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三月三日はひな祭り 手作りお雛様を飾り 女の子の節句を祝う・夢農園

2019-03-03 09:21:28 | 日記

夢農園(野菜つくり)

白浜三段壁

熊野では、室町時代から江戸時代にかけすばらしい大型の軍船が活躍していた。「あたけぶね」または「あたぎぶね」と呼ばれた安宅船です。大きいものは二千石、小さいものでも五百石積みで、五十丁から百六十丁の艪(ろ)を備えた。二千石船になると鉄砲玉を防ぐため、船の前後左右を厚い木の坂のタテで囲み、タテの一枚一枚に蝶つがいをつけて自由に開閉できるようにしていました。戦いではこのタテを開いて一斉に鉄砲や矢を放って攻撃しましたが、艪を漕ぐ水夫百人以上、戦闘用の武士百人以上が乗り組み、大将が指揮する差し詰め旗艦だった。その軍船のふるさとが古くから西牟婁郡白浜町阿宅と言われていた。南北朝時代の中頃、ここに本拠を置いた安宅一族は阿波、淡路、紀州にまたがる紀伊水道抑え、熊野水軍の一時代を作り上げたと言われています。

湯崎半島

湯崎半島ではでは、湯崎背斜と呼ばれる地質講造が形成されています。このため三段壁では地層が紀伊水道に向かってゆるく傾斜しています。湯崎半島では、田辺層群の地層を断ち切るように多くの断層が発達しています。この断層に沿って浸食がすすみ、見事な断崖や海食洞がつくられています。

水軍と能島流 (日本の水軍)

四面を海に囲まれたわが国は、遠く古代国家の確立以前から、海のにおいを伴った文明を形成していた。むしろ、海を越えた大陸文明の強い影響をもとに育成されたのです。大和朝廷の統一以前、九州地域の部族の倭国王は後漢に遺便しており、その後の卑弥呼も魂に遺便して、もっぱら大陸文明の吸収に努力している。これらのエネルギーを集結して成立した大和朝廷の勢力範囲は海を渡って百済に及んでいた。しかし白村江の戦いに敗れたわが国はこれ以前大化の改新を断行し(645年)中央集権国家敏て基礎を固めていた内政の発展に力を注ぎ、大宝律令の完成(701年)を見ることに及んで古代律令国家としての形成を成し遂げるわけです。これ以前、大和朝廷は階に使いを出し、その後も引き続いて9世紀の末期まで遺唐便姉を出した。その間、律令体制の矛盾から地方政治は乱れ、瀬戸内海を中心に海賊が横行した。この中央集権の弱体化が平将軍、藤原純友の乱を引き起こす結果となるが、中央集権による遺唐使船の衰微に半比例して民間による日宋(宋は現在の河南省)貿易が盛んになっていった。この貿易は当然のことながら国家権力の背景を持たず、ここに倭寇発生の素地が出来たものと考えられる。

三段壁展望台

展望台に行くのは、何年か前に行ったことが有りましたがわすれていました。今日の天候は素晴らしく晴天で地平線まですみきってみえました。エレベーターで中に入ると地質講造が良くわかり順番に並んで見て回りました。紀伊水道に向かって傾斜していて水の圧力も凄く大きな音がしていました。通路側には、船やオールが展示されていて相当古いものだということもわかりました。雄大な太平洋を一望できる展望台、迫力のある景色が堪能できました。昔、熊野水軍が船の隠し場所として利用していたとされています・三段壁洞窟迫力のある波しぶきは、迫力があって見ごたえがありました。

 

 

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