曲輪1から東上の堀底状通路。そして南尾根へ
曲輪1の大堀切の先に瘤状の障壁が幾つもあり、これを抜けると
通路を登りきると
水の手があります。
水の手の上に、このような曲輪らしきものがあります。
南斜面を見下ろせば、畝状竪掘群
曲輪1から南尾根に向かいます。
南第一曲輪・第二曲輪
第三・第四曲輪
第五曲輪
第六曲輪
空堀を経て第七曲輪
第八曲輪
空堀(城域)
第九曲輪
南尾根を見上げています。
松尾小笠原氏について
松尾小笠原氏の流浪
松尾小笠原定基は、娘を木曽義在に嫁がせて木曽氏と婚姻関係となり東濃の領地を維持し[10]、府中小笠原長朝の侵攻を撃退し、三河国にも遠征したが、天文3年(1534年)、子の松尾小笠原貞忠が府中小笠原長棟(貞朝の子)や鈴岡小笠原氏の親族の下条氏に攻められて松尾城が落城し、甲斐国に落ち延びた。
天文23年(1554年)、松尾小笠原信貴(定基の子)・小笠原信嶺父子が武田氏の伊那侵攻で信濃先方衆として活躍し、松尾城を回復した。小笠原信嶺はその後、織田信長の甲州征伐の時には織田氏に降伏し、本能寺の変の後、徳川氏の家臣となった。徳川家康の関東移封の際、武蔵国本庄城に移り、1万石ながら大名となった。 ウィキペディアより
曲輪1の大堀切の先に瘤状の障壁が幾つもあり、これを抜けると
通路を登りきると
水の手があります。
水の手の上に、このような曲輪らしきものがあります。
南斜面を見下ろせば、畝状竪掘群
曲輪1から南尾根に向かいます。
南第一曲輪・第二曲輪
第三・第四曲輪
第五曲輪
第六曲輪
空堀を経て第七曲輪
第八曲輪
空堀(城域)
第九曲輪
南尾根を見上げています。
松尾小笠原氏について
松尾小笠原氏の流浪
松尾小笠原定基は、娘を木曽義在に嫁がせて木曽氏と婚姻関係となり東濃の領地を維持し[10]、府中小笠原長朝の侵攻を撃退し、三河国にも遠征したが、天文3年(1534年)、子の松尾小笠原貞忠が府中小笠原長棟(貞朝の子)や鈴岡小笠原氏の親族の下条氏に攻められて松尾城が落城し、甲斐国に落ち延びた。
天文23年(1554年)、松尾小笠原信貴(定基の子)・小笠原信嶺父子が武田氏の伊那侵攻で信濃先方衆として活躍し、松尾城を回復した。小笠原信嶺はその後、織田信長の甲州征伐の時には織田氏に降伏し、本能寺の変の後、徳川氏の家臣となった。徳川家康の関東移封の際、武蔵国本庄城に移り、1万石ながら大名となった。 ウィキペディアより