山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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埴原城⑦

2017-06-17 21:00:51 | 山城ー信州
曲輪1とその周辺


宮坂氏の縄張り図では曲輪1

縄張り図は「信濃の山城と館4」

曲輪1の東側奥

曲輪2の東土塁

曲輪1から東土塁の北側

東土塁の北側の堀

北下から見上げています。

宮坂氏は曲輪1と曲輪2との間の堀外に、このような通路として描いています。この外側は谷で用途が分かりません。非常の脱出の竪堀でしょうか。

曲輪1を東から見ています。

曲輪1の東下大堀切

曲輪1の東城壁

曲輪1から南下の南曲輪

次回 この南曲輪から南尾根へ下ります。

小笠原氏の三家分立
信濃小笠原氏の3家分立
信濃小笠原氏の家督を継いだ長秀の弟の小笠原政康は、たびたび戦乱を起こしていた鎌倉公方への抑え役として足利義持から重用されて、応永32年(1425年)に信濃守護職に任命され、信濃国内、甲斐国、武蔵国を転戦し、庶流の跡部氏を甲斐に送り込んだ。しかし、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で6代将軍足利義教が暗殺されると畠山持国が台頭し小笠原長将(長秀の兄)の子の小笠原持長が家督相続を主張して内乱を起こし、文安3年(1446年)に政康の子小笠原宗康を漆田原の戦いで討ち取って南下し、国府を奪い府中小笠原氏を起こした。しかし、宗康は戦死前に伊那郡伊賀良荘の松尾小笠原氏である弟の小笠原光康を後継者に定めており、府中小笠原氏に対向した。また、府中から光康の元に逃れた小笠原政秀(宗康の子)も鈴岡小笠原氏を起こし小笠原氏は3家に分裂した。
       鈴岡小笠原氏の滅亡
鈴岡小笠原政秀は、寛正2年(1461年)の光康の死により小笠原家の惣領の家督を継承したと見られ、府中小笠原清宗(持長の子)から府中を奪い返して、小笠原3家を統一し、文明5年(1473年)には幕府から信濃国守護に任ぜられた。しかし、筑摩郡の国衆の支持を得られなかったため、政秀は更級郡牧之島城に逃れた府中小笠原長朝(清宗の子)と和睦し、明応元年(1492年)の幕府の近江遠征には(長享・延徳の乱)には長朝が出兵した。
松尾小笠原氏の小笠原家長(光康の子)は鈴岡小笠原政秀と共闘し、応仁の乱中の文明5年(1473年)、東軍の要請で木曽家豊と共に美濃国に遠征したが[9][10]、文明12年(1480年)に政秀と合戦となり戦死した。家長の子松尾小笠原定基は明応2年(1493年)に政秀を暗殺し、鈴岡小笠原氏は滅亡した。ウィキペディアより


鈴岡・松尾城址は飯田市駄科にあります






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