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夢農園・赤とんぼが舞い山は少しずつ色づき自然は移ろいでいます。

2020-10-30 09:08:50 | 日記

夢農園(野菜作り)

瓜は、農業屋で他の苗と一緒に買ってきて、同じ場所に支柱2mの高さに立てキュウリの横にニガウリ2本とキュウリ2本と瓜1本うえました。キュウリは雨が多かったのでうどん粉病にかかって枯れていきましたが、瓜とニガウリは小さい実をつけています。瓜は何日も農園に行かない内に蔓が伸びリンゴの木まで伸びて通路の上で実をつけ頭に当たるほど大きくなってきて通るたびに当たります。大きくなった瓜を収穫して持ち帰り家だけで食べるのは大きすぎるので(⒈キロ)有ります近所の人と分け合って食べました。料理もみそ汁に入れたり煮物にしたり酢の物にしたり色々な考えて作りましたが、今、又うりが大きくなってきて収穫の時期になってきています。大きいので持ち帰って食べるのをためらっています。歯ごたえが良くて色々な料理に使えるのですが、また近所の人と分け合います。本当に大きすぎます。

渋柿

今年は、渋柿は、なりは余り良く無かったのですが、2本の木に100個以上はなりました赤くなってきたから収穫して持ち帰り、干し柿にするために皮をむいてほしています。行くたびに50個位持ち帰り皮をむいてはベランダに干していたら100個以上干しています。干している順番に色が変わっていき今では、日が立って干し柿になったのは食べられます。甘くておいしいです あまり固くならない内に食べて行っています。お料理にも使っていきます。

恐山(おそれざん)、おそれやま)

恐山は、下北半島(青森県)の中央部に位置する活火山です。カルデラ湖である宇曽利山湖の湖畔には、日本三大霊場の一つである恐山菩提寺が存在します。霊場内に温泉が湧き、共同浴場としても利用されています。恐山を中心にした地域は下北半島国定公園に指定されています。本記事では、恐山と同霊場について詳述する。なお、恐山山地は下北半島の北部を占める山地を指すので、本記事で詳述するいわいる霊場恐山とは区別される。

恐山は、カルデラ湖である宇曽利山湖(うそりさんこ)を囲む外輪山と、円錐形の火山との総称です。最高峰は標高は878mの釜臥山。外輪山は釜臥山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山、剣の山、地蔵さん、鶏頭山の八峰。恐山という名称の単独峰は有りません。古くは宇曾利山「うそりやま」とよばれましたが、転化して恐山「おそれやま・おそれざん」とよばれるようになりました。「うそり」とはアイヌ語の「ウショロ(くぼみ)」に由来します。

火山としての恐山

恐山には史料に残された噴火は記録はなく、地質調査の結果からも、最後の噴火は一万年以上前とみられています。しかし、カルデラ内の一部には水蒸気や火山性ガスの噴出が盛んで、気象庁が2007年12月1日より開始しました。「噴火災害軽減のための噴火警報及び噴火予報」の対象になっている。ただし、噴火警戒レベルを導入した43火山には含まれていない(2019年5月7日現在)。

開山

伝承によれば。開山は862年(定観4年)、開祖は天台宗を開いた最澄の弟子である円仁(慈覚大師)とされている同年に編纂されたとされている『奥州南部宇曽利山釜臥山菩提寺地蔵大士略縁起」によれば、円仁が唐に留学中、「汝、国に帰り、東方行程30余日の所に至れば霊山あり、地蔵太志大士一体を刻しその地に仏道を広めよ」という夢告をうけた。円仁はすぐに帰国し、夢で告げられた霊山を探し歩いた。苦労の末、恐山にたどり着いたといわれている。その中に地獄を表すものが108つあり、全て夢と符合するので、円仁は6尺3寸の地蔵大史(地蔵菩薩)を彫り、本尊として安置したとされています。

北海道の帰りに恐山に行く

北海道の帰りに恐山に行く計画をしていて行くことにしていました。その日は暑くて風も強く吹いていました、入り口でお金を払って入っていきました、入ったらずーっと本堂までの通路があり山に行くまで歩いていくと恐山の地獄付近には火山性ガス(亜硫酸ガス)が充満していて、特有の臭いが鼻につき恐山を参拝するときには中毒症状も起きる場合もあるそうですが、山をお参りしながら歩いて回りました、本堂の前に温泉があり女風呂と男風呂が別々に左と右に分かれて有りました。お風呂は、入っている人も見ましたが入らないで帰ってきました。恐山も見れてよかったです。

平等院

平等院(びょうどういん)は、日本の近畿地方の、京都市宇治市宇治蓮華に所在する、藤原氏ゆかりの仏教寺院。山号は朝日山。開基は藤原頼道、開山は明尊。本尊は阿弥蛇如来坐像。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単位寺院となっていて、最勝院(本山修験宗聖護院末寺)と浄土院(浄土宗寺院)が年交代制で共同管理している。鳳凰堂(国宝)で世界に広くしられている。平安時代後期にあたる11世紀以来保持されてきた数々の建造物を中心とする寺宝と文化財は、往時の思想・文化を今に伝える。平等院と周辺地域は琵琶湖国定公園指定区域の一つである「宇治川沿岸地区」の中核をなす。1994年(平成6年)に登録されたユネスコ世界遺産「古都京都の文化財」の構成物件の一つでもあります。 

歴史   平等院創建

京都南部の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれている左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の係である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものです。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼道は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野路風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような阿弥蛇堂(現・鳳凰堂)が建立された。

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