Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

『辰野町の石造文化財』を手にとって

2017-08-24 23:10:35 | 信州・信濃・長野県

 先日久しぶりに本屋に寄ってみる。すっかり巷から消えた本屋。いわゆるチェーン店も目立たなくなったが、それ以外の本屋もだいぶなくなって趣味レベルの本屋しか存在しない。今日もお年寄りが商っている本屋に立ち寄ってみると、かつての賑わいはもちろんのこと、店の中も別の階は閉鎖して、狭いスペースで営業している。もちろん本も限定的。そう遠くないうちにこの店も姿を消すのだろう。

 先日立ち寄った本屋で郷土本が並ぶ棚にあまり例を見ないような本が並んでいた。『辰野町の石造文化財』という辰野町教育委員会が発行したB5版の550ページにものぼる本。こうした本がふつうの書店に並ぶ例は珍しい。なぜかと思うといわゆる郷土本の発行を担っている県内の民間の書籍会社が扱っているからなのだろう。とはいえかなりマイナーな本だから、書店にふつうにならぷことはない。箱に記された値段をみて思わず「安い」と思った。これはわたしは「安い」と思うが大方の人はそうは思わないだろう。そもそもこんな本を買う人はまずいない。そして、まずいないはずなのに、わたしは購入した。1800円にぷらす税という本書。550ページもある本で1800円はないだろう。もともと儲けるために発行された本ではないから、「安い」のも当然かもしれない。今年の3月末日に発行されたという本書、いわゆる「石造文化財」と銘打った本は県内でもたくさん発行されている。どこの市町村にもあるという本ではないのだが、少なくなはない。わたしもこの手の本はそこそこ持っている。そしてこうした本は昭和後期から平成一桁時代にかけてある程度発行された。。近年県内でこうした本が発行されたということは聞かない。ということでこの真新しい「石造文化財」本を、少し紐解いてみよう。ちなみに、その後立ち寄ってみた本屋のほとんどにこの本が並んでいた。「こんな本、買う人いるのだろうか」と思うのは、わたしだけではないだろう。

 本書は地区ごとに石造文化財を紹介しているもので、ほかの「石造文化財」本と構成は違わない。地区ごとの中身は、まず⑴主要な石造文化財を写真で紹介し、⑵悉皆的にすべての石造文化財を一覧化、そして⑶位置図を示しており、訪問するには十分な位置を示している。ついで「特徴ある石造物」を紹介しており、⑴種類別、⑵石工別、⑶揮毫者別という3種の視点でまとめている。石工別、あるいは揮毫者別という分類は特徴的と言える。

 残念ながら行事や信仰といった民俗的記述はほとんどなく、モノとして捉えてまとめた資料と言える。今回まとめるにあたりコンピュータによるデータ化が行われたと言うし、1体1体台帳化した上に地図情報システムによって管理されているともいう。なるぼと現代のデータ処理に即した取りまとめがされているのだろうが、といって本書にそれらをデータ処理した形跡はなく、考察面では乏しいものとなっている。ページ数が多いということは基数の多さがうかがえるわけだが、故にこうしたデータをどう取り扱うのか、応用する課題が残されていると言えるのだろう。

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消極的な理由とは?

2017-08-11 23:39:49 | 信州・信濃・長野県

 妻の実家のある地域の飲み会の席で話題にしたのは、多面的機能支払交付金のはなし。長野県農業農村多面的機能発揮促進協議会のページより制度の概要を用いると、地域の共同活動により保全管理されている農地や水路、農道などの地域資源や農村環境の保全活動を支援するのが、「多面的機能支払交付金」である。もちろん国の補助金である。農地維持支払交付金というものと、資源向上支払交付金というものがあり、前者は地域資源の基礎的な保全活動 あるいは地域資源の適切な保全管理のための維持活動にあたる。簡単に言えば、施設の点検に限らず草刈や道普請、あるいは井浚いといった共同管理作業に対して交付金が交付されるというもの。水田なら10アールあたり3000円、畑なら2000円と些少な単価ではあるが、もともとまったく補助金のなかったところへ、維持作業をしただけで補助金が交付されるというのだから、まさに補助になることは言うまでもない。また、後者は地域資源の質的向上を図る共同活動(施設の機能診断や補修に対する技術的研修)や施設の長寿命化のための活動(長寿命化に対する実際の補修・更新という工事)に対して交付金が得られる。いってみれば、地域が自分たちで考えて、必要なところに手を加えていくという、自発的な活動への補助金と言える。

 実は関係の仕事に携わっているのに、つい先ごろまで市町村ごとの交付金への実施状況がウェブ上に公開されていることを知らなかった。わたしが日ごろ苦労している妻の実家のある地域の維持作業。もちろんわたしは住人ではないので、その地域がどのように組織を編成するかによって無縁となるが、とはいえ、妻の実家の実際の農業にかかわっている限り、家の代表者としてまったく関わらないとは言えない状況にある。したがって、もしそうした交付金を受けるべく組織ができていれば、何らかのアプローチもあっただろうが、これまでそういうことはまったくなかったわけで、この地域がそうした交付金を受けるべくアプローチをしていないことは承知していた。その通り、ウェブ上に公開されている活動組織のエリア図を見てみると、妻の実家のある村は、ある広域農業水利施設(土地改良区)の受益地には活動組織の色が塗られているのだが、ほかの地域にはそうした活動組織がひとつも存在しないのである。とりわけ山間地域は無色透明といったところ。それは山間だから該当しないのか、といえばそうではない。例えば隣の同じような地形環境にある村は、山間地域まで活動組織が編成されている。同様に上伊那郡に至っては、ほとんどの耕作地が着色されていて、その交付金への積極性が垣間見える。ひとつの指標かもしれないが、わたしが暮らしている地域も比較的活動組織の編成に対して積極性が見られない。ようは畑作地帯での消極性である。これは「共同」という視線で捉えると個人重視の意識が強いと考えられる。とりわけ古い時代に果樹が展開された地域の特徴とも言える。同様のことは下伊那ぢゅうで見られるのかもしれないが、とはいえ、なぜ取り組まないのか、そう思わざるを得ない地域が目立つ。この地域の中心でもある飯田市が、そもそも消極的である。

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中央自動車道初期予定ルート

2017-07-27 23:20:13 | 信州・信濃・長野県

 もう10年以上も前、「夢の弾丸道路」においてわたしはこう記している。

 わたしはこの地図と『阿智村誌』を見ているたけで、他の資料には目を通していないので、あくまで想像ではあるが、こう考えた。実は名古屋東京間の地図を広げて見るとわかるが、八王子から山梨に入った中央自動車道は、大月から河口湖まで富士吉田線が分岐している。この河口湖と中津川を結ぶと、まさしく天竜峡や、木沢を通るルートが想定される。昔から富士吉田線は富士山への観光客のために造られた道路なんだと思っていたが、実はこの精進中津川を結ぶための道路だったのではないだろうか。

 みればそこにも記しているが、てもとにあった地図と『阿智村誌』を見ただけの想像であった。さきごろ中央自動車道のことを探っていると「南アルプスを越えられなかった中央自動車道」というページを見つけた。日経コンストラクションというところで公開しているもので、その2010年12月28日の記事である。冒頭こう綴っている。

 国土交通省の交通政策審議会で、JR東海が計画しているリニア新幹線のルートが南アルプス経由に内定した。あてが外れたのは長野県。1989年以来、迂回(うかい)しても経済効果が見込めるとの理由で、対案の伊那谷ルートを推進してきた。これが覆った。

 逆に、いったん南アルプス経由と決まったものの、後に伊那谷経由へと覆ったのが中央自動車道だ。ルート変更を巡る逆転劇があったのは半世紀前のこと。

 そのうえで歴史を振り返っている。ここに登場してくるのが田中清一(1892-1973年)が1947年に日本政府に提出した計画である。「夢の弾丸道路」にも記した田中プランのことである。南アルプス経由で決まった中央道の建設計画が覆る出来事が、1963年に起きたという。中央道の早期着工・完成を推進するため、関係する自治体の首長などが構成する「中央自動車道建設推進委員会」が1963年5月17日に開催した第6回総会において、長野県出身の国会議員であった委員長の青木一男(1889-1982年)が突如、ルートを北回りに変更する方針を明らかにしたという。周辺自治体の多くが北回りを望んだため、反対者もあったが結局北回りで建設されることに。記事はまだ中央リニアのルートが決定される前のもの。中央自動車道と同様に北回りと直線ルートの間で揺れた上で、記事にもあるように「国家的なプロジェクトでは大局に立った判断」が優先されたのだろう、直線ルートに決定した。「中央自動車道を再び」というわけにはいかなかったわけである。

 「夢の弾丸道路」に記したように、わたしの手元には印刷された財団法人田中研究所の作成した「精進中津川間縦断面図」の「第四案」というものがある。ここには現況地盤と実際の計画ラインとともに、トンネルと橋の位置や長さが示されている。かなり具体的なものを描いたものといえる。これとともに私の手元には国土地理院の図を貼り合わせた上で、手書きでルートを示した図がある。そこにはおおよそ3ルート、そのうちのひとつを少し修正を加えたもの1ルートを加えた4本の線が引かれている。縦断図に4案とあるから、手書きのもののように4ルートが示されていたのかもしれない。「夢の弾丸道路」にも記したように、ルート図の中では縦断図に示されたものは青いラインで引かれていて、とくにトンネルについては位置が示されており、長大トンネルにあたる易老嶽トンネル(8.15キロ)と神坂峠トンネル(7.65キロ)についてルート図に示されたトンネル部分を図測すると、たしかにそれに近い長さがトンネルと表示されている。このルート図は誰が手書きしたものか不明であるが、田中研究所の人なのか、それともわたしがこの図を入手したと記憶する高校のクラブ顧問の先生だったのんはわからない。いずれにしてもとうじ地域で唯一の土木科を有す高校の先生だったこともあって、この世紀の大工事プランに興味を抱いていても不思議ではないし、もしかしたら田中研究所と何らかの関わりがあったのかもしれない。

 さて、4案に示されたルートをおおよそGoogleマップに落としてみた。とりわけ三遠南信自動車道と重なる部分があることに注目である。それと、直線ルートとは言うものの、実際は大きく、そして細かい部分も曲がっているところが、当時の土木技術とリニアを建設しようとしている今の土木技術の違いだろうか。

 

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境界域の煩わしさ

2017-07-20 23:50:48 | 信州・信濃・長野県

 基本的に境界域に生まれ、そしてずっとその界隈で暮らしてきたから、境界域の不自由さのようなものは解っているつもりだ。境界域でなくとも、例えば下伊那の山間地域も、もちろん外周部にあるから境界域のようなものなのかもしれない。そう捉えると中央という位置に暮らす人々は限定的なのかもしれないが…。会社への途上、駐車場近くまでやってくるといつも思うことがある。ラジオがよく入らない。それは会社の車で現場に行く際にもよく感じることだが、どうも伊那市周辺と言うか上伊那エリアというところは飯田近在に比較すると「ラジオが入らない」。自動で検索しても止まらずにずっと探していることもよくある。上伊那そのものが境界域だとは言わないが、郡の中心にあってもラジオがよく入らない場所がよくある。谷の中に入っているから、なんて利理由づけするが、別の地域では谷の中でもちゃんと聞こえるところは聞こえる。とはいえ、まだ伊那市のあたりはよく、とりわけ上伊那でも辰野町あたりに行くとラジオが本当に綺麗に入らない。もちろん善知鳥峠なんていうところは入らないが、辰野の町の中だって入りづらい。まさに境界域と言ってしまえばよれまでだか、これは昔から変わらない。

 いっそ入らなければそれまでのことだが、やはりわたしの行動エリアは、本当に境界域だ。住んでいる場所は下伊那だが、境界域だから飯田エリアの周波数でラジオは入る。同じことはテレビも同様だ。ところが今年のように伊那へ通うとなると、例えばFM長野は飯田の周波数は郡境を超えるともう雑音が入りだす。ということで県内でももっとも広域な周波数帯に変えることになる。それほど長い距離を経ているわけではないがへ、郡境域に暮らしていると周波数による煩わしさは日常のこと。いまどきの車載されているテレビは信号が低下すると自動的に検索してくれるが、とはいえ綺麗に入らないエリアが広い。境界域に暮らす人々の当たり前の煩わしさである。

 もっといえばラジオなんて言うものは、県境域に至るとすっかり入らなくなる。下伊那の県境域なんていうのは、「ここは長野県なのか」と思うほどそういった類のことに関して忘れ去られた地域だ。それも昔からほとんど変化がないところが良い、いいや悪いというところなんだろう。でもわたしの境界域の日常にくらべたら、どうやっても入らないからそもそも煩わしいような行動をとらないんだろう。諦めである。

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権兵衛峠トンネル構想

2017-05-31 23:37:48 | 信州・信濃・長野県

 〝「権兵衛峠トンネル構想」が、ことしに入ってにわかに脚光を浴びて来た〟、そう始まる記事は、昭和55年8月18日付け信濃毎日新聞の特集「道-新たなアングル」である。同特集の30回目は「権兵衛街道」(国道361号)。調査費が300万円ついたものの、記事では「調査だけで四、五年はかかりそう」と記している。取り上げられた権兵衛街道の新たな道(トンネル)は、平成5年に工事が始まり、平成18年に供用開始となった。工事だけで13年、記事に記されたように当初の調査が計上された昭和55年から26年の歳月を積み上げている。総事業費約700億円だったというが、当時の記事では峠直下で700~2000メートルのトンネルを掘る予定でその工事費は100億円程度と記している。実際に供用開始されたトンネルは4467メートルとさらに事業費を上げた。

 それにしても権兵衛街道にトンネルを、という声は報道中心に以前から聞こえていたものの、本当にトンネルを掘るんだと分かったときは伊那谷の多くの人が期待をもって聞いたはず。しかし実現するまでには長い年月を要した。それまでの権兵衛峠は伊那市羽広から山道を延々と登り、木曽へ抜けた。伊那谷から西山を望むと、「とてもあの山を越えて木曽に行くのは困難」そう思うほどに高山が連なる。しかし、伊那市あたりから西山を望むと、西駒ケ岳から下ってきた稜線と経ヶ岳から下ってきた稜線が交わるあたりは、ほかのどの地域から望む稜線よりも親しみがわくほど低く見える。「あそこなら木曽への交易ができそう」、そう思わせる。まさにそんな場所を求めて道を開けたのが「古畑権兵衛」という人だったから「権兵衛峠」と呼ばれるようになった。とはいえ、当時の道は小沢川を登っていって、どん詰まりのようなところから急な道を上る、険しい道だった。近しさを思わせた稜線を見て伝えられた予兆が記録されている(『上伊那郡誌民俗編』)。

権兵衛峠がすくと天気がよくなる(富県・西箕輪・辰野西)。
権兵衛峠がくもると雨になる(富県・西箕輪・辰野西)。
権兵衛峠に夕焼けがすると天気がよくなる(富県)。

 

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牧ケ原橋

2017-05-18 23:45:19 | 信州・信濃・長野県

 昭和56年1月19日信濃毎日新聞朝刊に掲載された「道-新たなアングル」の51回目は「沖田・牧ケ原線」であった。昭和55年1月9日に始まった同特集は毎週日曜日に以後掲載されてきた。「新たなアングル」と副題からは新しい道、あるいはそうでなくとも地域に期待されている道を取り上げて1面(実際は2/3)を利用して特集を組んでいた。そういえばと思い出すのは、かつての信濃毎日新聞は、こうした1面を利用して特徴ある連載を継続することが多かったと記憶する。そしてそんなかつての特集記事を思い出すと、今の紙面にはそうした特集が見られないようにも思う。魅力がなくなった一因かもしれない。

 わたしの過去の記憶はすでに遠ざかっているが、こうした古き記事を取り残したのは、社会人になったころの昭和50年代後半から昭和60年頃までのこと。同じことは残されたフィルムからも本日記ではたびたび資料として利用される。言ってみれば社会に反発して、多感な時代だったからこその残骸だ。しかしながら当時の思いを記録から読み取ることができないのは、今のように一定の文字で綴っていないからだ。そう思うと、今はまだ心に余裕があるということなのかもしれない。

 さて「沖田・牧ケ原線」、3月彼岸に訪れた〝町(大草)の数珠回し〟が行われた場所が「沖田」であって、ここから天竜川対岸の牧ケ原へ渡って、国道153号線まで続く道路を指しているのだと思う。かつて「台地の新興住宅地」で扱った写真の右手奥に写っている橋が、この記事の主役である「牧ケ原橋」である。もちろん深い谷は天竜川。釜淵峡の上を一気に渡る橋で、西側は昭和33年8月に合併するまでは片桐村、東側は南向村だった。これほどの大河を挟んだ地域が合併するからには相応の将来への構想があったただろう。ちなみに天竜川を挟んだ地域がひとつの市町村を編成している市町村は伊那谷にはたくさんある。しかしながらそのほとんどは川西にもともとの中心があり、今もってその中心は川西に存在する。あえて言うなら伊那市が、伊那町から市役所が川東に移転してマチが川東に展開するようになったかもしれないが、まだ川東を「中心」だと意識している人は少ないだろう。それ以外ではもともと中心が川東だった天龍村と中川村のみが川東に合併時に中心を置いていた。天龍村は現在も川東が中心となっており、その地位が逆転していることはないが、中川村については明らかに川東から川西へ中心が「動いた」村と言える。役場に限って川東に今も置かれているが、それ以外のほとんどの公共施設も、そして人口も川西の比重が高くなっている。かつて両岸にあった小中学校も、今は「台地の新興住宅地」で触れた写真の左手「牧ケ原」に統合されている。そのほか文化センターや図書館、歴史民俗資料館など主だった施設はすべてこの牧ケ原に集約されている。それをなし得た要因が、すべてこの「沖田・牧ケ原線」だったのである。まさに信濃毎日新聞のこの特集に取り上げられるべく典型的な新たなアングルの「道」だったといえる。これほど深い谷に挟まれた両村が合併する中で、ふたつを繋ぐまさに架橋だった牧ケ原橋。完成したのは昭和53年だった。わたしがまだ高校生だった時代。当時わたしの同級生には中川村出身者が4人ほどいただろうか。そしてそれぞれの地区にあった中学の出身者がいたのである。当時は人口からみればまだ川東が多かった。記事によるとこの永久橋の架橋の前につり橋を架ける計画があったという。幅2.5メートルの鋼製橋で現在の橋と同じくらいの橋長だったのだろう、かなり具体的なところまで進んでいたというが、村民から「そんな程度の橋では川の東西の村民の一体化に何の役にも立たない」という考えがあって実現しなかったという。その数年後だという、現在の架橋が現実となったのは。記事の中では「東西の懸け橋」という表現もしている。橋による懸け橋なくしては両村の合併はあり得なかっただろうが、実際にこの架橋が実現するまで合併から20年ほど要している。それまではそれぞれの対立が激しかっただろうことは容易に予想される。

 とはいえ、かつてこの村で聞き取りを行ったとき、まだ合併する以前の村に生まれ育った方たちから、この深い谷を下って渡る場所があって、対岸に行った話を聞いた。上流は昭和8年に架けられた「坂戸橋」、下流は昭和35年に架けられた「天の中川橋」(平成21年に架け替えられた)と、それぞれの村を結ぶには離れすぎていた。なおかつ当初の天の中川橋は通行料を要した時もあったという。とりわけ洪水による災害を被ることも珍しくなかったこの地域にあって、天竜川を克服することこそが「ひとつ」なれる優先課題だったとも言える。これほど地域にとって比重の高い橋は、ほかに例を見ない。

 ※牧ケ原橋から見た南駒ヶ岳

 

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〝桜〟2017

2017-04-15 23:47:49 | 信州・信濃・長野県

 

 豊丘村神稲百体庚申の〝桜〟

 

 昨年までこの季節には〝〟、とりわけ一本桜を盛んに取り上げた。ところが仕事上異動があって、今年は伊那通いとなって、〝桜〟を取り上げるところまで至っていない。加えて今年の花期は、ここ数年とだいぶ様子が違う。といっても昔は〝桜〟の咲くころは今時分だったのだろうが…。生家の近くにあった千人塚では、かつては5月の連休に桜祭りが実施されていた。ところが花期が早まって近ごろは4月中に花が咲いてしまう。例えば「雪積もる」を記した2010年にはちょうど今ごろ千人塚では桜が咲いていた。飯田の丘の上でも3月末には咲いていた〝桜〟。そんな桜が今散りごろを迎えている。天竜川端の桜は散り始めといったところ。

 以前にも触れた通り、伊那谷に限らず長野県内では単純に桜が北上するというわけではない。標高差が著しいから、標高に沿って桜は咲き始める。そんなことを考えていると、とりわけ空間が狭い上に、適度な空間を視界に入れられる伊那谷の桜は、長い期間に渡って桜が咲いている光景を目にすることができる。昨年までの飯田通いなら、すでに桜の花を十二分に堪能していたのだろうが、今年のように伊那通いだと〝桜〟の季節感がいまだ到達していない。これが伊那谷の特徴的な〝桜〟模様なのだろう。したがって、例えば飯田あたりから伊那へ通勤している人たちは思っているだろうが、それは〝桜〟の開花イメージだ。上伊那と下伊那ではその季節にずいぶん開きがある。ところが、それは同じ下伊那エリアに暮らしていても感じること。例えば昨年までに触れた一本桜の花期によってそれは解る。近年の傾向の中でも、例えば飯田の街より南に位置する杵原学校の桜は4月15日ころ満開だった。また、阿智村浪合の御所桜や売木村観音堂の桜は4月25日ころ満開だった。ようは南へ下るほど桜の開花が遅いという現象。もちろんこれは標高が関わっている。そして北上するごとに開花するのも事実で、中川村西丸尾の桜や、飯島町西岸寺の桜は4月中ごろ、伊那市六道堤の桜は下旬に入りかけたころだった。

 例えば松本平のように空間が広いと標高差を視覚で認識するには広すぎて、ほぼ同じ標高にある〝桜〟は一斉に咲くのだろう。いっぽう中山間のように視野に入る空間が狭いと、やはり〝桜〟の開花に時間差を抱きにくい。ところが伊那谷という東西1キロ以上の空間が5キロから10キロほどの広葉樹林帯が見渡せる谷では、同じ緯度にあっても桜の開花に差異が生じる。そこへ南北の緯度差を与えると、一層〝桜〟は乱舞するがごとく花期に微妙な差異を見せる。とりわけ伊那谷の空間認識はこれまでにも度々触れてきたように、移動行動を南北にとることが多いことから、山を意識しがちだ。したがってこの空間に暮らす人々は当たり前のように、花期を含めた季節感を体感しているが、実は伊那谷特有の感覚だと、わたしは思っている。

 今年は異動があってなかなか〝桜〟どころではないのだが、そんななかの〝桜〟を、豊丘村神稲の百体庚申に見た。一本桜のメッカである飯田下伊那にあって、特だん知られた桜ではないが、この桜も印象に残る〝桜〟の1本とわたしは思っている。

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「下」か「南」か

2017-04-03 23:00:06 | 信州・信濃・長野県

 今日から伊那への通勤と変わった。4年前まで電車で通っていただけに、今回も自家用車という選択もあったが、以前と同じ電車を利用するつもりだ。それを決定づけさせるために、今朝の伊那行きは試しであった。ようは車で行ってどのくらい時を要すのかという…。まだ学校が始まっていないという通常とは違う状況であっても、そこそこの渋滞を見込んでいたが、以前ならネックとなった交差点を難なくクリアーした。空いている時とさほど変わらない程度の時間で目的地までたどり着いた。決定づけさせるため、と思っていたのに迷いは増幅した。なぜこんなに空いているのだろう、と思うほどの拍子抜けに自分なりに理由をこじつけたが、「本当なの?」と疑問符が浮かばないはずがなかった。同じことは辞令をもらいに向かう長野行きにも見られた。この日も安曇野で高速を降りると、国道19号を北上した。前後に1台ずつ3台の列を成した隊列は、わたしが国道19号から逸れる信州新町まで約30キロ続いた。平均時速60キロ以上、時には70キロ以上を指針するまま、この3台のまま続いたのだからいかにこの日松本から長野へ続く国道19号が空いていたかが解る。普通なら前を走る車に追いついてもおかしくないのに、いっこうにその状況に至らないのだ。予定よりは15分ほど早く目的地についただろうか。「それだけか」と思うかもしれないが、通常も比較的空いている道なだけに、そこから15分ほと短縮するというのは、かなり早いと言える。この日は特別な日なんだ、そう言い聞かせて会社に戻ると電車で通勤する手続きをとった。

 さて、会社に着くと出先で最も若い彼が伊那から見て飯田寄りの地域を「下の方」と表現した。あまり聞いたことのない表現に、わたしはとても興味を抱いた。彼は長野生まれ。おそらく伊那谷には無縁だったと思うがここに赴任して2年。だいぶ慣れてきた彼にとってのこの地域の空間イメージは「上」と「下」、言ってみれば長野県地図の位置情報が優先されているのだろう。そして伊那は「上伊那」、飯田は「下伊那」と地域が括られているのだから当然といえば当然のイメージだ。しかしながらこの空間でほとんど仕事をしてきたわたしにとって、「下の方」と地域を表現する単語を実際に耳にする経験はほとんどこれまでなかった。とりわけ伊那谷のイメージが長野から見れば下の方、そして伊那から見れば南の方角はさらに「下」の方と相成る。「北」と「南」という表現はこれまでにも何度となくしてきたが、若い人たちにはむしろ「上下」という位置情報がひとつの位置を示す基本情報になっているのだと、この単語から教えられた。あまりにわたしがその表現に受けたせいか、彼は「南の方」と言い換えていたが、第一声にあった表現は素直なものに違いない。新鮮味があり、そして、若年層の位置情報のあり方を見直すきっかけになるかもしれない。

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上方と「奥」

2017-03-31 23:49:08 | 信州・信濃・長野県

 少し前のことだが、上伊那エリアを対象にして配布されている無料の週刊で発行される新聞のトップで、飯田エリアで活躍されている方の紹介がされていた。同日に下伊那エリアを対象にして配布されている無料の週刊で発行される新聞も配布されており、わたしの暮らす地域では両紙が新聞に折り込まれてくる。いずれも1面では大きな写真で個人を紹介しているから、その新聞の顔のようなもの。したがって注目度が高いのは言うまでもないだうが、冒頭の新聞のトップを見て「あれっ!」と思ったのは、「これは下伊那エリアの新聞?」かと思わせるような内容だったからだ。その紹介記事を読んで想像したのは、出身が飯島町だったから扱ったのだろうということ。とはいえ一般的にはよそから移り住んで活躍されている方を紹介することはあっても出身者だとしてもよほどの著名人に限られるのがこうした地方紙。そういう意味ではふつうの人で地域おこしをしたいという人を、それも他地域の対象者を扱うのは珍しい、そう思った。

 編集者がどういう思いをそこに込めたかは解らないが、あえて上伊那エリアを対象にした新聞に、下伊那エリアで活動される方を取り上げたことに、違和感というよりも広域感を抱いた。例えば地方が中央の事案を扱うことは当たり前なように。ところが中央からみれば地方の案件は特殊例に限られる。そういう意味では下が上を見渡す視線と、上が下を見渡す視線は異なる。あえてこじつける必要もないのだが、常日ごろ上伊那エリアと下伊那エリアの中間帯に暮らしていると、このように両地域の情報を目にすることは多い。あくまでも印象ではあるが、この事例の逆はよほどのことがないとありえないと考えている。ようは下伊那エリアで上伊那エリアを扱うような事案である。これを上と下という視線で捉えれば地域名こそ「下」伊那ではあるが、上方に近い下伊那は「上」ではないか、と。以前〝「奥」というところ〟を綴った。今でこそ「下」伊那と命名された上に、県庁所在地から遠いこともあって被害妄想的に行政の手薄さを口にする下伊那であるが、歴史的には自らの地域を「口」と意識していた風は、十二分に見られた。例えばかつては高校といえば伊那北よりは高松(飯田)が上という意識があった。もちろん過去に葬られてしまったような意識かもしれないが、依然として過去の意識はどこかに流れている。〝「奥」というところ〟に触れた意識も今は逆ではないかと思う人も少なくないかもしれないが、底流には残存している意識だとわたしは思っている。冠は「下」ではあるものの、上方に近い地域であることは今も変わらない。そしておそらくリニアが開ける(明ける)事実を心待ちにしている底流にも、過去の意識が湧き上がるようなものがあっても不思議ではないのである。もちろんそういう意識は限られた人々の中にあるもので、同じ下伊那エリアにあっても口元と奥があるから、周辺部の人たちにそうした意識はほとんどないだろうが…。これもまた以前にも触れたことだが、下伊那、とりわけ飯田人が口にするほど長野(北)が恵まれていたとは思わないし、視線としては飯田人よりもそれ以外の地域の人たちの飯田を見る目は柔軟性に長けていると思う。

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降らなくなったカミユキ

2017-03-25 23:42:42 | 信州・信濃・長野県

 近年、雪が少なくなったのは言うまでもないが、春先になると以前はカミユキという雪が降ったものだった。ところがどうだろう近年この雪をほとんどみない。とりわけ2月下旬あたりから3月にかけてこのカミユキという単語をよく耳にしたわけだが、この時期は低気圧の通過する位置によって春先特有の気圧配置になった。温暖化のせいかは解らないが、かつてのそうした気圧配置の際に、今はほぼ「雨」となる。先日長野へ向かった際、塩尻市あたりに積雪をみた。長野までの間で積雪のあったのはここだけ。最近寒さがぶり返して、加えて長野県中南部でも「雪」という予報が出るものの、その範囲はかなり限定的。かつてのように中南部全域でこの季節に積雪を見ることはない。けして多くはない長野県の冬の積雪にあって、このカミユキが降ると、南部でも意外な積雪を見ることも少なくなかったのだか、近年はまずない。そういうこともあって、今年もそうだが、3月に入ってスタッドレスタイヤが必要だったと実感したことは皆無。もちろん南部の山間地ではそれでもときおり積雪があって、そうした地域に行く際には必要だが、ふつうに暮らしているぶんには、スタッドレスタイヤが必要だと思うのはせいぜい2ヶ月くらいになってしまっただろうか。とはいえ安全第一だからおおかたのひとたちは12月から3月いっぱいくらいはこれを着用しているから、ちょっとした無駄遣い感覚でもある。今年もわたしは所有している車のうち1台は夏タイヤのままで過ごした。「今日は無理だ」と思い違う車に乗ったことも何度かあったが、不自由はなかった。過ごしやすい冬の時代を迎えているともいえるのだろうか。

 今春は社内で退職者があったりして、異動があってちょっとバタバタしている。この3月末日の宿題があって、いろいろの方から多々データが送られてくるのだが、「これを終わらせたら」と思っているうちに日が過ぎてしまっている。そこに加えて会社の出先が引越しする。わずかな引越しなのだが、とはいえ少しでも難題が多い。これまで人の入れ替えが少なかったこともあって、年度末になっても古いものを処理してこなかったつけが、この引越しにしわ寄せしてしまい、引越しとはいっても簡単ではない。とりわけ書類を作成する業務が中心のため、会社的には書類が多い。これを何年分も処理して一定期間を経たものは、別の場所に移動したり、あるいは廃棄したり、と異動の最中に慌てふためいている。この土日に開催されている第39回日本映像民俗学の会 松本大会に参加する予定であったが、諦めたしだい。加えて例年この季節には裏山の下草刈がピークを迎える。ツツジが咲く前にと慌ててやっているが、やらなければならないことだらけで疲労も積み重なっている今日この頃。

 

庭のサンシュユがいつも通り咲き始めるが、写真は20日に撮影したものの、その後比較的寒い日が続いて、今もって咲き具合はこの時とそう変わっていない。

 

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『伊那路』に思う

2017-03-11 23:54:14 | 信州・信濃・長野県

 「地域誌のこれから」で上伊那郷土研究会が会員にアンケート調査を行っていることについて触れた。同会は『伊那路』を創刊して60周年を迎えた。会員減少はどこの郷土史誌でも抱えていることで致し方ないが、その中でどう継続し、そしてこれまでの蓄積を維持し後世に残すかが求められる。創刊60周年を機会に会員の声を聞こうとしたのも、アプローチのひとつなのだろう。アンケートの結果は2月号に掲載された。1月号から2月号にかけて「創刊60周年記念特集」を掲載しており、その中で報告されている。発行されるたびに逐一全てに目を通していないため、どこかに記載されていたのかわからないが、わたしが見た限りでは現在の会員数については触れられていない。できれば1月号巻頭に掲載された「年表『伊那路』600号~のあゆみ」の中に会員数も掲載してほしかった。

 さて、アンケート結果であるが、回答数は61名だったという。おそらく会員数からみればその数はかなり少ないと思うのだが、とりわけ回答者の年齢構成が掲載されていて、40歳代以下が2名という少なさには不安を抱く。例えば長野県民俗の会において同じようなアンケートをしたならば、40歳代以下2名ということにはならないだろう。なぜならば、そもそも10名の役員のうち40歳代以下が半数を占める。これがかつては役員50歳定年としていたから、高齢化していることに違いはないものの、役員が回答したとすればこの段階ですでに上伊那郷土研究会の年齢層とはかなり違うことがわかる。そもそも今回のアンケート回答者60歳代以下でも14名しかいなかったという。回答数61に対して2割少しという値(無回答が4名)に過ぎない。とはいえ、購読歴をみると10年以下の方が半数近くあり、年齢層はともかくとして、長年購読してきた方ばかりではなく、短い方が回答されている点については希望が持てるところだろうか。ようは内容しだいでは、新たな購読者を募れるということだ。そして「今後行ってほしい企画」や「『伊那路』に望むもの」という問いに対してさまざまな期待が読み取れるのもアンケートを行った成果ではないだろうか。

 ところで4月から連載の記事を依頼された。1ページのみという紙幅の中で掲載するのは、意外にしんどいことを第1回目の記事を何にしようかと考えながら感じた。それと対象とするのは上伊那エリアでということだった。ということで上伊那でのこれまでの自分のフィールドワークを紐解くと、意外に少ない。ようはネタがあまりないのだ。よって今後は上伊那エリアを意識してしばらくは行動しなけれはならないと考えている。読者をいしきされてのことなのだろうが、わたしの印象ではかつては『伊那』『伊那路』ともにそれほど郡を意識せず、「伊那」というエリアを対象にされていたように記憶するのだが、最近は郡域意識が高いよう。それを証明するのが、かつてわたしが記した「伊那谷の南と北」である。このことはかつて「郷土意識・中編」の中で触れたが、両者の重複会員は思った以上に少ない。とりわけ中川村は上伊那郡でありながら、当時の調査では『伊那』の読者の方が多かった。加えて、上伊那エリアには『伊那路』ではなく『伊那』の読者がどこの市町村にも少なからず存在していた。そしてこの逆はほとんどなかった。もちろん『伊那』の発行部数が多いことは昔から知られていることだが、現状からみれば地域内を中心に扱って読者に還元するという意識は当然のことなのかもしれない。

 最後に2月号に現会長である清水満さんが「おわりに」に記した言葉を紹介しておく。

 『伊那路』は60年間にわたって地域文化の継承・発展に貢献し続け、この間刊行された上伊那各市町村誌(史)編纂の際に貴重な資料提供の一助にもなり、郷土史の百科辞典的な役割を果たしてきた。しかし近年、地方史研究会の衰退が問題視されている。また活字離れという言葉が定着している。本会も会員の高齢化による退会者の増加と、その割に若い年代層の加入が少ないことで、購読者の減少という厳しい状況下にある。
 しかし、長年続いてきた役割をさらに高めるため、内容の充実を図り、この伝統を大切にしていきたい。

 

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防風林のこと(後編)

2017-02-17 23:13:34 | 信州・信濃・長野県

防風林のこと(前編)より

拡大図

 

 実は「家形の防風林」で触れた防風林の今をのぞいてみると、かつてのような形が崩れてしまっている。もともとは家の形に合わせて生け垣を整形していたのだが、家を立て直したようで、その後は防風林としての活用をもとめなくなったのか、それとも管理が大変になってしまったのか、今や伸び放題の生け垣の光景がグーグールマップからはうかがえる。そもそも一般的な生け垣程度であれば管理も容易だろうが、防風林として管理していたものは、かなり高木となっているから、その管理にも手がかかる。建物を覆い隠すほどの生け垣ともなれば、高さで5メートルくらいになっても当たり前。その生け垣を毎年剪定していくとなると、簡単ではない。そしてかつての「家形の防風林」は、しっかり管理されていた。だからこそ道を通ったわたしにも、わざわざ車を止めて写真を撮らせるほど印象深い形を見せていたわけだ。

 さて、今回の図は「家形の防風林」から北へ行った上伊那郡飯島町七久保の北村という集落を同じように調べたもの。前回同様に平成9年に調べたものだから、すでに20年経過している。北村には果樹園はほとんどなく、水田地帯である。昭和50年代を中心にほ場整備が行われ、整形した水田が並ぶ。中央自動車道より西側は家々が比較的に密集しているが、東側は水田地帯に家々が点在する散居にあたる。家によっては町道から100メートル近い宅地への進入路を所有している家もある。このエリアでも多くの家がやや東に傾向した南東向きに家を配置している。果樹園がほとんどないということは、消毒除けの防風林はないといってよい。したがって南向きにある生け垣は防風という意図よりも、いわゆる生け垣程度のものとなる。むしろ北側に配置されている生け垣に防風林としての役目を担うものがうかがえるが、現在ではそれほざ高木化した生け垣はそれほど見かけない。むしろ前回の大沢と異なるのは竹である。竹藪というほどでなくとも、竹が屋敷内に植えられている家がいくつか見られ、とりわけ中央自動車道から東側に多い。そしてそのすべてが母屋から見ると北側に配置されている。というかこのエリアにある屋敷内の竹のすべてが北側に配置されているといってよい。当時はあった屋敷内の竹も、現在はだいぶ姿をけしているようだ。

 前回の大沢地域と大きく異なるものにもうひとつ、土蔵の存在がある。図からもわかるように、土蔵がとても多い。かなりの確率でどこの家にも土蔵が存在する。土蔵と納屋といった建物を北側に配置することで防風林の代わりをしているとも言える。それでも北側に生け垣が配置されるのは、明らかに防風を意図したもの。このエリアと大沢とは生業が異なるとことから景観に大きな違いが出ると言える。大沢とは直線距離にして4キロの位置にある。それほど遠いというわけではない。そして、木曽山脈麓のほぼ同じ標高にある。にもかかわらずこの位置関係で景観はもちろん、人びとの住空間にも違いが発生する。長野県とはそういうところなのである。

 

 

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防風林のこと(前編)

2017-02-16 23:07:08 | 信州・信濃・長野県

拡大図

 

 図は今から20年前、平成9年にある会で発表する際に作成したもの。まとめたものを発表する予定だったが、御蔵入りした図である。

 実は我が家から北を望むと、隣家を覆うように防風林が母屋を隠している。北を望んで防風林があるということは、南風を防ぐように防風林が作られたということになる。これに違和感を覚えたのは、生家ではまったく反対側に防風林があったからだ。その名のとおり風を防ぐ意味で作られる。生け垣を伸ばして防風林とするわけだが、北側の生け垣は日当たりが悪いために、防風林にまで仕立てるには時間と養生が必要だ。我が家でも北側に防風林というわけではないが生垣を植えたが、家に接近していることもあってなかなか伸びず、20年も経つというのになかなか大きくならない。日当たりだけではないのだろう、その伸びの悪さは。防風林については「家形の防風林」というものを10年前に記している。この事例も南側に防風林を配置していて、その際にも記したが、これでは日当たりが悪くてしょうがないのでは、と思ったものだ。それだけ南風が強いのかもしれないが、何と言っても日当たりの悪い家の方がいろいろ支障があるはず。もしかしたら正確には南側ではなく西南の防風林、ようは西日を遮るためのものだったのかもしれない。

 図は下伊那郡松川町上片桐大沢南部、大沢北部自治会エリアを対象にしたものだった。ここに土地利用がわかるようにしないといけなかったのかもしれないが、この地域は図の上部、いわゆる大沢北部側は水田がそこそこあって、下部の大沢南部側は果樹がほとんどである。このエリアで気がつくのは土蔵を持つ家が少ないということ。その理由は古い家が少ないということからくるのだろう。開拓されたのが遅かった地域と言える。すでに20年も経過しているため、現在とは宅地内の配置が異なっている家もあるだろうし、無住の家もある程度あるだろう。一般的に母屋以外の付属の建物は日当たりの関係から北側あるいは西側に配置するもので、この地域もその傾向は図を見るとわかる。とはいえ、付属の建物もかなり少ない地域といえる。そして母屋の向きは南北に長い家が多いように、南東を意識して構えている。これらも日当たりを重視したものということになるだろう。このエリアには古い時代の本棟造りの家は皆無で、昭和50年前後に一時的に本棟造り風の建築が流行ったのか、その時代に新築された本棟造り系の家がよく見られる。

 特徴的なのは生け垣である。生け垣というとそれほど背丈の高いものという印象を受けるので防風林といった方が正しいかも知れない。図に示した生け垣がすべて防風林というわけではないが、明らかに棟より高く伸ばした生け垣が存在し、とりわけ注目されるのは図の左下あたりの道沿いに連続している生け垣である。道を挟んだ南側は果樹園地帯となっていることから、防風林と言えなくもないが、実際は消毒除けの生け垣である。あえて南側に高く伸ばした生け垣を配置するのは、明らかに消毒を防護するために作られたものと言える。前述したように、この地域は果樹に特化した地域とまでは言えないため、図に明快な消毒除けの生け垣を目の当たりにすることはできないが、果樹園地帯特有の防風林を垣間見ることができる。

 もうひとつこの図で見ておかなくてはならないのは、竹やぶの存在である。ようは竹やぶがほとんどないということ。竹は値が伸びていく厄介なものだけに、むやみに植えることはないが、筍という副産物を得るために伊那谷南部では少なくない植生である。そしてそれらを屋敷に隣接して生やしている光景も少なくないのだが、このエリアにはそれがとても少ないのである。

続く

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仙丈ヶ岳

2017-02-02 23:17:38 | 信州・信濃・長野県

記憶に残る山なみ」参照

 

駒ヶ根市赤穂より

 

 飯田市川路の国道を走っていてなんとなく思ったのは、「ここは仙丈ヶ岳ぐらいかなー」というもの。ようはそこから望んで印象強い山のこと。川路は飯田の街より南にあたり近くには天竜峡もあるという位置。したがって伊那谷の空間も狭まってくるのだが、それでも比較的空間的には空の広い場所。それでも西側には里山があって、その向こう側の中央アルプスの山々は望めない。また、天竜川東岸には伊那山地の山々があって、その向こう側の白く輝く南アルプスの山々はせいぜい頭だけ見せる程度。明らかに○○山と誰でも認識できるような、いってみれば象徴的な山はせいぜい仙丈ヶ岳くらいなのだ。仙丈ヶ岳というと、伊那市内から山容が大きく望める山で、伊那市の人々にとっては象徴的な山ではないだろうか。この季節は夕方になると真っ白い山容が赤く染まることで印象的だ。前山が山容を隠すことがないため、山全体の姿が望める。実は同じように前山にそれほど邪魔されずに望めるのが飯田市あたりから望む仙丈ヶ岳だ。その中間地帯は前山として伊那山地の山々が接近していて望めないことはないものの、前山が隠したりする。我が家のあたりでもはっきり仙丈ヶ岳は望めるが、飯田市で望む仙丈ヶ岳ほど印象深くない。

 長野県人は山を象徴的に捉える傾向があることは、「描かれた図から見えるもの」で何度となく触れている。しかしながら、実際のところ、たとえば飯田市川路にみる「山」とはどんな印象かといえば、確かに仙丈ヶ岳は印象強い山かもしれないが、かなり遠くに見えていることもあって、象徴性を仙丈ヶ岳に抱いている人はほとんどいないだう。飯田市内から望んでも、やはり仙丈ヶ岳は印象に強い山ではあるが、身近な山としての風越山は街の西側に聳えていて親近感が強いだろう。そしてここからは中央アルプスの高峰は見えにくい。やはり振り返って望める南アルプスが風越山に次いで印象強いだろうが、山容がはっきり望める仙丈ヶ岳よりはもう少し近い位置にある塩見岳や荒川岳といった山々に心は行っているのではないだろうか。とはいえ、伊那市からも飯田市からもその山容がはっきりと捉えられる仙丈ヶ岳は、伊那谷のかなり広いエリアから捉えられる、伊那谷にとっての代表的な山と言える。が、もちろん仙丈ヶ岳の名を口にする人はその割合に少ないかもしれない。

 何より段丘が典型的な地形だけに、起伏が激しいから平らな空間と違って、どこからでも望めるという山は長野県内では珍しいのだ。「東山スカイタワーから見える山」というページがある。「東山」はいわゆる名古屋市東山のこと。ここに望むことのできる山々が写真で紹介されているが、「中央アルプス」の写真には、みごとに同アルプスの代表的な山々が並んでいる。左手に木曽駒ケ岳があって右手に南駒ヶ岳があるという、いってみればわたしがふだん見ている山々とは鏡になる。それでいて遠い位置から見ているから全ての峰が望める。もちろん見た感じでどの山が高く、どの山が低いか解る。ようは意外にも地元で見ているよりたくさんの山々が望めるというわけだ。段丘崖の下、ようは谷の中に生まれ育ったわたしには、望める山は限定的だった。南アルプスはその前山が接近していたから望めないし、中央アルプスも直近の山々しか望めなかった。とはいえその直近の山々が印象深い山容だったから、わたしの中では象徴的存在だったことも以前に触れた。と思って検索してみると、実は生家から望んだ山の姿は日記になかったが、「馬ひき権兵衛」で触れた山々がそれにあたる。我が家からは宝剣岳は見えなかったが、少し南寄りの段丘崖に移動すると望めた。伊那谷に住んでいると、その位置によってまったく山の姿も、見える山も異なる。だからこそ仙丈ヶ岳は特異な存在かもしれない。

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防護柵のご利益

2017-01-26 23:34:26 | 信州・信濃・長野県

 かつて「鳥居のご利益」を記した。不法投棄禁止のための鳥居というわけだが、このごろは鳥居もあちこちにあってさぞご利益も落ちたかもしれない。とりわけ「不法投棄禁止」看板が並んでいるようなところは「なるほど」と思うような場所。人通りの少ない山の中なら不法投棄もしやすいというわけだ。山の中なら投棄しても、あるいはわざとらしい投棄ではなくても車の窓からちょっとしたものを放り投げるくらいなら「問題なし」と今もって考えている人もいることだろう。ところが「えっ、こんなところに」と思うようなところに人通りがあることがないとはいえない。

 国道153号を阿智村から旧浪合村に向かって上っていくと、いよいよ寒原トンネルという直前に登坂車線があって、その車線が収束するところから60メートルほどの間、左手の谷側にネットフェンスが設置されている。2メートルほどの高さのフェンスだが、この界隈でガードレールの外側にネットフェンスが設置されているところは他にない。これは明らかに投棄しないための防護柵というわけだ。国道だから車を停車させて投棄するような人はいないだろう。明らかに車から投棄しようとする人を妨げるためにある。とはいえ2メートルほどの柵髙たからその上に向かって投げれば投棄できないわけではないが。

 実はこの直下は10メートル余の高さがある擁壁工になっていて、その下に旧道があって、さらに一軒屋がある。ようは人家があるから場合によっては危険を伴うというわけだ。昨年のこと、この一軒屋の方と立ち話をした際、以前は除雪車がこの擁壁の上から除雪した雪を下に突き落としていたという。もちろん今はネットフェンスがあるからここから突き落とすことはしないだろうが、このあたりは寒原峠に近いこともあって、雪が多い。ここ数日はマイナス10゜以上の最低気温を継続するほど、県南でありながら雪国、そして寒冷地だ。おそらくこのフェンス下に家があるとは、知っている人以外「えっ、こんなところに」というはず。

 谷側のガードレールの外側にネットフェンスが設置してある事例は、そう多くはないが少なくもない。県道1号飯田富山佐久間線は、愛知県でも静岡県でも、もちろん長野県でも1号線である。昭和48年4月に3県で路線番号を「1」に統一したんだという。飯田市の千栄の同線沿いに千栄小学校がある。学校は山手側にあるのだが、この反対側の谷側に同じようにネットフェンスが設置してある。実はこの下に先ほどと同様に擁壁工があって、その下に学校のグランドがあるのだ。学校からグランドまでは地下道で結ばれていて、子どもたちが車道を横切らなくても良いようになっている。これもまた通行車両からの直接の投棄を防ごうとした防護柵なのである。きっと長野県内には、同様に「なぜこんなところに」と思うようなところに防護柵が設置されている光景が多いはず。今もって車から物を投げ捨てる人がいるんだという嘆かわしい話である。とりわけ山の中の「谷側」とは、陰の空間、投げてしまえば人目には触れない、そう思われている空間なのだ。

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