山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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北之庄城

2017-11-29 20:47:58 | 滋賀県の山城
北之庄城は滋賀県近江八幡市北之庄町にあります。

北之庄城地図

北之庄町を南北に走る地方道26号線で、バス停豊年橋和船乗り場を西に歩き、北之庄神社を目指します。

北之庄神社

本殿

本殿の脇にある倉、この建物右手から登り道があります。西尾根を300mくらい歩きます。

城下町のような狭い道の集落にある龍興寺?から見た城山

尾根の途中、見晴らしの良い場所にあった説明版と縄張り図、近江守護、佐々木六角氏の付城と江戸の古文書に書かれているそうです。/font>

尾根300mくらい歩き、本当に山城があるのかと不安になりつつ、やっとこの大堀切になりました。

尾根に登り

北の丸は砦で、七つ池・百々神社を目指します。

土橋

尾根道から琵琶湖が西に見えます。

豊臣秀次の居城、八幡山城が南に見えます。

右手の案内、北之庄城跡・七つ池とあります。

北之庄城、主郭が見えてきましたが、次回とします。

佐々木六角氏の歴史
鎌倉時代、佐々木氏の当主佐々木信綱の死後、所領の多くは3男の泰綱が継承したが、寛元元年(1243年)、信綱長男の重綱の訴えを幕府が容れ、泰綱が嫡流であることは変わりはなかったが、泰綱は有した近江国の所領の一部を失った。近江国の所領は兄弟で四分され、重綱と次男の高信、末子の氏信はそれぞれ大原氏・高島氏・京極氏の祖となり、嫡流の泰綱の家系は六角氏と呼ばれる。
またこれらの家は鎌倉幕府に直接仕えたため、総領たる六角氏が他の3家を家臣団化できず、六角氏の近江統一の障害となった。[3]
鎌倉幕府の滅亡時は、当主・六角時信が六波羅探題に最後まで味方し、敗れ降伏している。
室町幕府が成立すると、同族である京極氏の京極高氏(佐々木道誉)が近江守護に任じられたが、後に六角氏頼が守護に任じられ、以降は幕府と対立した一時期を除いて近江一国の守護の地位を占めた。だが、京極氏は出雲や飛騨の守護に任ぜられ、近江国内でも守護不入(守護である六角氏の支配を受けない特権)が認められたため、室町時代に入ると六角氏と京極氏は敵対し、近江の覇権をめぐって争った。また、国内の同族の中には高島氏・朽木氏・大原氏など奉公衆として幕府の直臣化される者もおり、彼らは幕府からの直接の命令を奉じて守護の命令には従わなかった。さらに領内に比叡山が存在することもあって、室町時代を通じてその支配は安定せず、六角満綱・持綱父子は家臣の反乱により自害に追いやられ、持綱の弟で後を継いだ久頼は京極持清との対立の末に心労により自害して果てている[4]。
久頼の跡を継いだ六角高頼は応仁の乱では土岐氏とともに西軍に属し、持清と共に東軍についた従兄の政堯と戦い、長享元年(1487年)には9代将軍足利義尚、10代将軍足利義稙から討伐を受ける(長享・延徳の乱)。高頼はこの侵攻を2度に亘り跳ね除け、守護代である伊庭氏との対立にも勝利し、六角氏の戦国大名化をなしとげた。[5]
ただし通説の久頼の没年と高頼の生年が離れすぎて世代が合わないため、久頼-高頼間に1世代あるとして佐々木哲は古文書に見える六角政勝をその間に置くべきとする。ウィキペディアより








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