Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

水難除け

2017-09-17 23:56:04 | 歴史から学ぶ

 

 4月に「石尊信仰の今を訪ねて」を記した。石尊というと「東信」という印象がわたしにはあったが、それは南信ではあまり耳慣れない信仰であったからだ。4月の石尊信仰を訪ねた例会後に巻山圭一氏が「長野県民俗の会通信」259号へ例会報告をされた。その中で「私にとっての地元、松本・安曇野近辺ではあまり「石尊講」「大山講」というのは聞かないと思っていたのだが」と記しながら、実は松本でも犀川流域や松本市内に石尊信仰が展開していたことについて触れている。

 先日来安曇野市重柳を繰り返し訪れているが、重柳の八幡宮の境内に「石尊大権現」の大きな碑が建っていることに気がついた。向かって右側に並べて「大天狗」、左側に「小天狗」と刻まれている。背面には「天保二辛卯歳 二月吉日 村中」と刻まれている。前傾の巻山圭一氏の報告の中に『松本市史』民俗編の記述から引用した事例がある。それによると女鳥羽川が田川と合流する岬状の地点に、石尊神社(石尊大権現)というお宮があるという。周囲は公園に整備されていて、「犀川通船船着場跡」という石碑が建っている。この犀川通船が信州新町まで開通したのは天保3年だったという。このことについて巻山氏は合流地点という立地から「洪水や氾濫を防ぐために石尊神社が祀られ、石尊講があって、大山にも代参がなされたものであろう」と述べている。そう考えると重柳の中を流れる中曽根川は、旧犀川河床だったともいうから、犀川通船開通のころ建てられたこの「石尊大権現」も水難除けを意図したものだったのかもしれない。

 

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100年に一度の水害

2017-08-14 23:34:32 | 歴史から学ぶ

 『高井』200号(高井地方史研究会 8月1日発行)において、金井晃氏は「昭和五七年飯山市木島地区、昭和五八年常磐地区の千曲川大水害」のことについて触れている。200号を記念して「昭和の自然災害特集号」を組んだ同誌には、このほか歴史上の水害を中心に報告が並ぶ。その中にこの昭和57、58年の水害に関する記事が複数あることからも、この2年続きの大水害が、地域の人々の記憶に強く残っていることがうかがえる。

 同水害については、この日記でも何度か触れてきている。具体的に記したのは「台風18号」が最初だろうか。翌日「台風とともに北上するという経験」を記した。そして再びと題して記したのが昭和57年の水害を扱った「ふたたび台風18号」である。当時の新聞記事もとりあげた。さらに、翌年の水害については「昭和58年台風10号・前編」「昭和58年台風10号・後編」で扱った。毎年9月になるたびに、わたしも思い出す水害である。以前にも触れたように、仕事が大いに多忙となったことはもちろんだが、まだ若かったわたしには災害復旧に関わるにはまだ日が浅かったにもかかわらず、多忙が故に一人前の仕事が割り当てられて、右往左往というか、人に教わりながらこれら災害の主たる災害現場の復旧に携わった。何といっても昭和57年の樽川堤防決壊のうち、下流側の戸那子排水機場脇の決壊現場を担当した。20代前半の若造に指図されて働いていた役所の方たちは、文句も言わずわたしの言うことを聞いてくれた。高井という広域エリアにおいて、人々の記憶に残る水害に、それも2年続きの災害に見舞われた際に飯山に居たという事実を、あらためて教えてくれる『高井』200号なのである。金井氏はこうも記している。「私たちの仲間内の会話では「昨年は100年に一度と言っていたが、どうして二年連続となるんだ。…100年の最後と100年の最初だな」などと皮肉も言う人もいた。」と。金井氏も言うように、その後目立った水害が飯山など千曲川の岳北流域で発生したことはない。

 「ふたたび台風18号」における市報「いいやま」の災害特集号の表紙でも解るように、昭和57年の台風18号災害では、取り残された住民がボートで救出された。金井氏は消防団としてそうした救助活動に加わったといい、「あるお婆さんを抱きかかえボートへ救助した折、「こんな目に遇うんだったら早く死んだ方が良かった」とも言われ、励ましたことが思い出される。」と語っている。700戸以上の床上浸水を見ながら、一人として犠牲者がなかったというあたりが、水害常習地域である長野県内に住まう人々の常日ごろの備えなのかもしれない。そう考えると近年水害が少なく、こうした大水害から遠ざかっているこの頃でもある。

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小布施の大日如来

2016-11-05 23:54:30 | 歴史から学ぶ

川谷から流されたという大日さま

 

満海和尚の大日如来

 

 小布施町福原の集落内を通る道の脇に立派なお堂があって、その中に赤い前垂れをつけた大日如来が安置されている。「子育ての大日さま」と呼ばれているらしく、信仰の篤さが伝わる。堂内掲げられている説明版によると、背部に「寛永八年七月五日」と刻まれているというが、はっきりとは解らない。寛永8年といえば1631年。江戸時代に入って二つ目の元号である「寛永」、古いことがそれだけでも解る。右肩に「信州」とあると書いてあるので確認してみると、確かに「信州」らしき文字が。そもそも「信州」という銘文はそれほど見かけることはない。福原村の成立が寛永8年だったというから、村の始まりからこの大日如来があることになるが、『小布施町の石造文化財』によると、「川谷より拾ってきた大日さん」とある。説明版にも「もとは鳥居村川谷の地蔵の浦という所に祀られていた如来さまで、大水害の時流されたもの」とある。鳥居村とは現在の飯綱町、旧三水村にあたる。川谷は鳥居川に沿ってある集落だ。ようは福原村の始まりとは無関係だということ。たまたま流されて塩原村にやってきたというわけだ。そのことについて「享和元年(1801)、その時の吉田家の戸主・金七という人に、夜な夜な夢枕に、如来さまのお姿が現われて、、「われを救い上げよ、われは福原へ行きたい。そして四月二十日を以ってわれを祀れ」というお告げがあったので、ある分家を共に、朝早く行って見たところ、鳥居川で石を枕にして、如来さまが寝ておいでになられた」という。

 安山岩に彫られた大日さまのお顔はなかなかのもので、目も鼻も口も、凹んだところがそれらしい。いたずらなのか、それとも信仰なのか、左頬のあたりに朱の色が残る。堂の正面には「大日堂」と掲げられている。前掲書には次のようにも書かれている。「大変子どもが好きで、堂はいつも子どもの遊び場であった。しかし、いたずらが過ぎるので、格子戸を作って子どもが入れないようにしたところ、家人が相次いで病気になった。そこで格子戸を取り外したら病気が治ったので、今もって堂には格子がない。」

 小布施町をまわっていると大日如来がよく目に付く。同じ福原の大日堂から少し北に行ったところ、観音堂の前にある覆屋の中にも大日如来が安置されている。こちらは前掲の大日さまと違って信仰は廃れてしまったのか、覆屋の前の空間は伸びきった蕨が鬱蒼としている。こちらも彫りそのものは単純で、顔の表情ものっぺらとした感じだが、背面に銘文が。何と前傾の大日さまと1年違いの建立。「寛永七庚午」とはっきり読み取れる。さらに「小布施村 開山圓空満海法印 十月廿五日 小林氏」と続く。やはり前掲書によると、福原新田を開発したという小林弥左衛門こと、満海和尚の姿を彫ったものという。ここでちょっと違和感のあるのは「小布施村」である。もしかしたらこの銘文は、後世に彫られたものではないだろうか。

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小布施町「押切」

2016-10-09 23:45:42 | 歴史から学ぶ

 小布施町の押羽(おしは)というところに、「千曲川大洪水水位標」というものがある。実は千曲川流域にはこうした過去の洪水の水位を示した標柱があちこちにあるという。それだけ洪水の常習地域だったということになるだろう。以前にも触れた旧豊田村上今井の千曲川ショートカットなどは、明治初期の大工事だったわけだ。今では旧河川敷となっている地に千曲川の洪水が上がったのは、もしかしたらわたしが災害復旧に入った昭和58年の水害が最後なのかもしれない。

 前述の標柱がある小布施町の町史によると、上流の村々が嘆願書を出したのは明治3年だったという。それぞれの管轄藩県に提出されたといい、それによると現在の小布施町も管轄が入り組んでいた。矢島や押切、あるいは北岡・雁田といった地域は伊那県支配だったようだ。「半円形に湾曲している河身を、直流させるための新川を掘り開いてもらえるならば、総工費の六割を負担してもよい」というものだった。この嘆願書に上今井の人々は驚いたことだろう。田家の真ん中を断ち割って新川を切り拓くというのだから、反対運動が起こったのは言うまでもない。しかしこの大事業は断行され、明治5年4月に完成している。しかし完成後数年間は洪水をまぬがれたが、間もなく被害がひどくなったという。浚渫が行き届かず再び上流側に湛水したということなのだろう。

 さて、押羽にある水位標であるが、この水位は下流の立ヶ花の量水標を示したものという。最上部は寛保2年(1742)8月2日のもので、10.9メートルの高さに示されている。ついで明治29年(1896)7月20日のもので9.7メートルを示す。前述の千曲川の新川が造られた以降の水害にあたる。まだ堤防が未整備だった時代には、下流のショートカットだけでは解消できなかったということだ。大正時代に作成された『延徳村農業水利改良計画書』によると、立ヶ花の量水標が8尺にのぼれば、篠井川(小布施町の延徳田んぼの最北端にある川)はしだいに逆流し始め、13.4尺において最も甚だしく、16尺に至れば篠井川のみならず、千曲川沿岸の無堤地より外水が盛んに浸入するとされていた。明治時代には11尺以上の増水が25ヵ年で35回発生したと言われる。ちなみに、水位表の3番目に記してあるのは明治43年(1910)8月11日のもので8.3メートル、4番目は弘化4年(1847)3月24日のもので8.2メートル、5番目は明治30年(1897)9月7日のもので、7.6メートル、最下段のものが明治元年(1868)5月8日のもので7.3メートルを示している。

 水位標は南を向いており、向こう側に見える家々の北側に小さな段丘があって、その向こう側に水田がある。小布施町ではかつて水田であったところにも果樹がだいぶ植えられて稲穂の波はなかなか見えなくなってきているが、いわゆるその水田は延徳田んぼの延長上にある。明治時代の洪水によるものなのだろうが、この標柱から北東へ500メートルほど行ったところに上下諏訪神社がある。押羽の集落には、この上下諏訪神社のあたりに住んでいた人たちが移住している。同じように篠井川の傍に矢嶋往郷神社があるが、このあたりにも集落があったというが、現在小布施側のそこに家はない。このあたりに住んでいた人たちは、矢島に移住したという。ようは段丘上に集落はみな移転したのである。上下諏訪神社の入口に「上下諏訪神社」と刻まれた石柱が建っているが、その背面に「昭和九年十月 押切浅野境界 確立記念」と刻まれている。このあたりにあった集落は、押切(おしきり)と言ったようである。標柱の下に小さな五輪塔がいくつも並んでいる。この地がいったいどんなところだったのか、そのあたりまでは調べていない。

 

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上波田へ

2016-06-07 23:14:58 | 歴史から学ぶ

「稲核へ」より

線彫り閻魔王(天正2年)

 

 最後は旧波田町上波田へ。若澤寺は行基によって奈良時代に創建されたという寺で、上波田の集落の南西側にそびえる白山山頂に当時は建てられていたという。江戸時代には「信濃日光」と呼ばれたと言われ、そのころには現在の若澤寺跡の位置まで下がっていたという。しかし明治4年の廃仏毀釈令によって寺は取り壊され、石垣を残すのみとなった。廃寺によって建物などは破壊や移転され、散在している。重要文化財指定されている田村堂は、麓の阿弥陀堂の横に移され、近くには仁王門が移された。

 麓には上波田の家々が密集しているが、ここは旧野麦街道が東西に通っていた。いわゆる家並みは町割を示し、稲核同様に集落の中程でクランク状の道を見せる。上波田については「御柱を倒す」や「正月の柱立て」で触れたように、2年ほど前に盛んに訪れた。「御柱を倒す・後編」で紹介した道祖神は、旧若澤寺仁王門の前に安置されている。仁王門は長野県宝に指定されていて、例年4月の第3土・日曜日に「仁王門の股くぐり」が行われている。仁王の股の間を子供がくぐると、麻疹が軽くすみ丈夫に育つといわれる行事で、毎年テレビのニュースで放映されるほど知られている。この仁王門の前、右手に供養碑が立っている。「若澤道供養紀」と刻まれた碑のセンターには梵字が刻まれている。「天正三五月」とあり、1575年というこのあたりでは古いもの。市の重要文化財に指定されているものだが、実はこの仁王門周辺には同年代の石碑がいくつも散在している。最も古いものが、「天正二年七月吉日甲戌」と彫られた線彫りの閻魔王坐像である。若澤道供養碑よりも1年早いもので、少しユニークな閻魔さまである。これも市の重要文化財に指定されているもので、像の向かって左手には「本願越前住經聖」とあり、越前の僧が若澤寺へ巡拝した際に建てたものと言われる。このほか若澤寺跡まで登る参道の道筋に、高さ70~130cm前後の丁石10基が残されていて、阿弥陀堂前にいくつか移転され安置されている。いずれの碑も上部に阿弥陀三尊の梵字が刻まれており、建立年銘はいずれも同日の「寛永十二年」(1635)の「六月吉日」である。

 さて、最も古い天正2年の閻魔王、線彫りは浅い彫りで、通常この程度の彫りのものとしては風化が進んでいない。天正3年銘の供養碑もそうだが、いずれの古い石碑も年銘の割に風化の進度は浅い印象。果たして450年近く前に造られたものなのだろうか、と少しばかり疑問を抱くが、若澤寺そのものの歴史は古く、とりあえず疑問程度におさめておくことにする。

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野麦街道へ・後編

2016-05-26 23:34:33 | 歴史から学ぶ

野麦街道へ・前編より

 

扇屋

 

 扇屋は川浦にあった女工宿(藩の役人も泊まったという宿)を移転復元したもの。入ってすぐの右手にマヤがあり、尾州岡船の奈川牛の道中姿が再現されている。「尾州岡船」とは尾張藩からもらった特権で、その鑑札を持って旅をすると宿継ぎ、荷継ぎといって金銭がとられることなく、出発から終着まで一気に行けたという。そういった稼業が発達したので、奈川の人たちにとって牛は人間と同じくらい大事にされた。マヤの奥には仕事場があり、やはり「蕨粉づくり」が再現されている。貧しかった奈川では、食料の不足を補うために「蕨粉」を作ったようで、売れるようになると米の3倍の値段で売れたという。「蕨粉」とは蕨の根っこを叩きつぶすと白い汁が出てくる。これを干したもので、糊として利用され機織り産業の盛んだった桐生や甲府の方に尾州岡船によって出荷された。

 ほぼ中央に囲炉裏があり、奥の味噌部屋には屋根裏へ上がる階段がある。また、囲炉裏のある間から表側の「しもで」の屋根裏に上がる階段があり、ここを「隠し部屋」と言うらしいが、むしろ味噌部屋の上にある空間の方が「隠し」部屋のような趣だった。女工宿とはいうものの、それは明治以降製糸産業が盛んになってからそう呼ばれるようになったもので、それ以前は旅人の宿だったよう。現在この建物を管理されている女性は、江戸時代尾州藩領の旅人宿として、また製糸業が盛んであった明治・大正時代には飛騨高山方面から岡谷・諏訪地方へ製糸労働のため往来した工女の宿だったという宝来屋の娘さんだという。宝来屋は扇屋と同じ川浦にあった建物で、現在松本市島立の松本市歴史の里内に移築され公開されおり、扇屋と違って一度に100人以上の工女が泊まれたほど大きな宿である。

 

六地蔵

 

南無大慈大悲観世音菩薩

 

 扇屋から700メートルほど下ると川浦集落に入る。道が分岐するところの右手に墓地があり、その横にふた棟の覆屋がある。このあたりに製材所があったようで、「製板の川原」と言われたようだ。覆屋のひとつは六地蔵が納められたもので、赤い帽子と前垂れが目立つ。前垂れに書かれた文字を見ると「上尾市」とあり、ずいぶん遠くの寄進者である。もうひとつには2体の石仏が祀られていて、1体はやはり前垂れをつけた如意輪観音、もう1体は青面金剛である。覆屋の外にも何体かの石仏があり、注目されるのはおむすび形の「南無大慈大悲観世音菩薩」だろうか。「正徳六丙申歳」と読み取れる。正徳4年は1716年にあたり、奈川地域でも最も古い石仏になるようだ。また、おむすび形の縁に沿って朱色の線が見える。同じようなおむすび形で、縁に沿って朱の線が縁ってあるものが、右手の方にもう1体ある。こちらは「南無阿弥陀佛」とあり、名号塔である。年銘がなく前者との関わりは解らないが、朱の縁どりにどういう意味があるものか。そもそも意図的におむすび形の石を選択し、山なりの朱の線を描くことを前提にしているかのようだ。また、双体道祖神もあり、「施主ハツ」とあることから女性が寄進したものだろうか。

 

大日如来

 

 ここから少し西の道端に明治27年銘の「馬頭観音」を中心とし、両脇に明治44年と大正4年の大日如来、それと大正2年の馬頭観音が並んで建っている。奈川には大日如来が道端に目立って祀られている。前述の六地蔵の覆屋の中にも1体祀られており、特徴的だ。大日如来を牛馬神とする信仰は各地にあるようで、とりわけ馬乗り大日とか牛乗り大日といったものが九州国東半島などに見られるが、長野県内ではあまり牛馬と大日如来の関わりを聞かない。

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野麦街道へ・前編

2016-05-25 23:37:54 | 歴史から学ぶ

 標高1400メートルを超えているのだから、涼しいのは当たり前なのだろう。ここから1.3キロほど山道を歩くと野麦峠になるという。

 以前「“文化財”からの地域づくり」で触れたのだが、松本市の策定する歴史文化基本構想の関連文化財群設定に先だった文化財の現地見学に参加した。その一つは県史跡に指定されている「野麦街道」を核とした関連文化財群を描いたもので、旧奈川村域に該当する。奈川は松本市域でも最も奥まったところに位置する地域で、集落は黒川渡と寄合渡というふたつの地域を中心に展開されている。野麦街道が県史跡に指定されたのは昭和59年、当時の奈川村を訪れた記憶はあるが、険しい道のりであるという印象が強かった。昭和60年時の国勢調査データによると、422世帯、人口1399人というが、現在は345世帯、人口755人と、人口はほぼ半減している。小学生が25名しかいないというから、下伊那郡の山間地域の村と状況は似ている。

 

長野県史跡「旧野麦街道」

 

 野麦街道は言うまでもなく飛騨と松本を結ぶ道。現在の入口は広くなっているが、途中まで管理道路として車が入れるようにしたため広げられているという。工女が通った、あるいは「ブリ街道」と言われるように、富山で捕れたブリがボッカに背負われて越えてきたとも言われ、交易上重要な道だった。

 

道祖神と石室

 

「南無観世音菩薩」碑を訳した「再建の記」(部分)

 

 旧野麦街道口から少し寄合渡に下った道端に石室が復元されている。昭和63年に当時の奈川村長の発案で造られたという。もともとは現在地に沿う道路反対側の川との間にあったという。本来の形はまったく異なるといい、現在の物は炭焼き釜を真似て造ったものらしい。最初の石室は壁は石で、屋根は木だったという。最初に石室を造ったのは黒川渡にあった庄屋の永嶋藤左エ門という人がいて、野麦峠道のこの界隈は冬場遭難する人が多かったことから、避難小屋を造れば助けられのではないかといって造ったという。その話を聞いた木曽藪原の極楽寺の和尚さんが美挙を讃えて文政8年(1825)に碑を建てたといい、復元された石室の横にそれはある。ところが何を書いてあるかは現在の碑からは読み難い。これを訳したものが昭和62年に横に建てられた。

 近くには交通安全を祈願した双体道祖神が建てられている。「改良記念」とあるから道路拡幅改良されたものを記念したものなのだろう。背面に「昭和六十二年十一月 奈川村村長嶋口儀久建之」とある。

続く

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豊丘村を歩く⑩

2016-04-29 23:15:19 | 歴史から学ぶ

豊丘村を歩く⑨より

滝川公園より望む

 

 「豊丘村を歩く⑧」において、滝川にある滝川公園から望む天竜川について触れた。そこには天竜川に架かる万年橋が見え、その向こうに天竜川河原に広がる水田地帯が望めた。この天竜川沿岸の農地は「新田」と言われるように、後世に新たに開田されたところ。そこへ用水を供給するために造られたのが「間夫井」と言われる用水路だった。当初は図の①の位置に取水口が設けられたという。新田とはいえ延宝五年(1677)に水路が竣工したというから、すでに340年も前の話しだ。当時開削された間夫井は旧河野村分の新田を潤すものだつた。後に嘉永5年(1852)に河野中平の庄屋だった福井源蔵によって①から②まで隧道が掘られ取り入れ口が上げられた。理由は河床低下のせいだと言われる。この後、河床低下によって元の取水口から上流1300メートル近い位置まで取水口は移動していくのだ。これを順に並べてみると次のようになる。

①延宝5年(1677) 柿本吉兵衛による開田の取り入れ
②嘉永5年(1852) 福井源蔵による取り入れ口 現調節口
③明治35年(1902) 北之城下
④昭和21年(1946) 北之城北崖(河野3750番地下方)
⑤昭和22年(1947) 北之城北崖(河野3750番地下方)
⑥昭和24年(1949) 北之城北崖(河野3750番地下方)
⑦昭和30年(1955) 台城橋上(猿鼻)
⑧昭和44年(1969) 生田地積間沢川河口
(以上は①の取水口があったと思われる近くにある九頭竜権現碑脇の説明板より)


以上のような変遷であるが、『豊丘村誌』によると、万年橋下に明和年間に取水口を設けたとも記されているから、これ以外にも取水口があったようだ。①から⑥までが約400メートル。ここまで延伸するのに、272年。ところが⑥から⑧までは900メートル近くあるというのに所要20年。急激に河床低下が進んだとも捉えられる。河床低下によって旧河野村のみを潤していた間夫井は、名を竜東井と変えて現在は喬木村伊久間までの天竜河原を潤している。昭和13年7月の豪雨災害によってかつて天竜川からそれぞれ取水していた取り入れ口がすべて被災した。加えてこの時に河床低下が著しかったようで、県から示されたのは次の3案だったという。
1案 河野地積万年橋付近を取入れ口として喬木村伊久間を放流点とする。
2案 河野地積間夫井を利用延長する。
3案 河野地積八王子沖を取入れ口とする。
関係者で調整されたが結局河野村は従来通り間夫井を利用し、それより下流域は河野村八王子沖に取水口を設ける(これを竜東一貫水路と称した)こととし復旧はなされた。ところが昭和28年に再び両取水口が被災をした。その復旧工法として提案されたのが、⑦へ取水口を延伸し、間夫井と竜東一貫水路を統合するというもの。これが現在「竜東一貫水路」と呼ばれている水路の始まりとなったわけである。①と⑦は隧道で開けられたが、その上⑦から⑧間はヒューム管で施工された。これは昭和44年に竣工している。以後現在まで延伸されることなく至っている。

 とりわけこの延伸された部分は暗渠と隧道で構成されている。現在②と⑥には調整門や排泥用の門が設けられていてそこから隧道内に入ることはできるが、一般にはほとんど目に触れられることはない。目に触れられないということは認識が低下するのは言うまでもない。世の中には見えずに一般には認識されていない農業用水路はたくさん存在する。故にその存在価値が低く認識されるのは致し方ないのだが、それを消し去ることは簡単にはできないし、もちろん消し去って良いものではない。これらを維持していくことの大きさをいかに知らしめるか、問われるべく課題だが、まるで低温やけどを負ったような農村にはそれを解消する意欲も消えかけている。

続く

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豊丘村を歩く⑨

2016-04-19 23:22:31 | 歴史から学ぶ

豊丘村を歩く⑧より

庚申松跡地

 

小園から庚申松へのかつての道

 

庚申塔

 

如意輪観音

 

 村の南端、壬生沢川の傍に小園という集落がある。隣の喬木村と川を隔てているものの、県道を無意識で走っていると村境がわからないほど集落は繋がっているようにも感じる。小園の段丘尻に小野神社という社があり、ここから壬生沢川の支流地蔵沢川に沿って進むと段丘崖を駆け上って源道地という地積に至る。数戸の家々と水田、そして果樹園が展開するが、東西350メートル、南北200メートルほどの狭い段丘面である。かつては源道地の段丘突端に道が(歩いていた時代)繋がっていたが、車道が開けてからは段丘面の中ほどに道は繋がっている。かつての道が上り詰めたところに大きな松の木があったという。この松を「庚申松」と言ったもので、もちろん松の木の根元に庚申塔が祀られていた。この「庚申松」は目通り5.55メートルというアカマツで、段丘突端に生えていたこともあって、枝が段丘崖に垂れ下がっていたともいう。県の史蹟名勝天然記念物にも指定されていたと言われ、指定当時の報告に「枝は崖面に従って下降し恰も懸崖状を呈す其内二本は一四米も地面に沿ひて伸長し」と記されている。当時すでに樹齢500年以上と言われていた松も、ずいぶん以前に朽ち果てて今は跡形もない。この庚申松があったと思われる豊丘村神稲12060番地の現在は、こんな感じだ。段丘崖に生えた竹が藪化して、かつての庚申松を想像もできない状況となっている。当時のものかどうかは定かではないが、周囲に石が転がっていて、ここに何かがあったのではと想像させる程度だ。

 庚申松とともにあった庚申塔は、現在段丘を下った小園の集落内の辻に、ほかの石仏などとともに祀られている。『村の石神と石仏』(豊丘村教育委員会1971)は今からもう半世紀ほど近く前に発行されたもの。スケッチをされた武田彦左衛門氏は、この庚申松も描き残されている。「供野原 庚申松」には「この松はかつて天然記念物であったが、枯れてしまった」と記し、立派な松の根元に載っている「庚申塔」を描かれている。当時すでに枯れていたということになるわけで、「下がり松」とも称された庚申松の見事な姿を知っている人も、もう皆無に近いのだろう。庚申塔には「明和二乙酉天(1765) 十月十八日 施主九人 供野原」と銘文があり、享保年間に伴野原より分祀したとも言われている。現在祀られている場所に同じ明和2年銘の如意輪観音が並立しており、造立月日も同じ「十月十八日」である。この如意輪観音も庚申松に祀られていたものと言われ、庚申塔と一緒に平成16年に移転祭祀されたという。同じ日に庚申塔と如意輪観音を建てた背景にはどのような意図があったものか。なお、如意輪観音には「施主二人」と記されている。

続く

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豊丘村を歩く⑧

2016-04-07 23:53:59 | 歴史から学ぶ

豊丘村を歩く⑦より

公園から南方(天竜川万年橋)を望む

 

「蚕神」

 

 これだけ山の中の農地を見て歩いていると、捜し求めている農地がすでに耕作放棄どころか山林化しているとおおかた予想できる。それでもと思って未開のような地に足を踏み入れたとき、いまだに耕作されている土地に出会うと感動する。とはいえそうした農地が風前の灯火であることは言うまでもないが…。空間的に周囲が山林であったり、車道がありそうもないところは、まず100パーセント今は耕作地ではない。いっぽうで狭い道ながらも、車の通った痕跡があれば、まだまだ生きた農地として出会える可能性は高い。「この先は明るそう」そう感じれば100パーセント空間は意外な姿を見せる。

  今日もそんな100パーセントの可能性を察しながら雨の中を歩いていると、急傾斜地崩壊危険区域の山留工が頻繁に施工されたあとの空間を利用してた耕作空間に出会い、よくぞこの地で、と思わされることたびたびであった。昨日は豊丘村滝川の奥(「ハラ」で触れた滝川原)へ足を運んだ。滝川は旧河野村の北端にある集落で村からは飛び地のような空間である。以前から何度となく足を運んでいたが、奥まで足を運んだのは初めてだった。天竜川が望めるような南斜面に立ち入ると狭いながらも畑地が展開され、その突端に「蚕神」が祀られている。今でこそ畑、あるいは果樹が植えられた空間が、かつては桑園であったことは言うまでもない。背面には「昭和四年四月建之 瀧川耕地中」と刻まれている。碑そのものはありふれたものであるが、その碑を囲むように石の囲いが施されている。石柱には「昭和十一年十二月建之」「瀧川耕地中」とあり、「蚕神」建立から7年後に整備されたようだ。

 この蚕神の祀られている前は狭いものの少しばかり平坦になっていて、地元では滝川公園と呼んでいるようだ。西側は天竜川の断崖となっている。現在は木々が生えていて見晴らし良好というわけにはいかないが、景勝地だ。対岸には大島城址がすぐそこに見えている。地元の毛涯雅明さんという方が書かれた「滝川公園と血流れ沢の話」には次のように書かれている。

 台城(大島城)の対岸に、一段と高い眺めのよい場所がありますが、これが滝川公園です。この突端に立つと台城は手のとどきそうなところにあります。この間を蛇行して天竜川の流れをたどると、北は土場(「渡場」の間違いか)の橋から南は弁天橋に至るまで、天竜川に架かる七つの橋が眺められ、前方には雄大な駒ケ岳、その山麓に展開する風景はみごとです。
 その昔、ここに合戦があったと伝えられています。そして、滝川公園の地が、織田の軍勢が武田の台城の城を攻めた陣地だったという伝説は、あまりにも有名です。
 天正十年(1582)二月十五日、勝ち誇った織田信忠ま軍勢が、南の方から雲霞のごとく押し寄せて、武田方の台城を包囲し、その一隊がこの滝川公園の一角に陣取り、城をめがけて盛んに火矢をあびせました。城があぶないので城兵たちは決死隊を出して、夜の闇にまぎれて天竜川を渡り、滝川公園南側の沢をひそかに登ってこの陣地を攻めようとしました。織田の一隊はそれに気づいて、上から岩石や大木を転がし、矢玉を雨あられとあびせました。沢を必死で登ろうとした城兵たちは、落ちてくる岩石や大木、味方の兵士たちとともにごろごろところげ落ちて、沢に真っ赤な血を流して死んでしまったといいます。
 台城の城が、織田信忠の軍勢の手によって焼け落ちたのは、天正十年二月十六日明け方のことだったと伝えられています。
 この沢の花崗岩の岩肌が、いまも真っ赤に染まっています。それがあたかも、鮮血の流れを思わせるのです。そしていつの頃からか、この付近の人たちはこの沢を「血流れ沢」と呼ぶようになりました。
 「ここに合戦はなかった」とするのが歴史家の定説のようですが、私はみこの地に伝わる昔からの伝説は、伝説として大事にしてこれを又子孫に伝えていきたいものと思っています。

 同じ「血流れ沢」の伝説は『豊丘村誌』にも記載されており、そこには

 竜川(「滝川」の間違いか)を上っていく途中、泉の湧き出ている所を血流れ沢といいます。昔大蛇が城に戦争のあった時、武田方の軍勢は川を渡って度々織田の陣に夜討ちをしかけ、そのつど、山の上からころがし落す大木や大石におしつぶされて、このあたりは血が川をなして流れたそうであります。その谷で討死をしたつわものたちの魂が今もそこらに迷っているのか、川の水には血がまじって流れるといいます。

とある。大島城は武田方の伊那谷南部の拠点だったと言われるものの、織田軍が押し寄せると戦うことなく城を明け渡したと言われている。とはいえ、実際にこの地に立ってみると、その大島城とは目と鼻の先に伝わる伝説が実しやかな香りを漂わせるのである。

 

続く

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大根地蔵

2016-03-28 23:05:26 | 歴史から学ぶ

道の先は平谷村

 

大根地蔵(角三地蔵)

 

台石の銘文

 

 平谷村の中心部にある国道153号線と国道418号の交差点から西へ国道418号を下ると、平谷川の渓谷に入る。4.3キロほど下ると長野県境である。岐阜県に入る手前に五軒小屋と言われるところがあり、かつては集落を形成していたようだ。合川という川を渡ると岐阜県上矢作町(現恵那市)に入り、ここから平谷川から上村川と川の名前が変わる。上村川の右岸は岐阜県であるが、左岸側はしばらく長野県となる。岐阜県に入って2キロ近く下ると国道418号の達原トンネルに入るが、その手前の山手に「海」という集落がある(正確にはあったといった方がよいのかも)。このトンネル入口が見える200メートルほど平谷側のカーブのところにコンクリート造りの祠の中にお地蔵さんが一体祀られている。一見すると交通事故で亡くなった方を弔うために建てられた道端のお地蔵さんと捉えられがちだが、このお地蔵さんには深い悲しみが刻まれている。台石には次のように刻まれている。

維時昭和六年十月二十二日十二才少年小椋角三於此地為悪寒横死血縁者建之

『平谷村誌』下巻(平成8年)に「下校途中に惨殺された事件}と題して次のように記述されている。

 昭和六年十月二十二日 五軒小屋から上矢作に通じる上村街道で、下校途中の学童が悪寒に襲われ、惨殺され臓器をうばわれるという、数奇残虐な事件が起きた。
 この日少年は下校途中、親戚から大根をもらって、五時ごろ一人で海地積の我家へ帰る途中であった。
 犯人は住所不定の土工で、重い性病を患い、「申年の男子の肝臓を食べれば癒る」という忘信にかられて、申年生まれの少年を狙っていた。
 犯人は土工の朝鮮人と共謀して、少年を路傍の茂みに誘いこみ、惨殺して生き肝を切りとって食べたという。
 村人・消防団こぞって、少年の行方を捜査した結果。惨めな遺体を発見、村中が恐怖の底につき落とされた。

 前述したように「海」は岐阜県上矢作町の地積にある。へんぴな地にある「海」では上矢作の学校へ通うよりも平谷の学校へ通ったほうが近かったので、平谷に寄留して平谷の学校に通っていたという。実はこの事件のことを詳細に記されているのは、先日も紹介した「お薬師さんと眼科」でも紹介した平谷村の小池筆男さんの本『山村の今昔』(平成11年 自費出版)である。そのタイトルが「大根地蔵」というもの。それによると五軒小屋に角三の祖母が住んでいた。学校帰りに「大根をやるから、家まで背負っていきな」と祖母に呼び止められた角三は、カバンを上級生の平吉にあずけた。平吉たちは一足先に海にある家に帰って行き、残った角三は祖母と一緒に大根を採って祖母に背負わせてもらった大根を背に見送られたという。そしてもう少しで「海」というところの曲がり道で、悪寒に襲われた。帰ってこない角三を探して村中が大騒ぎになったという。なかなか見つからずに3日目の24日朝10時ころ、川っぷちの茂みの中で角三は哀れな姿で見つかった。それからというもの村人は恐怖の日々をおくったという。主犯格の曽我滝が捕まったのは翌年の2月18日のこと、王滝村の製材工場の飯場だった。

 一見80年以上も経過しているお地蔵さんには見えない。きっとお地蔵さんを祀った人々の思いが詰まっているから、今もって昨日のようなことのようにお地蔵さんは事件のことを伝えているのたろう。ちなみにこの上村街道(国道418号)が平谷川沿いに開削されたのは明治15年だったという。とはいえ当時は人馬が通行できる程度のもの。道幅6尺に広げられたのは明治27年という。それから30年も立っていない年の大事件だった。

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御柱祭曳き綱造り・中編

2016-02-28 23:33:12 | 歴史から学ぶ

御柱祭曳き綱造り・前編より

御射山神社に奉納された曳き綱

 

 御射山神社については社伝によると、建暦元年(1211)船山城主だった片桐小八郎為安が大和国三輪より大巳貴命(おおなむちのみこと)を遷座したと言われ、後に建御名方命、事代主命を勧請したと言われている。享保7年(1722)11月、社殿の修築を行い、その際に祭典を執行したと言われ、その際に諏訪神社に倣って御柱祭を行なうようになったという(ちなみに近在では「飯田のお練り」が大規模な7年目ごとの祭りで知られるが、飯田のお練りがこの7年目ごとに諏訪の御柱に倣って行われるようになったのは、享保19年のことと言われており、御射山神社御柱より2度あとのことである)。数えて294年、御柱祭50回目を迎えるというわけだ。曳き綱造りを申か寅の日に行なう、とは『上片桐村誌』(上片桐村誌編纂委員会 昭和40年)に書かれていることで、同書では御柱祭の執行日についても「申年は申の日に、寅年は寅の日」を選んでいたようだ。もちろん今は休日にあてるから、たとえば今年はたまたま「寅」の日にあたるが、前回は「未」の日だった。

 前編において「片桐町の存在については少し歴史から紐解かなければならないだろう」と書いた。伊那谷の主街道は、かつては天竜川に近いところに設置されていた。しかし京極高知が飯田城主だった時代に、飯田から飯島までの間は山裾に近いところに移されており、文禄2年(1593)に完成したと言われる。その際に伝馬町が設けられ片桐宿として始まったのである。寛文12年(1672)から延宝5年(1677)までの6年間、片桐陣屋に代官所が置かれたが、その後は飯島に代官所は移され、明治維新まで続いた。かつて片桐郷、あるいは片桐村と言われた地域は、昭和の合併で登場した中川村の一旧村である片桐村とは異なり、もっと広範なものであった。そのうちのひとつの村であった片桐町は、現在の松川町上片桐町谷・中荒町・上町といった集落を指していた。現在も「片桐三部落」という呼び方がたびたび口にされる。位置的には宮元は「城」(じょう)であるものの、片桐郷の触元として片桐町が事実上の宮元とされたわけである。こうしたことから旧片桐町の人々が御柱祭の中心的地位を占めてきたようだ。前掲書には献木する柱の見立ても宮元が行ったと記されている。そして「御柱曳きの大綱縄四本は、片桐町中の氏子が総出でその年の干支(申・寅)にちなんだ日に作製することになっている」と記されている。また、「一般の氏子は抽籤で定められた柱を…」とあり、かつては抽籤で柱が決められていた節もあるが、真偽は定かではない。曳き綱を作製するのが片桐町の人々であるということは、崇敬者の人々の中でも意外に知られていない。人口規模で御射山神社崇敬者エリアには1万人近くを数えるのだろうが、片桐三部落の戸数は200戸足らずである。

 さて前編でも現在は既製の荒縄を利用するようになったと述べた。20本ずつ束にしたもの3本を依っていくが、芯にはワイヤー3本が依り込まれる。開催ごとに長さを2寸ずつ伸ばしているという御柱は、今回5間5尺8寸。もちろん一の柱を曳く上片桐の柱が最も太いわけで、胴回りは3メートルを遥かに越えるもの。ちなみに山出しは3月20日に行われるが、地元である上片桐はまさに山出しになるが、ほかの3地区はこの日が地元を曳く、いわゆる本当の意味での里曳きにあたる。

続く

 

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「乙女の滝」を訪れて

2016-02-23 23:17:15 | 歴史から学ぶ

 仕事の関係で諏訪の坂本養川(ようせん)が企てたという水路を訪れた。坂本養川、その名は諏訪の人々にはよく知られているのだうが、ほかの地域の人々にはマイナーな存在だ。歴史上水路を開削したという存在は数多い。県内では何といっても五郎兵衛用水が知られていて、その水路名にもなっている市川五郎兵衛は、新田開発とそのための用水路開削を行った。諏訪地域から見れば、蓼科山の反対側にあたる北佐久地域での話である。このほか開削者の名を冠した水路は各地に残るが、坂本養川の名を冠した水路は実際のところ存在しない。しかし、諏訪地域における用水路開発にあって、坂本養川の業績は大きい。

 坂本養川(以降「養川」という)が生まれたのは市川五郎兵衛が生まれた元亀2年(1571)から下ること160年余、享保21年(1736)のことである。もちろんそれ以前から堰の開削は進められていたが、諏訪地域ではこれ以上は用水不足を来すため新切(「しんきり」という。新しく開梱した田畑のことをいう。)や畑直(「はたなおし」という。畑を水田にすること。)が制限される時代に生を受けた。父親が名主であった養川は早くに亡くなった父親同様に名主をつとめることに。養川が堰の開発に目覚めたのは、父の位牌を高野山に納めようと西国巡礼に出た宝暦12年(1762)、27歳の時のようだ。関西流の池溝土木など開拓事業を見て回ったよう。帰国後こうした開発の技術を関東平野で生かそうと江戸に向かったのは、翌年のこと。しかしながら引き戻され、明和元年(1764)には再び名主を務めることに。新田を拓くことは禁止されていながら、当時は闇で新田を拓く者が多く、申し立てによって新田潰しに立ち会うこと度々だったようだ。そんななか、同じ百姓同士のいたちごっこに「百姓は相身互い」という願いにも応じられない現実に心を痛めたともいう。翌明和2年には穴山新田において「盗み水」を見つけながらそのままにしたという記録もある。明和3年(1766)、養川は再び江戸に出て、武蔵・上野・下野・常陸・下総・上総・安房の7カ国にわたる墾田の計画に着手したという。この時の「坂東平野開拓地測量大地図」が残されている。しかし、養川は安永2年(1773)に病に臥せ帰郷することになり、この開拓を断念することに。回復したものの、母の江戸に出ることへの抵抗で、郷里にとどまり、開拓の志は郷里に求めることになる。藩政打開のために畑直が解禁されるのは明和元年(1764)のこと。その後養川は安永4年(1775)を最初に毎年のように堰開削の献策を藩に提出する。天明3年(1783)までの間に6度の献策をしている。6度目にようやく許しを得、天明5年(1785)にいよいよ滝之湯堰開発に手がけ、寛政12年(1800)までに15堰が開削され、開田は300町歩に及んだ。養川が手がけた堰は諏訪地方全域に及ぶ。

 とりわけ養川の計画は「繰越堰」と後に言われるようになる、水回し機能が特徴と言われる。養川が手がけた堰でも最も長い大河原堰は、現在の茅野市滝之湯川で取水した後、途中渋川の水を補給し、柳川方面へ導水する。河川を横に連絡するように繋げて水量の少ない地域の川へ補給する形式、これを水回しと言ったようだ。もちろん養川の特有の構造ではあるが、同じような形式を持たせた用水路は長野県内には多い。こうして養川によって献策された堰は下記のような堰である。

 1.小田野上堰(下諏訪町-岡谷市)
 2.小田野下堰(下諏訪町-岡谷市)
 3.矢戸倉堰(諏訪市)
 4.上の相之倉堰(諏訪市)
 5.下の相之倉堰(諏訪市-茅野市)
 6.相之倉堰(茅野市)
 7.車沢堰(茅野市)
 8.塩之原堰(茅野市)
 9.鬼場新堰(茅野市)
10.棚田堰(茅野市)
11.大河原堰(茅野市)
12.滝之湯堰(茅野市)
13.鳴岩堰(茅野市)
14.柳川三ケ村堰(茅野市-原村)
15.坪之端堰(茅野市-原村)
16.一ノ瀬堰(茅野市-原村)
17.立場川乙事堰(富士見町)
18.千ヶ沢新堰(富士見町)
19.程久保堰(富士見町)

実現はしなかったが、現在の富士見町を流れる釜無川で取水し、甲州の逸見筋(旧長坂町方面)へ導水する計画も立てていた。越藩し国境さえも越える計画を立てていたというところに、養川の堰開発への強い思い入れが見て取れる。

 以上養川の業績は『諏訪の農業用水と坂本養川』(浅川清栄著 同刊行委員会企画編集 平成10年)を参考にさせていただいた。最も長い大河原堰は、今は閉鎖してしまったが、蓼科パークホテルの脇を流れてその直下の「乙女の滝」を経て滝下で渋川の水を補水して導水されている。昭和時代の末、大河原堰は大規模な改修計画が持ち上がり、仕事でこのあたりを歩いた記憶がある。結局当時は事業化されなかったが、別荘地を流れるこうした堰の改修は、難しい問題もはらむ。久しぶりに「乙女の滝」を訪れたが、冬季間ということもあってそれほど気にはならなかったが、かつてに比較すると周囲にツル性の雑草が目立ち、滝の景観に少なからず影を落とす。

大河原堰(渋川で補水するところの大岩の上に水神が祀られている。右手奥が「乙女の滝」)

 

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旧河野村を望む丘で

2015-11-06 23:17:23 | 歴史から学ぶ

慰霊碑(豊丘村旧神稲村地積)

旧河野村中平を望む

 

 ここもまた段丘の突端である。林原と言われる中段のなだらかな平地は、豊丘村の中心から2段段丘を上ったところにある。この突端にも象徴的な空間がある。「豊丘霊園」である。いつごろ整備されたか知らないが、ここにはいわゆる満蒙開拓による犠牲者を刻む慰霊碑がある。今、この地域は滿蒙開拓の歴史に対して盛んだ。何より阿智村にできた満蒙開拓平和記念館の存在が大きい。俄かにと言って良いかは解らないが、滿蒙開拓を学ぶ機運が高まった。戦後70年もしてようやくという感がする。まるで最近建てられたかに見える慰霊碑には次のように刻まれている。

正面

海外犠牲者
 慰霊碑
  長野県知事
   西沢権一郎

向かって右側面

昭和の中世 時の國策の悠久大義なるを信じ それに順応し祖國を離れて
海外の新天地に活躍中 太平洋戰争の悲惨なる終結に伴ない雄國空しく挫
折し凡そ文明社会の想像し得ざる悲惨な現実に直面し幾多の同志は想を故
郷に馳せつヽ異郷に散華し 生あるものは辛うじて身をもつて故山に帰るの
止むなきに至れり 今茲に平和なる母村の清丘に碑を建設して異郷に眠る
同志の声なく帰郷を希い以て慰めんと欲す

向かって左側面

想を馳すれば吾等の雄國は事志と違い悲惨なる結末を告げたりとはいえ決
して無為にあらず 必ずや後世の歴史は平和日本建設の礎たりしことを証
明するであろう この丘に立ちて眼下に天龍の清流と榮ゆく母村の姿を
見 仰いで青天に一片の白雲悠々たる故山の姿を眺むる時 遠き想新にし
て感無量なるを覚ゆ
  御霊よ 安らかに永眠されんことを  一九七四年八月一五日

 滿蒙開拓に多くの村民を送った、長野県はとりわけ国策に応じたところだった。満州へ渡った村民比率(渡満者比率と言うらしい)が佐久の大日向村が多かったことはよく知られている。大日向村以外ではとりわけ下伊那郡に満州へ渡った人々が多かった。下伊那町村会が挙げて満州移民を送ったことによるものだが、そのいっぽうで大下條村(現阿南町)の佐々木村長は、移民計画が無謀なことを理由に村として移民を送り出すことをしなかった。当たり前のように、平坦地の少ない山間農村部のため、とその理由にあげられるが、けして山間が貧しいと決めつけるにはどうかと思う時代であったようにわたしは思う。もちろん分家を出すことはできない、となれば地元には残れない。すると新天地を求めるのは自然の流れであったかもしれないが、それだけではなかったはず。県民性としても、下伊那に集中したことをそれだけで説明することはできない。

 こうした慰霊碑などの関連石碑から計量的分析を行ったものが“「満州」記憶に冠する計量的分析の試み 長野県の碑を中心に”(南誠)である。当然のごとく長野県にそれは多く、もちろん南信に集中する。またそれらは1970年前後を中心に建立されているようだ。

 さて、ここの慰霊碑は昭和48年に犠牲者の遺骨が送還されたのを期に建てられた。その当時のここの景観がどうだったかは解らないが、現在は霊園の西側には高い樹木が立ち並び、天竜川や対岸を正面に望むことはできないが、北側に谷があってそちらは広く展開している。いわゆる集団自決者を大勢出した旧河野村を望む。碑文の想いはここにある。とはいえ、「決して無為にあらず 必ずや後世の歴史は平和日本建設の礎たりしことを証明」しているだろうか、今の日本国において。

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豊丘村を歩く⑦

2015-07-30 23:40:48 | 歴史から学ぶ

豊丘村を歩く⑥より

 

 豊丘村では数多い青面金剛を見ることができる。隣の喬木村のような彩色痕のあるものはほとんどないが(堀越のお聖人入口にある青面金剛は下体に若干の彩色痕がみられる)、風化したものが多く、1700年代の比較的古い青面金剛が数多く残っているのではないだろうか。天竜川端の伴野から伴野原を経てまっすぐ山へ向かって入っていくと、福島にたどり着く。この道沿いには山道三十三観音が立ち、伴野の慈恩院から福島まで案内してくれる。本村にある春日神社の脇にたくさんの石造物が並べられており、この中にも青面金剛が立っているが、何より目立っているのは中心にあって最も大きな石碑「二十三夜」である。いわゆる月待塔であり、伊那谷はもちろん県内では最も多い月待塔ではないだろうか。「郷中」とあるから村のものとして建てられたものなのだろうが、「阿弥陀堂宿 尾州智多郡吹村 松下源蔵」と銘文がある珍しいもの。竹入弘元氏の『伊那谷の石仏』(伊那毎日新聞社 昭和51年)にそのことについて触れられている。「幕末に当村に流れ来て、鍛冶屋をして村人に親しまれた源蔵夫妻が、報恩のため「郷中」として建てた」らしい。

 二十三夜に比べると目立たない青面金剛はかなり風化が進んでおり、顔の表情も解らない。年銘はなく、風化から見れば古いものではないだろうか。この青面金剛以上に目立つのは二十三夜の横に立つ丸彫りの蚕玉様だ。右手に桑を持ち、左手に宝珠を持つ女神像である。同じ手の丸彫り像が近くの下戸中にもある。福島本村のものには「万延元年」(1860)の銘がある。これら石像物の立ち並ぶ前の谷には水田が広がっている。いわゆる棚田であるが、真夏の日差しの下、刈り払い機の音が鳴り響いていた。

 春日神社から少し道を上ったところの道沿いには丸彫りの地蔵と馬頭観音も土手の上に立っている。どうもこのあたりには丸彫りの石造物が目立つというわけだ。このところ日差しが濃くて汗が止まらないものの、こうした姿を捉えると車を停めては様子をうかがっている。

 

二十三夜

 

青面金剛

 

蚕玉様

 

地蔵と馬頭観音

 

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