和田城は長野県長和町和田にあります。
和田城地図
国道142号線の信号役場前から県道178号線に入ります。信定寺(この寺は大井信定の菩提寺)を過ぎて、東へ廻ると大きな碑があり、登り口があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/b3/aeaa86f3b2e3ecd879543277a0b65710.jpg)
信定寺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/b1/64dec2d8ca378d27c1d9ee3009f6938c.jpg)
遠景
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/70/4a8c72c8b6e7174d94eb6efbcbf7836d.jpg)
和田宿、街道沿いの町並みには中山道の宿場町の面影が残っています。ここで食べたおそばがおいしかったです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/99/e4cbd72073cc71f7aa4efba80e315f2a.jpg)
和宮様が宿泊した本陣跡、700円?史料があり見学ができます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/f6/092d570585502fb18f464d982eba920b.jpg)
信定寺を過ぎて100mくらい東回りに、この釈迦堂橋の碑があり、この奥に登り道があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/c9/ac55221ca06ca2ddd252c84fa00d7883.jpg)
遊歩道を登って10分くらいで尾根に着き、土橋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/a1/3ff283d269a09bb8cefcaf2423998d18.jpg)
曲輪にお堂が建てられています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/23/85772fe05f4b20fd10a076121088fec2.jpg)
中曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/2f/dc39562890df3a8fafb74807bb5e559a.jpg)
宮坂氏はこれを本丸としています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/cb/eec84db48f32a34fac986257049fe37a.jpg)
本丸を南から見ています。右手に東虎口
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/07/87f457521ab729c68ecc0e726ba38e86.jpg)
東虎口を見下ろしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/34/24cabcdb9faeda314a4a23754847c42c.jpg)
本丸南西下の大堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/c3/8d1a56e45ec622e1dc2bdedf51d10cfb.jpg)
大堀切の先は一段の曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/55/c66111cbaaa40fc84702141111087aa2.jpg)
この尾根を見て、最初に来たときは戻ってしまいました。ここからとんでもなく長い縄張りが控えていますが次回とします。
大井氏について
大井氏は清和源氏小笠原氏の一族で、信濃国佐久郡大井郷を名字の地とする。すなわち、小笠原長清の七男朝光が大井庄の地頭となり、岩村田を本拠にし大井氏を称するようになったという。大井氏の系図については、『小県郡史』『尊卑分脈』『系図纂要』『群書類従』など、各本伝わっているがいずれも史料に照らして正しいものはない。
大井氏の祖とされる朝光は、承久三年(1221)五月の「承久の乱」に幕府軍に従って、小笠原長清父子らと甲斐・信濃の軍勢五万を率いて東山道より上洛し、宇治川の合戦で功を挙げ、戦後、その功により大井庄を賜ったという。朝光の子光長は、鎌倉幕府四代将軍藤原頼経、五代藤原頼嗣、六代宗尊親王の三代に仕えた。七人の男子があり、嫡子時光は大室に、二男光泰は長土呂に住し、四男の行氏は耳取、五男宗光は森山、六男光盛は平原に住し、七男の光信は僧になり、大井法華堂を開基したと伝える。そして、大井氏の家督は三男の行光が継いだ。
行光のとき、同じ佐久郡内伴野荘の地頭で小笠原家惣領職にあった伴野氏が「霜月の乱」によって一族誅滅にあうということが起こり、以後、佐久郡は大井一族が繁栄することになった。 武家家伝より
和田城地図
国道142号線の信号役場前から県道178号線に入ります。信定寺(この寺は大井信定の菩提寺)を過ぎて、東へ廻ると大きな碑があり、登り口があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/b3/aeaa86f3b2e3ecd879543277a0b65710.jpg)
信定寺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/b1/64dec2d8ca378d27c1d9ee3009f6938c.jpg)
遠景
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/70/4a8c72c8b6e7174d94eb6efbcbf7836d.jpg)
和田宿、街道沿いの町並みには中山道の宿場町の面影が残っています。ここで食べたおそばがおいしかったです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/99/e4cbd72073cc71f7aa4efba80e315f2a.jpg)
和宮様が宿泊した本陣跡、700円?史料があり見学ができます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/f6/092d570585502fb18f464d982eba920b.jpg)
信定寺を過ぎて100mくらい東回りに、この釈迦堂橋の碑があり、この奥に登り道があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/c9/ac55221ca06ca2ddd252c84fa00d7883.jpg)
遊歩道を登って10分くらいで尾根に着き、土橋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/a1/3ff283d269a09bb8cefcaf2423998d18.jpg)
曲輪にお堂が建てられています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/23/85772fe05f4b20fd10a076121088fec2.jpg)
中曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/2f/dc39562890df3a8fafb74807bb5e559a.jpg)
宮坂氏はこれを本丸としています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/cb/eec84db48f32a34fac986257049fe37a.jpg)
本丸を南から見ています。右手に東虎口
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/07/87f457521ab729c68ecc0e726ba38e86.jpg)
東虎口を見下ろしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/34/24cabcdb9faeda314a4a23754847c42c.jpg)
本丸南西下の大堀切
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/c3/8d1a56e45ec622e1dc2bdedf51d10cfb.jpg)
大堀切の先は一段の曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/55/c66111cbaaa40fc84702141111087aa2.jpg)
この尾根を見て、最初に来たときは戻ってしまいました。ここからとんでもなく長い縄張りが控えていますが次回とします。
大井氏について
大井氏は清和源氏小笠原氏の一族で、信濃国佐久郡大井郷を名字の地とする。すなわち、小笠原長清の七男朝光が大井庄の地頭となり、岩村田を本拠にし大井氏を称するようになったという。大井氏の系図については、『小県郡史』『尊卑分脈』『系図纂要』『群書類従』など、各本伝わっているがいずれも史料に照らして正しいものはない。
大井氏の祖とされる朝光は、承久三年(1221)五月の「承久の乱」に幕府軍に従って、小笠原長清父子らと甲斐・信濃の軍勢五万を率いて東山道より上洛し、宇治川の合戦で功を挙げ、戦後、その功により大井庄を賜ったという。朝光の子光長は、鎌倉幕府四代将軍藤原頼経、五代藤原頼嗣、六代宗尊親王の三代に仕えた。七人の男子があり、嫡子時光は大室に、二男光泰は長土呂に住し、四男の行氏は耳取、五男宗光は森山、六男光盛は平原に住し、七男の光信は僧になり、大井法華堂を開基したと伝える。そして、大井氏の家督は三男の行光が継いだ。
行光のとき、同じ佐久郡内伴野荘の地頭で小笠原家惣領職にあった伴野氏が「霜月の乱」によって一族誅滅にあうということが起こり、以後、佐久郡は大井一族が繁栄することになった。 武家家伝より