本丸へ
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岩を抜けて登り
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/3e/90f82c4183a340c30d130a3603ecbeb9.jpg)
本丸
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長命寺港展望台から琵琶湖の景色
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/ea/1cf74ffc90ed2082ea6eb57497440d0a.jpg)
西から本丸を見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/ff/d860ffc8d55e436cf715879735e52a8c.jpg)
西下腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/3c/06a1ea2869715c7a288c4a741b4c74a5.jpg)
腰曲輪に立って本丸城壁を見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/38/b08d17c6c8f9a61084e177f09a3c28e3.jpg)
本丸から東側を下り、東腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/19/3755ae97e3e3478feb47531c9aad51e6.jpg)
東第二腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/b3/6f4c14fc66746c1c10fc25c30e0d7c03.jpg)
本丸東斜面を見返しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/d9/a6d862539c916ff76451cef6c42777b1.jpg)
二の丸(本丸東側下)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/c8/246439cb20e0039a858ca5d3fbc9f8fe.jpg)
二の丸北側の土塁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/5f/ce1d1406d66552dac1fb9c62b0a8fbe2.jpg)
二の丸北虎口(搦め手でしょうか)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/b7/5771e361aa03e49fd5bb6e203fb8d94b.jpg)
百々神社に進むと北の丸砦があり、八幡山に進めば八幡山城へ行けます。今回は安土城に行くため八幡山には行きませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/8d/b847b55d76a8ad7340d1c8c04ffaa7dd.jpg)
周辺案内図
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/f3/37414a4da66042adaed5350a9576e6b5.jpg)
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北の丸城壁
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北の丸
以上で終了し、次回 安土城
佐々木六角氏の戦国期
戦国時代に入ると六角定頼(高頼の次男)が登場する。定頼は足利将軍家の管領代となり、天文法華の乱の鎮圧にも関与した[7]。近江蒲生郡観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げたのみならず伊賀や伊勢の一部までにも影響力をおよぼしたとされ、六角氏の最盛期を創出した。しかし定頼の死後、後を継いだ六角義賢の代においては、長年の同盟相手であった土岐氏に取って代わった斎藤氏や畿内で台頭した三好氏と度々争い、永禄3年(1560年)に野良田の戦いで浅井長政と戦って敗れるなど六角氏の勢力は陰りを見せはじめる。義賢の嫡男義治(義弼)は家督を継いだのち、永禄6年(1563年)に重臣の後藤賢豊父子を殺害したが、これをきっかけに家中で内紛(観音寺騒動)が起き、六角氏式目への署名を余儀なくされ、六角氏当主の権力は弱体化した。このように六角氏は六角義賢・義治父子の時代に大きく衰退し、永禄11年(1568年)、織田信長率いる上洛軍と戦って敗れ、居城である観音寺城を去ることになる(観音寺城の戦い)。[8]
その後、義賢と義治は甲賀郡の石部城に拠点を移し、信長に対してゲリラ的に抵抗したが、次第に歴史の表舞台から遠ざかることとなった。[9]。後に義治は豊臣秀次によって召し出されており、豊臣秀頼の家臣としても見えている。[10]
その後義治は豊臣秀次に近臣として仕え、秀次家が滅亡すると豊臣秀頼に仕えた。義治の婿養子・定治は義父のあとをつぎ豊臣秀頼の家臣となり大坂陣をむかえた。大坂城退散後蒲生家を経て加賀の前田家に仕え、江戸時代には加賀藩士の佐々木(六角)家として1,000石となり、子孫が加増され2,100石で幕末に至った。
義治の弟・義定(観音寺騒動の後に義治に当主の座を譲られたとされる[11]。ただしこれには反論もある[12])の子孫も江戸幕府の旗本となった。こちらも本苗の佐々木氏を名乗っている。しかし義定の曾孫・求馬定賢が若年で死去し絶家となった。[13]
義治の弟・高一は織田信雄の家臣となり、その子・正勝は生駒氏を称し、大和宇陀松山藩織田家の重臣となった。子孫は丹波柏原藩織田家に仕えた。ウィキペディアより
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岩を抜けて登り
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本丸
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長命寺港展望台から琵琶湖の景色
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西から本丸を見ています。
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西下腰曲輪
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腰曲輪に立って本丸城壁を見ています。
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本丸から東側を下り、東腰曲輪
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東第二腰曲輪
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本丸東斜面を見返しています。
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二の丸(本丸東側下)
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二の丸北側の土塁
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二の丸北虎口(搦め手でしょうか)
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百々神社に進むと北の丸砦があり、八幡山に進めば八幡山城へ行けます。今回は安土城に行くため八幡山には行きませんでした。
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周辺案内図
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北の丸城壁
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北の丸
以上で終了し、次回 安土城
佐々木六角氏の戦国期
戦国時代に入ると六角定頼(高頼の次男)が登場する。定頼は足利将軍家の管領代となり、天文法華の乱の鎮圧にも関与した[7]。近江蒲生郡観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げたのみならず伊賀や伊勢の一部までにも影響力をおよぼしたとされ、六角氏の最盛期を創出した。しかし定頼の死後、後を継いだ六角義賢の代においては、長年の同盟相手であった土岐氏に取って代わった斎藤氏や畿内で台頭した三好氏と度々争い、永禄3年(1560年)に野良田の戦いで浅井長政と戦って敗れるなど六角氏の勢力は陰りを見せはじめる。義賢の嫡男義治(義弼)は家督を継いだのち、永禄6年(1563年)に重臣の後藤賢豊父子を殺害したが、これをきっかけに家中で内紛(観音寺騒動)が起き、六角氏式目への署名を余儀なくされ、六角氏当主の権力は弱体化した。このように六角氏は六角義賢・義治父子の時代に大きく衰退し、永禄11年(1568年)、織田信長率いる上洛軍と戦って敗れ、居城である観音寺城を去ることになる(観音寺城の戦い)。[8]
その後、義賢と義治は甲賀郡の石部城に拠点を移し、信長に対してゲリラ的に抵抗したが、次第に歴史の表舞台から遠ざかることとなった。[9]。後に義治は豊臣秀次によって召し出されており、豊臣秀頼の家臣としても見えている。[10]
その後義治は豊臣秀次に近臣として仕え、秀次家が滅亡すると豊臣秀頼に仕えた。義治の婿養子・定治は義父のあとをつぎ豊臣秀頼の家臣となり大坂陣をむかえた。大坂城退散後蒲生家を経て加賀の前田家に仕え、江戸時代には加賀藩士の佐々木(六角)家として1,000石となり、子孫が加増され2,100石で幕末に至った。
義治の弟・義定(観音寺騒動の後に義治に当主の座を譲られたとされる[11]。ただしこれには反論もある[12])の子孫も江戸幕府の旗本となった。こちらも本苗の佐々木氏を名乗っている。しかし義定の曾孫・求馬定賢が若年で死去し絶家となった。[13]
義治の弟・高一は織田信雄の家臣となり、その子・正勝は生駒氏を称し、大和宇陀松山藩織田家の重臣となった。子孫は丹波柏原藩織田家に仕えた。ウィキペディアより