二の丸南下曲輪から東斜面を下ってから三の丸へ
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二の丸南下曲輪
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南下曲輪の東城壁の石垣
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縄張り図は「近江の山城ベスト50を歩く」中井均氏著より
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同上の石垣
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東側を下り
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東曲輪(仮に)
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本丸に戻って
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空堀と折れを持った土橋、これを登れば三の丸
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三の丸
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三の丸の北東を下って、腰曲輪
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北東第二腰曲輪
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三の丸北東城壁を見ています。
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空堀に戻って、北側へ下ると
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正面が三の丸城壁、左手は曲輪、おそらくここが大手であろうと思います。
次回 北之庄城(近江八幡市北之庄町)
森長可(ながよし)森可成の次男の生涯
家督相続
永禄元年(1558年)、森可成(三左衛門)の次男として生まれる。元亀元年(1570年)に父・可成が戦死し、長兄の可隆(伝兵衛)も同年に戦死していたため、僅か13歳で家督を継いで織田信長に仕え、信長より一字拝領し勝蔵 長可を名乗った。元亀3年(1572年)12月には羽柴秀吉・丹羽長秀・塙直政らとともに発給文書に連署しており、15歳にして既に他の重臣らと同じように活動している様子が窺える。
元亀4年(1573年)3月、第二次長島一向一揆攻めに織田信忠の部隊に参加して初陣。稲葉良通、関成政らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家では各務元正などが功を挙げ信長よりその働きを称された[1]。同年の槇島城の戦いでは老巧の家臣を出し抜き先陣を切って宇治川を渡るも城内は既に殆どもぬけの殻であり高名とはならなかった。翌天正2年(1574年)には第三次長島一向一揆攻めで長島城の寄せ手に参加し関成政と共に打って出てきた一揆軍を敗走させた。また、信忠軍と一揆が川を挟んで対峙した際には船で渡河して切り込み、一揆勢27人を討ち果たすなど優れた武勇を見せた[1]。以後は信忠配下の与力武将として長篠の戦い、美濃岩村城攻め、越中国侵攻、摂津石山本願寺攻め、三木合戦などに参加し武功を挙げている。
甲州征伐
天正10年(1582年)の甲州征伐においては団忠正と共に先鋒部隊の将として抜擢。忠正と長可は2月6日に木曽口より信濃国の武田領へと侵攻し、14日には松尾城の小笠原信嶺を降伏させ、飯田城の保科正直も潰走。15日には逃げる正直の部隊を追撃し数十騎を討ち取る活躍を見せる[3]。仁科盛信の守備する高遠城攻めでは信忠率いる本隊を待ち合流。月蔵山を上り本隊とは別行動で動き高遠城に押し寄せると森隊は三の丸の屋根に登り、板を引き剥がし城内へ鉄砲の一斉射を加え陥落させ、さらにそこから本丸方面の高遠城の守備兵を射撃し多くの敵を倒す。また、本丸の制圧においても自ら槍を取って戦い、手に傷を負うも構わず城兵を突き倒すなど奮闘する。しかしながら本隊到着前に団と共に二度の軍規違反を侵しており、この事は信長に書簡で注意を受けている。
そのまま忠正と共に上野国へ侵入し、小諸城の接収や小幡氏ら国人衆の人質の徴収に当たっている。これらの戦功から武田氏滅亡後、信長から恩賞として信濃川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)と海津城20万石を与えられた[3]。また長可の旧領である金山は弟の成利(蘭丸)に与えられている。
信濃入領
天正10年(1582年)4月、海津城に入り領内の統治に取り掛かった長可であったが、信濃国の政情は未だ不安定であり更に、上杉氏の本領である越後国と接する長可の北信濃四郡は上杉氏と結んだ旧武田家臣なども存在していた。そういった中で4月5日に上杉景勝と結んだ旧武田家臣の芋川親正が地侍など8,000人を率いて蜂起。一揆勢は廃城となっていた大倉城を改修して本拠とし、稲葉貞通の守る飯山城を包囲するという事件が起こるが長可は一揆勢を撫で斬りにして[3][注釈 2]わずか2日でこれを鎮圧し、島津忠直など他の反抗的な勢力も領内から追放し支配を確立する。
残った信濃国衆も一応は臣従の姿勢を見せたが領内の統治が容易では無い事を痛感した長可は国衆の妻子を海津城に住まわせる事を義務付け、また一揆に参加したと見られる近隣の村の住民の一部も強制的に海津城下に住まわせた。また、領内への禁制発布、信濃国衆との会談や所領安堵の判断など政務を精力的にこなし統治の確立に努めた[4]。ウィキペディアより
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二の丸南下曲輪
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南下曲輪の東城壁の石垣
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縄張り図は「近江の山城ベスト50を歩く」中井均氏著より
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同上の石垣
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東側を下り
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東曲輪(仮に)
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本丸に戻って
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空堀と折れを持った土橋、これを登れば三の丸
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三の丸
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三の丸の北東を下って、腰曲輪
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北東第二腰曲輪
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三の丸北東城壁を見ています。
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空堀に戻って、北側へ下ると
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正面が三の丸城壁、左手は曲輪、おそらくここが大手であろうと思います。
次回 北之庄城(近江八幡市北之庄町)
森長可(ながよし)森可成の次男の生涯
家督相続
永禄元年(1558年)、森可成(三左衛門)の次男として生まれる。元亀元年(1570年)に父・可成が戦死し、長兄の可隆(伝兵衛)も同年に戦死していたため、僅か13歳で家督を継いで織田信長に仕え、信長より一字拝領し勝蔵 長可を名乗った。元亀3年(1572年)12月には羽柴秀吉・丹羽長秀・塙直政らとともに発給文書に連署しており、15歳にして既に他の重臣らと同じように活動している様子が窺える。
元亀4年(1573年)3月、第二次長島一向一揆攻めに織田信忠の部隊に参加して初陣。稲葉良通、関成政らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家では各務元正などが功を挙げ信長よりその働きを称された[1]。同年の槇島城の戦いでは老巧の家臣を出し抜き先陣を切って宇治川を渡るも城内は既に殆どもぬけの殻であり高名とはならなかった。翌天正2年(1574年)には第三次長島一向一揆攻めで長島城の寄せ手に参加し関成政と共に打って出てきた一揆軍を敗走させた。また、信忠軍と一揆が川を挟んで対峙した際には船で渡河して切り込み、一揆勢27人を討ち果たすなど優れた武勇を見せた[1]。以後は信忠配下の与力武将として長篠の戦い、美濃岩村城攻め、越中国侵攻、摂津石山本願寺攻め、三木合戦などに参加し武功を挙げている。
甲州征伐
天正10年(1582年)の甲州征伐においては団忠正と共に先鋒部隊の将として抜擢。忠正と長可は2月6日に木曽口より信濃国の武田領へと侵攻し、14日には松尾城の小笠原信嶺を降伏させ、飯田城の保科正直も潰走。15日には逃げる正直の部隊を追撃し数十騎を討ち取る活躍を見せる[3]。仁科盛信の守備する高遠城攻めでは信忠率いる本隊を待ち合流。月蔵山を上り本隊とは別行動で動き高遠城に押し寄せると森隊は三の丸の屋根に登り、板を引き剥がし城内へ鉄砲の一斉射を加え陥落させ、さらにそこから本丸方面の高遠城の守備兵を射撃し多くの敵を倒す。また、本丸の制圧においても自ら槍を取って戦い、手に傷を負うも構わず城兵を突き倒すなど奮闘する。しかしながら本隊到着前に団と共に二度の軍規違反を侵しており、この事は信長に書簡で注意を受けている。
そのまま忠正と共に上野国へ侵入し、小諸城の接収や小幡氏ら国人衆の人質の徴収に当たっている。これらの戦功から武田氏滅亡後、信長から恩賞として信濃川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)と海津城20万石を与えられた[3]。また長可の旧領である金山は弟の成利(蘭丸)に与えられている。
信濃入領
天正10年(1582年)4月、海津城に入り領内の統治に取り掛かった長可であったが、信濃国の政情は未だ不安定であり更に、上杉氏の本領である越後国と接する長可の北信濃四郡は上杉氏と結んだ旧武田家臣なども存在していた。そういった中で4月5日に上杉景勝と結んだ旧武田家臣の芋川親正が地侍など8,000人を率いて蜂起。一揆勢は廃城となっていた大倉城を改修して本拠とし、稲葉貞通の守る飯山城を包囲するという事件が起こるが長可は一揆勢を撫で斬りにして[3][注釈 2]わずか2日でこれを鎮圧し、島津忠直など他の反抗的な勢力も領内から追放し支配を確立する。
残った信濃国衆も一応は臣従の姿勢を見せたが領内の統治が容易では無い事を痛感した長可は国衆の妻子を海津城に住まわせる事を義務付け、また一揆に参加したと見られる近隣の村の住民の一部も強制的に海津城下に住まわせた。また、領内への禁制発布、信濃国衆との会談や所領安堵の判断など政務を精力的にこなし統治の確立に努めた[4]。ウィキペディアより