山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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埴原城⑨

2017-06-19 20:04:11 | 山城ー信州
南尾根を戻って

曲輪2の南側にある石垣

小笠原氏の山城は主郭部に石垣を積む傾向がみられます。

曲輪2の南下にある帯曲輪


帯曲輪の東先端部下にある水の手

曲輪3の南下第一曲輪」

第二曲輪

第三曲輪

第四曲輪

曲輪4へつなぐ通路

尾根をつなぐ通路

腰曲輪A

腰曲輪B

腰曲輪C

尾根を下って

曲輪4(現地では溝とあります。)この溝から南西尾根、南支尾根と二つの尾根が伸びていますが次回とします。

縄張り図は「信濃の山城と館4」曲輪2から曲輪4へ向かう曲輪群を紹介してきました。

府中小笠原氏について
府中小笠原氏の流浪[編集]
府中小笠原氏は統一を果たした長棟の没後、その長男である長時の時代に甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃の領国化を開始し(信濃侵攻)、長時は小県郡の村上義清らと連携して抵抗するが、天文19年(1550年)には本拠の林城が陥落すると信濃から駆逐される(『高白斎記』)。
このころ中央では第13代将軍・足利義輝を推戴する三好長慶が勢力をもっていたが、三好氏は小笠原一族を称し長時を庇護し、長時と三男貞慶は三好氏や京都小笠原氏など同族間ネットワークをもつ京に滞在し在京奉公を行う。永禄4年(1561年)には北信豪族を庇護し武田氏と川中島の戦いを繰り広げていた上杉謙信に長時の帰国支援が命じられるが、川中島合戦は永禄4年を境に収束し、長時の帰国は実現していない。
その後は将軍・義輝の没落と御館の乱により長時は会津へ逃れる。天正10年(1582年)、武田遺領を巡る天正壬午の乱においては長時の弟である小笠原洞雪斎が越後上杉氏の支援を受け、小笠原旧臣の助力を得て木曾義昌から深志城(松本城)を奪還する。洞雪斎は上杉氏の傀儡であったといわれ、長時の3男の貞慶は徳川家康に仕え、小笠原旧臣の支持を得て深志城を奪還する。 ウィキペディアより

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