能率技師のメモ帳 中小企業診断士&社会保険労務士のワクワク広島ライフ

マネジメント理論を世のため人のために役立てるために・・・経済産業大臣登録中小企業診断士・特定社会保険労務士の備忘録

日産本社ショールームに行ってきました TOYOTAより演出上手かも?横浜みなとみらい

2013年05月29日 | マーケティング

横浜の日産ショールームを訪れました。

みなとみらいに立つ日産本社。

その一階にショールームがあります。

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右側が日産本社です。


展示のテーマは、EVと軽自動車。

シンボリックな展示は、なかなかのセンスを感じさせます。

また、ショールームを飾る女性たちもみんな美人で、訪れる人たちに明るい笑顔で対応していただきます。

なかなか好感が持てます。


そういえば、初めて買ったクルマが、白の日産ラングレー。

ミニスカイラインというポジショニングのクーペ。

運転しやすい車でした。

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そして、今。

新発売のニッサンのデイズ・・・そしてEVリーフ。 

わたしが気に入ったのがフェアレディZのカブリオレ。

なんと500万円を少し超える価格です。

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Zカブリオレのコックピットです。

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マルチスクリーン・・・。

なかなかの演出です。

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未来のくるま社会の演出も・・・。

業界トップのトヨタへチャレンジするニッサン・・・。

これからのマーケティング戦略が、どうなるか・・・楽しみです。


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五島美術館 鉄道王の残した日本美術の殿堂 東急電鉄グループの聖地・東京上野毛

2013年05月28日 | 美術館・アート

上野毛と言えば、五島美術館

安藤忠雄さんが設計した東急上野毛(かみのげ)駅から徒歩5分の閑静な住宅街の中にあります。

お隣は、東急電鉄を築いた五島家のお屋敷、ちょうど多摩美術大学の裏手にあります。

渋谷、田園調布、自由が丘、最近だと二子玉川、武蔵小杉・・・東急グループの快進撃は留まるところを知りません。


敏腕で強引なビジネス手腕に「強盗慶太」と揶揄されたりしたとのことです。

小中学校の先生をしながら苦学の末に東大を卒業し、官僚となり、その後、鉄道事業を起こした実業家。

西の小林一三(阪急電鉄)、東の五島慶太と言われているそうです。

西武鉄道のファウンダー堤さんは「ピストル堤」と言われているとのこと。

明治、大正、昭和を通じ、東京西部の開発を行ったスゴい人物です。


東急グループは「田園都市」開発を目指し、西武グループは「学園都市」創出を志向しました。


五島慶太さんが、こよなく愛したのが上野毛の地。

多摩川から続く丘陵の上に広がる緑あふれる土地。

その傾斜地に日本庭園を造り、その中に屋敷と美術館を建設しました。

さらに、日本美術を中心にコレクションを蒐集・・・。

横山大観の富士山の絵画、源氏物語の絵巻物、茶碗や陶器・・・さまざまなコレクションには驚きます。

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記念文庫は、一般に公開されていないとのことです。

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裏門も、今月整備されました。

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美術館の裏手には、広大な日本庭園が広がります。

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五島美術館の日本庭園の向こうは、二子玉川の街が広がります。

さらに、五島美術館庭園の横には、東急大井町線が走っており、五島家と鉄道の切っても切れない関係を見ることができます。

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美術館の中央から・・・シンプルながら美しい庭園です。

東急電鉄グループの聖地・・・東京・上野毛です。


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産能短大卒業の女性・・・優秀な大和撫子・・・ビジネス実務に強い気が利くビジネスパースンでした

2013年05月27日 | 受験・学校

今日、産能短大を卒業した女性と話す機会がありました。

正式名称は、自由が丘産能短期大学。

日本最初の経営コンサルタント上野陽一氏(1883年~1957年)が、1942年に創設した日本能率学校が前身。

日本で唯一の能率科がある短期大学です。

1950年に日本最初の短期大学となり、設置されたのは夜間部。

その多くは働きながら学ぶ社会人でした。

キリスト教の大学であれば聖書の授業や祈りの時間があるように、産能短大では半年間にわたり、「能率」の授業があるそうです。

しかも学長からの直接の授業があるようで、能率=マネジメントの素養も十分。

あとは、現場で仕事に関われば、即戦力に近いカタチになると思います。

就職戦線の厳しい現在でも高い就職率なのも頷けます。

企業の採用担当もよく見ていると思います。


しかも、巷に存在する女性にありがちな、チャラさもなく、真面目で実直。

夜遊びや過度のブランド依存もないとのこと・・・参りました。

今時、いたんです・・・ニッポンにも大和撫子が・・・。

きっといいワーキングマザーになることと思います。

オヤジ風を吹かせて、「結婚しても子供が産まれても、育休をとって定年まで働いてよ」、「今からは女性の時代・・・管理職、経営層を目指して仕事をしてね」などなど、セクハラにならないよう親父話をしてしまいました(笑)。

事実、ニッポンのビジネス界を変革していくのは、女性以外にはないのですから。

男社会で来たニッポン・・・何となく元気のない日本の産業界を復活させるのは、こうした女性たちだと思った次第です。


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湘南ベルマーレvsサンフレッチェ広島 久々のサッカー観戦 サッカー日和、ポカポカです

2013年05月26日 | スポーツ

平塚競技場に行ってきました。

天気晴朗、ポカポカ陽気・・・。

湘南ベルマーレ、サンフレッチェ広島ともに好きなチーム。

何も考えずに、ボーッとしながらサッカー観戦も、太公望のようでなかなかオツなものです。

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スピーディな攻撃力を持つベルマーレと去年のJ1王者のサンフレッチェ。

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ベルマーレサポーター 湘南の風!!

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サンフレッチェ広島サポーター 王者の貫録!!

青い空が清々しいです!

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試合は、当初の予定どおり0-2で広島の勝ちとなりました。

前半、高萩選手とミキッチのゴール、ワンタッチの見事なパスつなぎで湘南ディフエンス陣を翻弄。


後半の広島は、球を回す巧みな戦術で余裕の横綱相撲状態。

湘南のポスト直撃のシュート以外は、これといった見せ場もなくホイッスル。

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ベルマーレのサポーターには、ストレスのたまる一戦でした。

ベルマーレのディフェンス陣の奮起を期待します!

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どん底から生まれた宅急便 都築幹彦元社長・・・ヤマト運輸躍進の生き証人 いいお爺さまでした

2013年05月25日 | 本と雑誌

「どん底から生まれた宅急便」 

都築幹彦著

日本経済新聞出版社 1700円+税


著者の都築さんは、ヤマト運輸の元社長。

オーナー2代目の小倉昌男さんとともに「宅急便」のビジネスモデルを築き上げた中興の祖ともいえる人物。


同書は、都築さんの初の本。

経営学の名著、古典である小倉昌男著「経営学」と合わせ読むと、ヤマト運輸の表と裏両面からの探索が可能になります。

先日、都築さんとお話しする機会があったのですが、その際、「小倉さんの本は成功ストーリー、私の本は失敗を綴ったストーリー」と話されていました。

83歳を過ぎてもカクシャクとされているお姿には、まだまだオーラが漂っていました。


「ボクは、三代続く江戸っ子、青山の生まれだから、口が悪いよ」

「実は、この本はパソコンで書いたんだ。この年で、パソコンをきつかったよ」


いただいた名刺には、アマチュア・マジシャンズクラブの17代会長の肩書が・・・。

もう20年以上も手品を趣味として継続されているそうです。

そう話される笑顔には、日本の流通システムを一変させたビジネスパースンというよりは、ニッポンの良きお爺ちゃんといった感じでした。

自分もこういう爺さんになれたらなあ、と感じた次第です。


この本の中には、いくつも面白いページがあり、楽しく読むことができます。

小倉さんが営業部長で都築さんが営業課長であった時代の話、アニメ「魔女の宅急便」の秘話、汐留営業所長時代の話、ゴルフ宅急便、スキー宅急便開発秘話・・・。山あり谷ありのジェットコースターのヤマト運輸の発展・・・。


古い体質の大和運輸からの脱却、ビジネスモデル構築の苦悩、運輸省との対決、労働組合との関係性、セールスドライバーの育成・・・。

さまざまな壁や苦難を乗り越えていく著者の姿は感動を呼びます。

著者は、「利益より信頼」「密集度を高める」といったマネジメントのキーワードを挙げています。

一見、原理原則と反するように思える思想、方法論が、年間14億個の小口発送、利益700億円を産みだしたのです。


特に、小倉昌男さんの「経営学」を読まれた方は、ぜひお読みいただきたい一冊です。


◆目次

1.どん底のヤマト運輸

2.社運をかけた挑戦

3.なぜ郵政に挑戦したのか

4.運輸省の厚い壁を打ち破る

5.進化する宅急便

6.ヤマト運輸との出会い


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能率技師 上野陽一が作った学校 日本最初の経営コンサルタントが作った日本最初のビジネススクール

2013年05月25日 | 受験・学校

「能率の父」と呼ばれている上野陽一(1883~1957)。

上野陽一の想いは、能率のコンセプト、思想、方法論を日本、いや世界に普及することでした。


「日本最初の経営コンサルタント」というキャッチフレーズのもと、文字通り日本全国、そして海外まで講演、講義、教育活動を展開しました。でも、上野は考えました・・・「日本の産業界のために、自分の分身をつくろう、デキる能率技師を育成しようと・・・」。

それで生まれたのが、日本能率学校です。

上野が私財を投げ打ち、世田谷区等々力に開校した日本能率学校は、日本の産業界にとりエポックメーキングな教育機関でした。

ここで、日本能率学校の意義を、わたしの修士論文から紹介させていただきます。

*******************************

 能率の日本国内への普及のため、上野が最終的にたどり着いたのが、学校教育である。社会人を中心とする能率教育の限界を感じ、若年層からの能率教育の必要性を感じていたのである。上野は、26歳で心理学通俗講話会での講演(19095月、長野県教育会で「実験心理学」を講演)を皮切りにして演壇に立った。33歳の時、早稲田大学広告研究会で広告心理学を講義、同年電通の広告研究会で毎月講演を実施している。教員としての活動は、36歳の時、早稲田大学商科において広告心理学の教壇に立ち、以降、40歳の時に日本大学講師、52歳の時には横浜専門学校(現神奈川大学)で科学的管理法概論、事務管理を講義、2年後に横浜専門学校講師となっている。さらに55歳の時に武蔵野写真学校校長に就任、翌年、再度横浜専門学校講師、早稲田大学講師、中央大学講師となっている。そして、60歳の時に戦時下で経営が厳しくなっていた立教学院の企画委員となり、立教大学教授、立教大学経済学部経営経済学科長に就任している。上野の生涯の中で、学生への高等教育は大きなウエイトを占めているのである。

 上野が、能率の普及にあたり、学校教育の重要性を認識したのは、社会人に対して能率教育を実施したこと、そして前述した大学において学生教育に従事したことの二つに起因していると考えられる。

 学生教育に対しては、日本において幼少期から詰込み型、画一的な教育が展開され、独創性、創造性の開発を阻害していること、そして大学を卒業し就職したとしても、その専門性が十分活かされていないことを主張している。一般的に法科や経済科を卒業し企業組織において事務職につきにしても、事務についての専門教育を何も施されていないことについての危惧を述べているのである。また、社会人になってからの教育の重要性も十分に認識していたのである。上野は、自らの教育観を具現化するために、産業能率専門学校設立を計画する。

 上野は、59歳となった1942年に私財を投げ打ち日本能率学校を創設する。戦時下局面にある厳しい状況である。日本産業能率研究所をベースとして創立された日本能率学校は、上野の思想たる能率道の具体化を図る場として設立されたのである[1]

 日本能率学校の学生募集広告によると、その内容は次のとおりである。

 

1.所在・・・東京都世田谷区玉川等々力町3-312 

2.開校・・・昭和17417日 

3.修業年限・・・本科2年 専攻科1年 

4.入学資格・・・中等学校卒業者 

5.入学試験・・・学力および性格についての試験 

6.募集人員・・・17年度本科1年 100名 

7.寄宿舎・・・校長は生徒と寝食を共にする

 

*同募集広告の中での解説には、「軍モ官モ民モマタ家庭モ工場モ国モ アゲテ 能率ノ 必要ガ サケバレテ イル トキニアタリ 能率方法実施担当者ノ養成ハ 目下 急務中ノ急務デアリマス。(中略)午後ハ 全部研究実習ニアテテ 実際ニ 役ニ タツ指導的 人物ヲ 養成スル コト ヲ 目的ト シマス。」とある。付属実習工場として目黒区下目黒6-1531と板橋区板橋3丁目505の住所が、そして付属施設として能率道場と日本産業能率研究所が記されている。

 

 また、同校の入学試験は、「学力および性格についての試験」としているが、その内容はユニークなものであった。①イロハウタをひらがなで書け、②イロハウタを漢字カナマジリ文で書け、③イロハウタの意味を書け、④五十音図を書け、⑤五十音図をローマ字で書け、⑥自転車の略図を書け、⑦漢字にふりがなをつけよ、⑧能率学校入学の動機を書け、⑨筆の持ち方を知っているか、⑩百科事典の中から目的となる題目をさがせ、といった試験内容であった。心理学者である上野の出題意図が垣間見られる。

 

(中略)

 

 日本能率学校カリキュラムは、テーラーの科学的管理法を習得するためのステップを前提に編成されていたものと考えられる。工学概論と能率概論を土台として、作業管理、工程管理、工具管理、工業簿記、事務管理、工場組織、賃金論、工場建築といった生産管理分野を中心として編成されている。さらに、戦時下にも関わらず英書講読の時間が第一学年で4時間、第二学年で3時間となっている。最も独自性が見られるのが、実習時間である。学生募集広告の記述にあるよう午後の時間はすべて研究実習にあてられることが、このカリキュラムからも読み取れる。全39時間中15時間が実習にあてられているのである[2]

 

 しかしながら、学生募集は上野の期待を裏切った。募集定員100名に対し志願者は50名足らず、入学試験に合格したものは30名であった。日本能率学校の経営基盤を支えるには不十分だったのである。日本能率学校は、実習を重視し、学校で作った佃煮を生徒が近所で売り歩くといった形の実務的教育[3]を行っていた。しかし、そういった学生教育への世間の理解はまだ不十分だったし、戦争中ということもあり評価を得ることができなかったのである。このため1943年には社会人(工場労働者)向けの夜間6か月の能率講座を企画し定員を超える聴講生を集めたことは、日本能率学校の価値を認めていたということであり、将来の姿を暗示させた。だが、戦争は長期化、学生の徴兵、空襲の危険性等のため、同年本科は中断することとなった。

 

 日本能率学校の再開は、終戦後の1947年である。産業能率専門学校として学習募集が行われた。生徒募集案内の中に「目的」が記されている。「能率ノ原理ニ モトヅキ 合理化ノ質ヲ アゲルタメニ 産業ノ科学的管理法ニ 通ジタ 人材ヲ 養成スルコト」である。この時の就業年限は3年、本科生(生産科50名・事務科50名)、校外生(夜間・日曜日)若干名、聴講生若干名であった。

 

そして、1950年、上野66歳の時、日本能率学校は産業能率短期大学に昇格した。初代の人事院人事官であった上野のポジションが少なからず後押ししたものと推測される。

 

 上野の設立した日本能率学校は、学生教育と社会人教育を同時に行うデュアルスタンダードの学校であり、日本初のビジネススクールということが出来よう。戦前、戦後を通じ学生募集に苦労した上野は、中等教育卒業の学生と企業や団体に所属する社会人の双方を「学生」とすることにより、学校の経営基盤が安定化することを認識していたことも推察される。さらにそのことは、「能率」教育の全階層性、普遍性と相まって、ヒジネススクールとしての性格を濃くしていったのである。

 

 1942年に上野によって創立された日本能率学校は、従来の商業学校や工業学校とは一線を隔する学際的が学校であった。管理、組織、事務などの実学を習得するための欧米型のビジネススクールに近い存在であった。能率というコンセプトを軸として、いわば心技体で体得していくという学習形態であった。

 

 上野は、知識偏重、詰め込み型の教育を否定し、独創的・人間的な全人教育を目指したのである。ムリ・ムダ・ムラをなくす能率道を能率道場で極めつつ、科学的管理法をベースとする欧米のマネジメントのエッセンスを習得し、日本の産業界に貢献する人材を輩出することを志向したのである。上野の想い、構想を、第二次世界大戦中という非常時に実現させなければならなかったことは、大きな難問であった。教員、職員の充実、学生募集、施設の整備等を同時に行っていかなければならず、しかも資金確保のため、上野自身、能率についての指導、講演等で飛び回らなければならなかったのである。いわば、自身の想いを実現させるために私財を投げ打ち、自らの全てを賭して日本能率学校の創設に向かったのである。しかしながら、戦時という中、学生募集も思うように進まず、まだ、徴兵、勤労動員により学生が召集され、最終的に学生数がゼロとなる危機に陥ることになるのである。

 

 上野の苦悩は続くものの、昭和20年の終戦により、米国を中心とする連合国の管理下に入り、学校再開に向かうことになる。さらに、戦後初代の人事院人事官に就任することにより日本の公務員制度の構築、公務員の教育研修制度の確立に向けて動いていくことになる。人事院人事官の就任には、戦前の友人であった故ギルブレス夫妻のリリアン・ギルブレスのGHQに対する強い推薦があったと言われている。公職への就任は、その後、日本初の短期大学の一つとなる産業能率短期大学の認可に大きく影響していると言われている。

 

 昭和241015日付で文部省から認可がおりた学校法人産業能率短期大学は、他の148校とともに短期大学となる。学科は、能率科第二部(生産能率専攻・事務能率専攻)である。しかしながら、設備、資金、教員組織等により夜間部(Ⅱ部)だけの短大となる。この夜間部だけの設置ということが、社会人向けのビジネススクールとして後に開花することになるのである。

 

 設立当時のカリキュラムを見ると、現在のビジネススクールに近い科目構成となっている。

 


[1] 上野一郎(上野陽一の長男・産業能率大学最高顧問)の199581日の講演録より「しばらくして父は、『だんだん年をとってきた。いろいろな方に知識や技術を伝えることはできる。どうすれば、会社の経営を良くすることができるかというノウハウも講義できる。しかし、学生と生活を共にして、もっと全人格的に能率の思想を伝えていきたい。つまり、後継者を育てなければ、自分一人があちこちで講演したり、一つ二つの会社を指導してみたところで、たかが知れている。自分に残された人生はそんなに長くないから、後継者の養成を急ぎたい。』」
 

[2] 日本能率学校は、教室、寄宿舎、食堂、農場等で構成されていた。そこでの学生の生活は、朝6時太鼓(上野陽一記念文庫に「能率太鼓」として保存)を合図に起床、顔を洗った後仏壇のある二階で思い思いに30分間静座、その後日によっては上野陽一より仏教や禅の講話。それから道場の掃除をし、8時に一階の食堂に集まり唱え言葉を唱えて朝食。9時から講義を聴き、昼食後は講義、畑仕事または社外実習、5時半夕食、9時太鼓とともに就寝といったのが平均的な一日であった。「上野陽一記念文庫案内」 産能短期大学図書館 1996.7.5より

 

[3] 「上野陽一記念文庫案内」12ページ 産能短期大学図書館 1996.7.5


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成城に行ってきました 文教エリア・・・豊かな緑 人工的に造られたお屋敷町「成城学園」

2013年05月23日 | まち歩き

久々に成城学園に行ってきました。

なぜか仕事での訪問です。

駅前の光景は、数十年前とほとんど同じ。

タイムトリップした不思議な感覚です。

不純物のない、有機質ながら無機質な空間。それが、成城学園でした。

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整然とした街並み、豊かな緑、学園に通う子供たちは上品で、いわゆるガキはいません。

タバコを吸う場所もなく、一杯飲み屋もほぼない、雑菌のない無菌室を想起させます。

スモーカーの私としては、かなり絶望的な状況でした(笑)。

駅前のマックでさえ、すべて禁煙。あ~あ。


以前仕えていた上司が成城に住んでおり、たまに遊びに行きましたが、いつも「家飲み」だったことを思い出します。

飲み屋がほとんどなかったというのが理由だと思います。

余談ですが、その上司の奥さんが成城学園で繁盛する美容院を経営されており、

「オレは、髪結いの亭主。だから給料はすべて飲み代なんだ・・・ハッハッハッ」というのが口癖でした(笑)。

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成城学園です

歴史的に、

東急電鉄は田園都市をめざし、

西武鉄道は学園都市を目指したということですが、

小田急はその中間を志向したのではと考えた次第です。


個人的には、雑菌やゴミゴミした街・・・人間が住んでいる、生活感漂う街が好きです。

その中で生活することにより、生命力が磨かれていくようにも思います。

娯楽施設や風俗がないつくば学園都市では自殺者が多いと聞きますが、

人間の形跡のない街の無機質な恐ろしさというのはあると思った次第です。


サントリーオールドのむかしのコピーを思い出しました。

「人間らしくやりたいな、人間なんだからな」


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TOYOTAの東京アンテナショップ 池袋アムラックスに行ってきました トヨタのマーケティング

2013年05月22日 | マーケティング

アベノミクスによる円安傾向で復活したTOYOTA。

その東京のアンテナショップでもあるaMLUX(アムラックス)に行ってきました。

場所は、池袋のサンシャイン60の隣。

池袋駅から歩いて7分です。

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この建物は、トヨタの東京パビリオンとも言える位置づけで、ほぼすべてのトヨタ車に触れることができます。

一階は、ドライブシュミレータがあり大人から子供まで楽しめます。

また、アムラックスミレルと呼ばれる美しき女性が来客対応しています。

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長年、HONDAファンの私も、ここを訪れトヨタの素晴らしさを堪能することができました。

青山一丁目のホンダ本社の四倍規模のTOYOTAアムラックス。

なかなか素敵なチャレンジだと思います。

86のコックピットにも試乗。

トヨタ車を楽しむことができました。

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特別仕様車です。

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機能的なコックピット!

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次回は、タイムレンタルを楽しみたいと思います。


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池袋モンパルナス 池袋は芸術の街を目指す パリのような文化の香りが漂えば、いいなあ

2013年05月21日 | まち歩き

池袋に行ってきました。

ちょっと危ない街・・・といったイメージは過去のもの。

今では、西口、東口ともに、美しく整備された街に変身しています。


「池袋モンパルナス」というネーミングが似合う街並みになってきました。

歴史をたどれば、詩人の小熊秀夫さんが、巴里にちなんで例えたとのこと。

西口には、東京芸術劇場があり、様々な芸術活動が行われています。

近隣の画廊やギャラリーなどともにカルチャー発信をしています。

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都の西北の人間味あふれる街、池袋。

もっともっと情報発信をしていただきたいターミナル都市です。

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そういえば、近所には日大芸術学部や武蔵野音楽大学などの若手芸術家を擁する大学が・・・。

池袋のさらなる発展を祈念しています。


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旧岩崎邸庭園でモダンな昼下がりを・・・東京上野 素敵な書斎(DEN)が魅力的でした

2013年05月20日 | まち歩き

旧岩崎邸を訪れました。

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明治29年に建てられた洋館。三菱財閥岩崎家の本邸です。

設計は、イギリス人建築家のジョサイア・コンドル。

日本で西欧建築の父と呼ばれています。

鹿鳴館やニコライ堂の設計で知られています。

かって2.5万坪あった土地も今では1/3に。

庭園と名付けられていますが、芝生の広場が中心なので、日本庭園や池などはありません。

本館は、17世紀のジャコビアン様式が取り入れられ、全体的には英国ルネサンス様式が取り入れられています。

一番気に入ったのが、書斎。

「Den」と表示してありました。

広くはありませんが、高い天井と微細な装飾が落ち着きある空間を醸し出しています。

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残されているのは、本館、和館(書院造)、そして撞球館・・・ビリヤード場です。

撞球館は、ペンシルバニアのカントリハウス様式が取り入れられているとのこと。

本当に優雅なものです。

休みの日、ここの芝生で書を読むもよし、お茶するのもよし、モボ、モガに変身するにはもってこいの場所です。

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庭園内にある国立近現代建築資料館も、なかなか興味深い展示でした。

旧岩崎庭園 

東京都台東区池之端1-3-45 電話03-3823-8340


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