山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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埴原城⑫

2017-06-22 21:10:31 | 山城ー信州
埴原城はこの記事で最後になります。各尾根の遺構がよく見ることができています。私は3時間をかけて見て回りましたが、全貌を見ておられない方は、この機会に出かけてください。

南西尾根から戻って、蓮華寺に向かいます。前に見える中央尾根を下ります。

中央尾根の左手の山道通りに歩いて、薮に向かい進めば、蓮華寺の左尾根になります。

中央尾根を下り、

尾根の真ん中に壕が貫いています。

中央第一堀切

第二堀切

第三堀切

中央尾根第一曲輪

第二曲輪

屋敷跡1

登り口(こちらが大手でしょうか。)








俯瞰図は「信濃の山城と館4」より

小笠原長時
長時はしばらくして上杉氏のもとへ移り[10]、天正6年(1578年)の謙信死後は御館の乱で上杉景虎の使者を果たすが[11]、上杉景勝が上杉氏の家督を継承すると越後を離れた。天正8年(1581年)には織田信長に迎えられ、信濃の名義上の旗頭として利用される。信長の京都御馬揃えには公家衆の一人として参加した。後、会津の蘆名盛氏に客分として迎えられる。盛氏の下で長時は厚遇され、また軍師として戦略面で盛氏の支援も担当したという[12]。
天正11年(1583年)2月25日、会津で死去。享年70。この前年の天正10年(1582年)3月に武田氏が織田氏に滅ぼされ、蘆名家には同行せず織田家に残り信長に仕えていた三男の小笠原貞慶(貞慶については長篠の戦いの頃から信長に仕えていた形跡がある)が、本能寺の変以後に徳川家康に臣従して旧領を回復した。

死因について
小笠原長時は天正11年2月に死去しているが、長時は自然死とする説がある一方で、『二木壽斎記録』「豊前豊津小笠原家譜」「異本塔寺長帳」『笠系大成』『信府統記』などによれば、長時は家臣の坂西某により側室(梅室春香)・息女三人とともに殺害されとしている[13][14]。林哲は長時の死因は家臣による殺害であると指摘している[15]。
長時の死因を斬殺とする史料によれば、長時は蘆名四天王の一人、富田氏実の邸宅で酒宴を催していた。その時、長時が家臣の坂西勝三郎の妻にセクシャルハラスメントまがいのことをした。それに激怒した坂西が抜刀し、長時とその妻・娘を斬り殺したという[16]。坂西はその後逃走を図るが、星安芸守と日出山詮次に殺された[17]。
坂西勝三郎の行動については、酒に酩酊して拡大解釈・勘違いをして長時一家を殺した可能性もあると指摘されている[18]。
現在では、殺害されたという見解が定説となっている。会津若松市による郷土の人物紹介でも「家臣に殺害された」と表記している他[19]、「国史大辞典」、「朝日日本歴史人物事典」も、長時の死因を家臣による殺害としている ウィキペディアより


長時は病死とばかりに思っていましたが、このような説があるとは知りませんでした

次回 和田城

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