ここまでよりは少し離れるが、そうはいっても200メートル程度の同じ道端の三叉路にひとつだけ自然石が立っている。自然石のすぐ前に炭の跡があり、ここでどんど焼きをしたことがわかる。したがって道祖神にまちがいない。道端にあるなんでもない石ころにみえることも事実。

 

余里自然石道祖神⑦

 

 ⑥から再び200メートルほど道を下ると、やはり道左手に台石の上に祀られた自然石の道祖神が見える。やはりゴツゴツしている。台石に乗っているから明らかに祀られたものとわかる。

 

余里自然石道祖神⑧

 

 ⑦からさらに200メートルほど下ると、また道の左手、家の前に三つのゴツゴツした自然石が並んで祀られている。加えてその右手に小さな単体像がひとつ。この単体像について小林大二氏の『依田窪の道祖神』では、「小供像」と表現して、同様に道祖神として捉えている。さらに周囲にはそれらより小さな石もごろごろしていて、どれもこれも道祖神に見えてくるが、どこまでが祭祀物なのかは、はっきりしない。

 

余里自然石道祖神⑨

 

 ⑧から下ること、また200メートルほど、今度は道の右手に自然石が小さな台石の上に乗っている。周囲に石が囲うように並べられていて、中央にある自然石が祭祀物の中心なのだろうが、これらも見ているとどれもこれも道祖神と見えても不思議ではない。石の数は無数である。

続く

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「○○さ」のどーろくじん

2024-07-04 23:38:25 | 民俗学

 

 「旧武石村余里の自然石道祖神 中編」で触れた通り、旧武石村余里においては、ずいぶん近いところに道祖神が祀られている。数軒単位で道祖神があったりして、よその道祖神とは祭祀数がとても密である。このことについても小林大二氏が『依田窪の道祖神』で触れている。

 一つ目のグラフはその『依田窪の道祖神』に掲載されている依田窪における道祖神際箇所数と世帯数をその祭祀箇所数で割った数値、ようは箇所当たりの戸数を算出したものである。前掲書では一覧になっているものをグラフ化してみた。ただし前掲書の発行が古いものであるから、その世帯数データは昭和45年の国勢調査の値である。そもそも祭祀箇所数が圧倒的に突出しているのが武石である。70箇所という祭祀箇所は次に多い丸子の30箇所の倍以上である。したがって祭祀箇所あたりの戸数も小さなものとなり、武石では15戸と算出されている。その中でも密さを実感させるのが「余里」なのである。このことについては、二つ目のグラフ、武石村での集落別の同じ値を示したもので、余里の祭祀箇所数は14を数え、箇所当たり6戸と算出されている。

 一つ目のグラフでもわかるように平均戸数にはばらつきがあるが、50戸前後というのが一般的と捉えられる。武石でも人口の多い地区では同様の値を示しており、同じ集落内に何か所も祭祀場所があるという例は、他の地域を見ても珍しい地区と言えそうである。小林氏は前掲書に次のようなことを記している。

「あれはとよサところのどーろくじんだ。あれはしばっクルワのどーろくじんだ」

ようは個人名や、屋号で呼ばれる道祖神が、余里には存在する。それほど小単位で祀られているのである。

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絵馬に見る祈願①(坂下神社)

2024-07-03 23:38:39 | 民俗学

 先日、大祓の様子をと思って訪れた坂下神社。既に前週に行われていて、茅の輪の写真だけ撮って帰ったのだが、せっかく伊那まで行って空振りも残念と思い、拝殿の前にあった絵馬を調べてみた。祈願の現状を絵馬や短冊からうかがい知る、という方法は、小原稔さんに教えてもらったこと。祈願対象として、何が願い事として書かれているかを、人と接することなく知る方法として、確かに多くのデータを収集することができる手法である。ということで、坂下神社に掲げられていた絵馬の内容を調べてみた。

 掲げられていた絵馬の総数は69枚。そのうち①「厄除祈願」と印刷された厚紙の絵馬が39枚と最も多い。ほかに②「初宮詣」と印刷された木の絵馬が12枚。③「安産祈願」と印刷された木の絵馬が8枚。④「開運」あるいは「開運招福」と印刷された木の絵馬が8枚。あと2枚のひとつは⑤「災難除祈願」と印刷された厚紙の絵馬、⑥表に「祈」と印刷された紙が貼られた木の絵馬、以上である。そもそも坂下神社の絵馬を総覧した際に、①の記名欄がすでに消えていてはっきりしないものがあったりして、だいぶ時を経ていると思われる絵馬が目立った。木の絵馬には背面に祈願日が記されていて、それで確認すると、最も古いものが令和4年3月23日の「初宮詣」のものであった。さらに祈願された日かはっきりしないが、令和3年11月6日生まれの方の「初宮詣」のものがあり(参拝日が未記載)、おそらく令和4年の元旦以降に奉納されたものが掛けられていると思われる。

 ①「厄除祈願」についてはみな同じ既成の絵馬であり、名前と年齢が記載されているが、前述したようにすでに消滅しているものが多く、判明するもの22枚(56%)は男性3、女性17、不明2であり、女性の厄除け祈願が8割近い。その年齢は、男性3の内訳が、34、36、60歳。女性17の内訳が、6、8、19、31、32、33(5)、34(4)、41、61、65歳となり、33、34歳の祈願者が多い。不明の2例は23、34歳である。

 現代でも当たり前に①②③といった祈願は多いと言え、とりわけ「厄除」に対しての意識は高いと考えられる。厄除祈願の絵馬の背面には一切願い事が書かれておらず、木の絵馬には総じて背面に祈願が書かれている。それらを下記にとりあげてみる。

1.私が最善を尽くせるように、大切な人達が平穏でありますように。(開運)
2.健康一番 勉強を一生懸命できるように。(祈)
3.日本を守れますように。(開運)
4.商売繁盛! 家族4人健康!(開運)
5.○○ちゃんといっしょにあそべますように(開運)
6.これからも家族みんな健康で仲良くくらせますように。これからも幸運でありますように。(開運)
7.第一志望先に就職できますように(開運)
8.第一志望の大学に合格できますように。(開運)
9.成績が良くなり、志望校に合格できますように(開運)

なお、②③については意図が同じのため省略した。

 絵馬のほかに扇が1個掛けられていて、意図は初宮参りのものであった。

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民俗地図への試み

2024-07-02 23:37:46 | 民俗学

 長野県民俗地図研究会は、QGISを利用した民俗地図の作り方を「学ぶ」という段階を越えて、具体的な民俗地図作成を行いながらGISを利用した効果を得ようとしているが、実際のところ効果を一見で示すほどの例にはまだ至っていない。例えば「自然石道祖神数とサイノカミ」で扱った図のように、複数のデータを重ね合わせて何かを表現する、が目的なのだが、まだ思うようなものを描けていない。

 こうした中、研究会では今秋の日本民俗学会年会でグループ発表を予定している。民俗地図の活用について長野県関係者は盛んにこれまでも努力されてきたが、なかなか広まるには至っていない。しかし、GISソフトが身近になった今、それを活用して図の重ね合わせをする作業は容易になった。したがって今汎用化させずにいつ汎用化させるのか、という視点に立って、ようやく研究会を立ち上げたところ。当初は『長野県史』のデータを利用して作図することを目標にしていたが、周辺県とのかかわりに今は目が向くようになった。とりわけ長野県史編纂過程で調査された『県境を越えて』の調査地点も図化のポイントとして追加し、さらには昭和50年代を中心に発行された各県の民俗地図(民俗分布図)のデータも、場合によっては利用しようと考えている。もともとQGISの基本調査地点を長野県図に落とした上で作成方法をみなで講習してきたが、いずれ隣県にも目が向くのは自然な流れと考えていて、隣接県の図を表示する用意もしてきた。したがって各県の民俗地図のデータを落とし込むのも、そう難しいことではなく、今後の展開としては隣接県を含めた地図作成も視野に入れていく考えだが、技術的なことはともかくとして、まず年会に向けて、何をテーマにしていくか、早急に検討しなければならないところにきている。

 それにしてもかつて国庫補助事業で全国の県で実施された民俗地図作成の報告書をいくつか閲覧したが、作り方は各県で異なる上に、作成された図は、やはり地図に至っておらず、分布図に過ぎない。とりわけ記号に至っては、とりあえず違う記号を選択して図に落としてみた、というレベルで、図を一見して何かがわかるというレベルには達していない。せいぜい分布が密であるか、疎であるかといった判読ができる程度。むしろ図ではなく、回答を一覧化してあった方が、これから地図を作成する者には利用しやすい。もちろん図になっているから、密度レベルは判読できるが、これを再利用するには手が掛かる、というのが実態だろうか。もちろん無いよりはましだが…。

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「大祓」後編

2024-07-01 23:01:34 | 民俗学

坂下神社茅の輪

 

五十鈴神社茅の輪

 

大御食神社茅の輪

 

 五十鈴神社の「大祓」について触れたが、五十鈴神社の宮司のブログがあって、かつては頻繁に更新されていた。「大祓」について触れた記事も多くあり、最も古い記事は2007年のもので、当時は6月末の日曜日に実施されていたようだ。近年ブログの新しい記事が公開されなくなって様子がはっきりしないが、2016年までは月末の日曜日の午後に実施されていたようだが、翌2017年には平日の30日に実施されている。もしかしたら以降現在まで、6月30日の本来の大祓の日に実施されているのかもしれない。「大祓」のこと、「茅の輪」のこと、いずれについても宮司のブログに内容が記載されているので参照するとよい。

 「大祓」は半年に1度行われるもので、6月と12月の末日に行われるのが本来であるが、せっかく「大祓」といって穢れを拭う目的の行事を行っても、人がいなければ意味がないということで、休日に実施されているところが現在は多い。今年は30日が日曜日ということもあって、「大祓」を行うところがあると見込んでのことだったが、五十鈴神社でそれが見られたのは幸いだった。とはいえ、昨日はいくつかの神社を訪れた。ひとつは中崎隆生氏が『伊那路』に報告された伊那市坂下神社である。2016年に調べられたものといい、毎年6月30日に近い日曜日に行っているとあったので、昨日実施されるのではないか、と想定して出かけたが、既に茅の輪が境内に掛けられていて、昨日が当日ではなかったよう。聞いてみると前週に行われたといい、必ずしも30日に「最も近い日曜日」ではないようだ。少しの時間、境内にいたが、その間にも二組の家族が茅の輪をくぐってお詣りをされた。茅の輪の脇にくぐり方の説明があり、昨日五十鈴神社で行われた茅の輪くぐりと同じ作法だが、3回くぐって元の位置に戻ると、もう1回くぐって神前にお詣りするとある。小雨だったこともあり、町の中にある神社にはお詣りする人が少なからずいる。同じ町の中でも、山寺白山神社や荒井神社には茅の輪はない。

 その後帰路五十鈴神社に立ち寄って昨日午後実施されることがわかったわけであるが、同じ駒ヶ根市のもうひとつの大きな神社である大御食神社にも立ち寄ってみた。やはり茅の輪が掛けられていて、神社入り口の告知板には、昨日午前中に行われたとあった。実は大御食神社と五十鈴神社は同じ宮氏が神事を行っており、昨日も触れた通り、いずれも宮司によって始められた神事のよう。大御食神社でもしばらく身を置いていると、何組、あるいは何人かの方がお詣りに来られた。あいにくの雨模様だが、それほど強い雨ではないということもあり、休日はこのように参拝される方がいる。さすがにマチに近い神社は違うと思った次第。同じ宮司ということもあり、いずれの神社も入口の鳥居の足元にも茅が巻かれており、作りも似ている。ちなみに五十鈴神社の茅は、昨日鼠川の南の川で採ってきて昨日茅の輪をこしらえたという。五十鈴神社宮司のブログでは、かつては鼠川でも採っていたようなので、近在の川で採取していることは間違いないようだ。昨日は箕輪町木下の南宮神社でも茅の輪くぐりが行われたようで、やはり大きな神社ではこの行事が盛んに実施されているようだ。

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「大祓」前編

2024-06-30 21:25:58 | 民俗学

包み紙の中の切草

 

祓いに使われた人形

 

茅の輪くぐり

 6月30日、いわゆる「大祓い」の日である。とはいえ、今でこそ「大祓い」をお宮の行事として実施するところが多くなったが、かつてはそれほど多くの神社で実施されていたという印象はない。ふつうは大祓いを過ぎてしばらくすると茅の輪は撤去されるが、そのまましばらく残されている神社を見ることもある。とりわけ大祓いの日に茅の輪をするところは、中信地域の神社に多い。上伊那での茅の輪くぐりについては、中崎隆生氏が「茅の輪くぐり―上伊那の事例から―」(『伊那路』62-5)に報告がされており、郡内3カ所の茅の輪が紹介されている。ということで、今年はちょうど30日が日曜日だったということもあり、情報を事前に聞いていたわけではなく、いくつかの神社の様子をうかがってみた。

 神社を訪れて茅の輪が作られていて、それでいて「大祓い」の神事を「何時から」と掲示されていたのが、駒ヶ根市にある五十鈴神社であった。午後3時からとあったので、あいにくの天気ではあったが、その時間に訪れてみた。

 まず拝殿内で「大祓い」の神事が行われる。宮司によって祝詞があげられ、終わると和紙を切った人形によって祓いが行われる。最初に人形で自分の痛いところ、悪いところを撫でる。そして身体の中の悪いものすべてを人形に移してしまうように3回息を吹きかける。次に人形と一緒に渡された包み紙の中に切草が入っていて、これを3回に分けて身体の左、右、左とお祓いする。「大祓い」が済むと、拝殿前の庭に出て、茅の輪くぐりとなる。拝殿に向かって茅の輪の前に立ち、一礼すると輪をくぐるり、左へ廻って再び茅の輪の前へ向かう、同じように一礼してくぐると今度は右に廻ってまた茅の輪の前へ。もう一度輪をくぐって神前に進んで終わりとなる。この際、唱えごとがある。「水無月の 夏越の祓する人は 千歳の命 延ぶというなり」というもの。終わると宮司さんから挨拶があって、終了となるが、帰る際に災難除けのお札と、茅の輪のお守り、加えて撤供である「なごし」の菓子が渡された。

 この茅の輪のお守りとよく似たものを先日たくさん見かけた。安曇野市三郷楡の家々の玄関先に掲げられていたものと似ている。同じか、と思ったが、楡のものは、幣束が白かった。今回は「赤」。ようは無病息災を強く意図していると思われる。ただ作り方がよく似ていて、関係性を少し感じた。その答えを後で聞くことができた。聞くところによると、「大祓い」は前の宮司の時にはなかったという。ようは現宮司によって始められた神事のよう。そして現宮司は松本の方の神社に勤めていたという。近年人々がこうした信仰に対して疎くなったといって良いのだろう。いっぽうで神社にかかわっている人々が一般的常識や、行事の基本形を地域にもたらしているようにもうかがえる。そうした事例のひとつといえるのだろう。

 

お札とお守り、撤供

 さて、頂いたお守りやお札についても、説明書きが添えられていた。そこには次のように書かれていた。

拝啓 向暑の候、愈々ご清祥の段、大慶に存じ上げます。
 さて、この度夏越大祓式及び茅の輪神事でお参りいただきましたこと厚く御礼申し上げます。
 ここに災難除け御礼・茅の輪御守・撤供をご授与致します。
 茅の輪御守は、いつも出入りされる玄関等の鴨居にお祀り下さい。
 貴家益々のご繁栄とご家族皆様方のご健勝を、心よりお祈り申し上げます。

敬具


      銘菓『なごし』について…
 当大祓式に参列された方には『なごし』というお菓子をお授けしております。この『なごし』というお菓子の名前の由来は、夏を無事に越せるようにといった「夏越(なごし)」という意味もありますが、夏越大祓式のもう一つの意味であります神様の心をなごませる「和し(なごし)」という意味もこめさせていただきました。
「魔除け・厄除け」のカを持っていると言い伝えられている小豆を使い、昔6月30日に宮中のお公家さん達が「暑気払い」として山の氷室にしまっておいた氷を食べていたのを、庶民には手が届かないので「氷に似せたお菓子を作って食べていた」といった言い伝えをもとに、上穂町の「生月」さんのご協力により「銘菓『なごし』」を創作いただき、毎年お授け致しております。
 期間限定にて、上穂町の「生月」さんの店頭で、この「銘菓『なごし』」を販売していただいておりますので、夏のお茶請けにいかがでしょうか?
 参列出来なかった方、銘菓『なごし』のお問い合わせは…
                 生月さん 電話(82)3118

 

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依田窪の道祖神の石質について

2024-06-27 23:28:12 | 民俗学

 昨日「旧武石村の自然石道祖神 外編」を記した。以前より自然石道祖神の石質について興味深く捉えているが、何度もここで引用させていただいている小林大二氏の『依田窪の道祖神』においても、石質について触れられている。

 丸子町鹿教湯温泉入口附近、少し高台にある、高梨部落の石垣を見ると、ほとんどが緑色の磧石によって築かれている。これは、緑色凝灰岩・凝灰角礫岩といい、海底火山の噴出物によってできた岩石である。鹿教湯温泉より武石岳の湯まで分布し東北地方までの岩石の基にもなっている。第三紀中新世、およそ2,000-3,000万年ほど昔のもので、このころこの地域は海底であり、しかもはげしい火山活動がおこなわれていたという。その岩層から離れて武石川又は、内村川を流れ出し、緑色のあるいは暗緑色の磧石または、「かぶっつら石」となる。それを拾って来て(武石、北沢品充さん)依代とするのである。なるべくごつごつしたもの、ただし角は適当に円くなっているものが選ばれている。新町では溶岩も使われている。下流になる程安山岩も含めた、頭の円い石が利用される。丸子腰越には、円形のやきもち石(縁れん石)が他の石と共に紀られている。東内③には頭の円い礫岩がある。(135頁)

 ここに緑色凝灰岩が記されている。現在祀られている石を見て緑色凝灰岩とすぐに気がつく石は見当たらないが、実は伊那市エリアにある自然石道祖神には同じ凝灰岩と思われるものがよく見られる。これらは中央構造線より東側、いわゆる外帯より算出されたもので、三峰川ほ経て伊那市の里まで流れ出している。これらの石を拾ってきて祀ったという話は伊那市内で現在でも聞くことのできることで、地質と関係していることをここから学べると思う。したがって西内や武石周辺について、地質も含めて検討していくこととする。

 さて、小林氏はさらに次のように述べている。

 川岸から「かぶっつら石」を拾ってきて、神主か行者に勧請してもらうならば、てっとり早く、経済的な負担も少ないであろう。しかし宿場町の新町が他のムラと比較して経済的に劣っていたとは考へら
れない。依田窪の穀倉と云はれる依田が全体的に大門より劣っていたとは考へられない。この地方でムラをあげて楽しい、華かな道祖神祭りを操広げていたのは、新町、古町、依田、である。西内、東内には古くからの名刹、虚空蔵堂、霊泉寺、文珠堂がある。決して信仰心が他より劣っていたとは考へられない。結局これは庶民の道祖神に対する、信仰態度の問題だったのだろう。なるほど余里部落の場合も2~3軒で1ケの道祖神を持つことは決して大きな碑を建てるだけの経済的な余力はない。しかし「かぶっつら石」でよしとする、やはり信仰態度の問題なのだろう。(136頁)

 そもそも道祖神以外の祭祀対象は、現在では文字碑などのふつうの石碑でありながら、道祖神は「かぶっつら石」で良かったのはなぜなのか。ようは石碑を建立する以前からこうして自然石をもって道祖神とする流れが長く続けられてきたせいではないだろうか。造塔されその銘文が記されるようになったのは、依田窪では1700年直前から。ちょうどそのころから双体道祖神が建立されるようになる。

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旧武石村の自然石道祖神 外編

2024-06-26 23:19:09 | 民俗学

 旧武石村の自然石道祖を追っているが、何度も触れている小林大二氏の『依田窪の道祖神』は大変参考になる。自然石道祖神の岩質のことにも触れているし、道祖神信仰と修験とのかかわりについても触れている。これらはまた次の機会に触れるとして、小林氏の著されたもの以外にこの地域の自然石道祖神やその周辺について理解の深まる資料はないのか、と探している。そうしたなか、最もそれらしいものとしていわゆる村誌を紐解いてみた。

 平成元年に刊行された『武石村誌 民俗』は、A5版308ページというもの。そこで道祖神がどう扱われているか、と探してみたのだが、詳しいことは触れられていない。とくに「自然石」の道祖神についてはまったく触れておらず、同書を見た限り、この村に自然石の道祖神が「ある」ということもわからない。そもそも信仰を扱った「民間信仰と祭り」の章には、道祖神はいっさい触れられていない。あえて拾うとすれば、疫病送りの項で余里のことが触れられていて、「子供が三歳になるとターランバセに赤い紙で御幣を切って立て四方から細縄でつり、道祖神の見える川端につり下げて無事に疱瘡がすぎることを願った」という記述くらいだ。神様の近くでこうした疫病送りの所作がされたようで、余里ではその対象が「道祖神」だったということになるのだろう。先日触れた余里の最も奥、3班のある集落の道祖神はどれも近くに祀られていて、それぞれの道祖神がどこの道祖神からも「見える」とまではいかなくとも祭祀空間のすぐ近くが望める。そしてまさに川端に祀られていて、そこには橋がある。武石村誌の記述がイメージできる空間がそこにはあった。

 それ以外の同書での道祖神の記述も触れておく。年中行事の章では春の行事として「道祖神祭り」が取り上げられている。「二月八日は、道祖神または道陸神といって、各戸に餅をつき、わらのつつっこ(俵)に入れ、わらで作った馬に二俵付け、板車にのせて子供が引き、道祖神にお参りをした。持って行った餅は、一俵は道祖神に供え、一俵は家に持ち帰り家中で食べた。これを食べると風邪をひかないと言われた。わら馬は各家の屋根に投げ上げておいた。」という。さらに「部落によっては、男の子供だけで、秋のうちに道祖神のそばに小屋掛けの柱の穴を掘っておいて、前日に杉の枝やむしろ・わらなどで小屋掛けをし、夜になって灯ろうなどともし、太鼓をたたいて各戸を回り、お払いをして歩き、おさい銭などを頂いた。その時「どうじどうじ こんがらどうじ せいたかどうじ やくびょうからめるどうじはないかい どうじどうじ」など唱えごとを言って回る所もあった。八日の朝食は、道祖神にあがったお餅などを頂き、昼には親方や当番の家で、五目飯などを作ってもらって食べて、一日楽しく遊び、帰りにはおさい銭で買ったノートや鉛筆などを、分けてもらって来た。」と記されている。これらから西内のような獅子舞が行われていたという様子はうかがえない。

 さらに「社会生活」の章において年齢集団について触れられていて、子供組による道祖神祭りの事例として沖と薮合の例が取り上げられている。沖は依田川沿いにあたり、旧長門町と旧丸子町腰越のあいだにある地域。いっみれば武石村の入口に当る。二月八日が祭日で、前述したように小屋掛けを行う。そして旧長門町に隣接しているということもあり、長門同様に獅子舞が子ども達によって行われる。「宵祭りは獅子とおかめを先頭に、太鼓をたたきながら船を引いて各戸を回り、獅子が家ごとに悪魔払いをした。このときお経係が「さいじょうのはらい きたなきことも たまわりなければ あらじいちどうのたまわく きよくきよしともうす きんじょうさいはい さいはい おそれみおそれみをもうす 六根清浄 六根清浄」と唱え、赤い着物に白足袋をはいたおかめは、桐の木を削った二尺ぐらいの棒を持っておかしな身振りをして、「道祖神のおんまらさまは なーがいともなーがいとも 二尺八寸どーけーし どーげーし」と言った。毎年当番宅が交替で宿をやり、親方・獅子・おかめは寒中休み中小屋に泊まりこんだ。沖の御岳行者K氏がよく面倒をみてくれた」とある。

 薮合も沖の西隣で、武石村では入口の方に当る。ここでは獅子舞はないが、舟を担いで初子の生まれた家や拝むことを依頼された家々を回るという。同書には船の写真が掲載されており(251頁)、確かに船の形をしている。「御岳行者の御座立て形を模倣したものである」とあり、やはり行者がかかわっていたのではないか、と想像させる。

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ある庚申講が廃止された理由

2024-06-25 23:17:44 | 民俗学

 一昨年7月30日に「続・上野庚申総本山を訪れて」を記した。当日、梓川真光寺へ納められた庚申掛軸の調査をした際に、ある廃止された庚申講から納められた資料にわたしの目が留まった。掛軸はなかったが、昭和2年1月と表紙に記された「預金集金帳」と桝、領収書の類と預金通帳、そして規約が入っていた。規約には次のようなことが記されていた。

○小路庚申仲間の会 規約
第1条(名 称)この団体は「○小路庚申仲間の会」と称する。
第2条(所在地)この団体を次の所在地に置く。
        長野県安曇野市○○○
第3条(目 的)この団体は、○小路庚申仲間における信仰・親睦活動を維持していくことを目的とする。
第4条(構成員)この団体の構成員は、○小路庚申仲間の講員をもって組織する。

第5条(役 員)この団体は、次の役員を置く。
        代表者 1名 ○○○○
        役 員 若干名「初当」「後当」の当番とする。
        但し、役員に事故あるときは、会議を開催し改選するものとする。
第6条(運 営)当団体は、講員の輪番制により「初当」「後当」として、年2回祭事を行うものとする。
第7条(財 務)活動に必要な資金については、会費及び負担金等とし、当番がこれを適正に管理し、その都度講員に会計報告するものとする。
第8条(改正) この規約は、講員の過半数の同意をもって、その必要事項を改正することができる。
第9粂(設立年月日)本会の設立年月日は、平成28年2月8日とする。
本規約は、平成28年2月8日初当の席において全講員の過半数の承認をもって成立したことを証する。
        安曇野市○○○ 代表○○○○

以上のような内容であった。平成28年に規約を定めたばかりなのに、廃止された要因の背景に何があったのか、気になっていた。また、規約とともに封入されていたものに、「庚申講」に関する説明文があった。それには次のようなことが記されていた。


庚申講
仲間の結束を固める目的で行われた小さな集団で維持された
庚申の日(60日に一度のかのえ・さる」)にしんぶつを
農家の守り神
語り合い・ごちそうを食べ、お酒を飲み明かすという行事
青面金剛像の掛け塾
 ・目が三つ
 ・腕が4または6本それぞれの手に三さ激・法輪・剣‥弓矢等
 ・傍らに童子を従え・邪気を踏みつけ
 ・農業
 ・天台宗 比叡山の守護神がサルの影響
中国の道教の影響 三尸の虫が棲むという考え方
  上尸‥頭に、中尸‥腹に、下尸・・足に
人の寝ている間に抜け出し玉皇天帝にその人の悪事・罪科を報告
その悪事を天帝は鬼籍という台帳に書き込み、ツミガ5百条になるとその人の死を決める。
  見ざる・聞かざる・言わざる
  二羽の鶏・・一番鳥が鳴くまで寝てはならない・・鳥がすべてのトリとして仕える。
  サルの日・・猿田彦を祭神とする
同ギン・夜業・髪結い・肉類・ネギ 禁忌

以上、誤字はそのまま記した。

 そもそも掛軸の調査だったため、「預金集金帳」に記された昭和2年以降の全ての記録を確認することはできなかったが、講が開催された都度「協議事項」が記されており、最後のページには令和2年1月19日に実施された初当における協議事項が記されており、確認してみた。それによると講員14名の内10名が参加。協議事項にはこの日2名の脱退が報告されている。さらに「これからの庚申のあり方存続について、後当番の時に決める」と予告されているものの、その記録は「預金集金帳」に記されていない。その背景を知りたいと思い、昨日楡を訪れた後に、この庚申講のあった○小路の規約を作成された際の当番の方を訪ねてみた。

 規約については通帳を作る際に提出が求められたため、作成したもので、たまたまそうしたことに詳しかったため作成したという。庚申信仰がどのようなものかはまったく知らないといい、廃止した理由は、若い人たちに「やりたくない」という意見が多かったため、廃止することにしたという。既に葬儀に特別なかかわりがなくなり、庚申講そのものの意味も知らなかったため、講を行う主旨もないから自ずと廃止に至ったというわけである。とりわけ「若い人たちがやりたくない」を聞いて、納得した次第である。

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旧武石村余里の自然石道祖神 中編

2024-06-23 23:35:49 | 民俗学

旧武石村余里の自然石道祖神 前編より

余里上組自然石道祖神①


 一覧表のとおり、余里には道祖神が14箇所あげられている。そのうち文字碑2基、単身像というものが1基あるだけで、あとはすべて自然石である。

 余里は武石川と下武石で合流する余里川を遡ったところにある谷あいである。周囲の峰はそれほど高くはなく、山間地ではあるものの、日当たりの良い地域といえる。「一里花桃の里」と言われ、川沿いを上っていく道沿いには花桃の木が目立つ。そして「一里」と称しているように、延々と花桃の植えられた光景が奥まで続く。その最も奥の集落は現在余里三班と言われているが、かつては上組といわれていたようだ。まず余里川右岸、奥から3軒目家の裏手、道に向かって石垣を組んだ上にそれらしいものが祀られていた。このあたりには石があちこちにごろごろしていて、どれが道祖神か見分けがつかないものだが、この祭祀空間は「道祖神だろう」と想定できた。主たる石は三つだが、周囲にそれより小さめの石も転がっていて、どれが道祖神かははっきりしない。草むらの中にある石もそこそこ大きいから、それも道祖神なのかもしれない。

 

余里上組自然石道祖神②

 

 家の裏手にある道祖神から川沿いを下ること100メートルほどのところ。用水路の脇に自然石が立っていた。ひとつだけであり、一つの石だけが立っているから道祖神とはわからない。このあたりの道祖神は複数個の自然石が祀られていることが多いから、このケースは珍しい。さすがにわたしにはこれを道祖神と判断するのは難しかった。地元の方に「道祖神」と言われて確認できたほど。まさにごつごつした石であるが、写真を見てもわかる通り、周囲にも石が転がっているが、それらは道祖神ではないようだ。

 

余里上組自然石道祖神③

 余里川を左岸側に渡って、反対側の家が並んでいる空間への三叉路に、やはり石垣があってその上に祭祀空間らしき場所がある。草が生い茂っていて、それら草を取り除いてみたが、小さな石もあって、ここもどこまでが道祖神なのかはっきりしない。「石垣」と表現したが、これもまたそれらしく並べてあるから石垣としたが、これらも転がっていれば道祖神に見える。その上に散在している道祖神は、主たるごつごつした石が四つ、あるいは五つあるだろうか。そしてそれ以外の小さな石も転がっている。転がっている、ではなく、祀られていると言われればそうとも見える。前者からの距離は50メートルちょっとと、「近い」。

 

余里上組自然石道祖神④

 

 この三叉路から余里川を下ること、120メートルほどのところ、左手道端の石垣の上に、同様に祭祀空間らしきものが見える。ごつごつした主たるそれらしい石は四つだろうか。いずれにしてもこの奥まった地域の100メートルから200メートルもない範囲の4箇所に自然石の道祖神が祀られている。近くの家で聞いたところ、余里川から拾ってきたものという。すべて自然石で、いわゆる碑形式のものはひとつもない。もちろんそれでいて「道祖神」と称しており、「道祖神はどこですか」と聞くとすぐに案内してくれる。これほど狭い範囲に何か所も道祖神が祀られているというところに驚く。

 

余里上組の集落

 

続く

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