山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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宇佐山城②

2017-11-27 15:44:19 | 滋賀県の山城
本丸から二の丸へ


本丸東斜面を迂回して

本丸東下の通路

本丸東虎口

本丸には我が物顔で、NHKと大津放送局が占拠しています。400年の歴史的遺産も平気で破壊している。しかも全国で本丸にこうした建物を幾つも造っていることに何の反省もない。

西北に放送機材を運ぶための装置

本丸南側土塁、二の丸からの防壁

二の丸(中井均氏「近江の山城 ベスト50を歩く」の縄張り図では二の丸とされています。)

二の丸から本丸側の城壁を見ています。鉄条網で囲っているのは井戸でもあるのでしょうか?

二の丸南下曲輪

南下曲輪

二の丸城壁を見返しています。

次回 南下曲輪から東斜面へ下り、そして三の丸へ

森可成の生涯

大永3年(1523年)、森可行の子として尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)に生まれる。美濃国の守護大名である土岐氏に仕え、斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後の天文23年(1554年)には尾張国で織田信長に仕えた(一説には斎藤氏家臣の長井道利に仕えた後の仕官とも)。
信長の家督相続と尾張国統一に尽力し、弘治元年(1555年)の信長による清洲城攻めでは織田信友(広信)を討つ功績を挙げた。弘治2年(1556年)に美濃国で政変が起こると、信長の舅にあたる道三を援助し、信長とその弟・織田信行の家督争いである稲生の戦いにも参陣した。永禄元年(1558年)の浮野の戦い、永禄3年(1560年)の今川義元との桶狭間の戦いなどにも参加した。
美濃攻略においても武功をあげ、斎藤勢のみならず、信濃から東美濃に侵攻してきた武田勢とも戦った。永禄8年(1565年)には美濃金山城を与えられ、信長上洛の際には柴田勝家と共に先鋒を務め(勝竜寺城の戦いなど)、上洛後には近江宇佐山城を与えられた。元亀元年(1570年)に6月に起こった姉川の戦いにも参戦。勢いにのって突撃してきた磯野員昌隊の進撃を阻止するなど活躍する。
同年9月、宇佐山城に在った可成は浅井長政・朝倉義景の連合軍出撃の知らせを受けて進軍を妨害する為に宇佐山城より出撃して坂本に陣取り街道を封鎖。9月16日に緒戦においては連合軍3万を1千の軍勢で撃退する(『信長公記』)。しかし石山本願寺法主・顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わり、9月20日にさらに数の膨らんだ連合軍の侵攻で先鋒の朝倉景鏡を押し返すなど健闘を見せるが、浅井対馬、玄蕃の2千に側面から攻撃を仕掛けられ、さらに朝倉中務、山崎吉家、阿波賀三郎の隊に加え浅井長政本隊もこれに加わったため信長の弟・織田信治、近江の国人・青地茂綱と共に討死した(宇佐山城の戦い)。 ウィキペディアより

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