山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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和田城②

2017-06-24 10:41:04 | 山城ー信州
南西尾根を歩きます。


大堀切を振り返って見ています。二重堀でした。

尾根を進むと浅い堀切が見えてきました。

堀切が二段見えます。間に曲輪

虎口

堀切

この堀切は東側に竪堀が繋いであります。

二重堀

二重堀の奥にある堀

奥の堀から東に竪堀

尾根を進み

ねじれたような面白い堀切

ここにも竪堀

尾根が続きます。

西南曲輪1(仮に)

堀切

西南尾根はまだ半ばです。以後は次回に

大井氏②
南北朝内乱期の大井氏

 伴野氏が没落すると、小笠原惣領職は京都小笠原氏の長氏に移った。元弘の乱に際して、長氏の子宗長、その子貞宗らは、はじめ幕府軍に加わっていたが、後醍醐天皇方に寝返った足利尊氏の書状によって天皇方に加わった。建武二年(1334)信濃の諏訪氏を中心とする神氏一党が北条高時の遺児時行を擁し、鎌倉に攻め上った。いわゆる「中先代の乱」が起きると、小笠原貞宗は後醍醐天皇から信濃守護に任ぜられ、信濃国内の北条与党の討伐を命じられた。
 北条時行から鎌倉を奪回した足利尊氏は、天皇からの帰京命令に応じずそのまま鎌倉にとどまり、信濃守護の小笠原貞宗に勲功の賞として住吉荘など三ケ所を与えた。このような尊氏の態度に対し、後醍醐天皇は足利尊氏討伐を決定し、新田義貞を大将に命じて東海・東山両道から大軍を発した。小笠原貞宗・信濃惣大将村上信貞らは尊氏方となって、信濃武士を率いて東山道軍を佐久郡大井荘大井城に迎え撃った。当時の大井荘の地頭は行光の子朝行で、同じ小笠原一族という関係からも信濃守護小笠原貞宗に従い、貞宗からもっとも信頼されていた。のちに、朝行の甥にあたる大井甲斐守光長が貞宗の子政長の守護代を勤めており、両者が固い結合をもっていたことがうかがわれる。
 さて、官軍に包囲された大井城は、一万余騎の敵を迎え撃ちよく戦った。足利直義の檄文を受けた小笠原貞宗・村上信貞らも兵をあわせて大井城を救援した。両軍、激しい戦いを展開したが大井城は落城した。大井城を落とした東山道軍は関東平野に出て、新田義貞の東海道軍と呼応して鎌倉へ攻め込もうとした。しかし、義貞軍は箱根竹ノ下の戦いに大敗して総崩れとなり京都に退却してしまった。尊氏軍は義貞軍を追って京都に攻め上り京都を占領した。これに対して後醍醐方の陸奥鎮守府の北畠顕家が攻め上って尊氏軍と戦い、尊氏を京都から追い落とした。敗れた尊氏は九州に落ち、九州南朝方の雄菊池軍と多々良浜に戦い、辛うじてこれを破って戦備を整え直した。そして、九州・四国・中国をその勢力下におさめ、ふたたび京都に兵を進めたのである。
 上洛する尊氏軍は、五月、迎え撃つ新田義貞・楠木正成の軍を兵庫に戦って、摂津湊川に正成を討ち取り義貞を敗走させた。この敗戦により、後醍醐天皇は京都を捨て、比叡山に逃れたが尊氏に降伏、ついには吉野に落ちていった。一方、尊氏は光巌天皇をたてて北朝を樹立し幕府をひらいた。以後、日本全土に南北朝の内乱が続くことになる。この間、大井城合戦に敗れた大井朝行は大井城の復旧をしながら、小笠原貞宗に属して、信濃国内の北条残党の討滅戦に参加していたようだ。武家家伝より


埴原城主と伝わる小笠原貞宗に佐久の大井朝行が属していた。大井氏は和田大井氏・佐久大井氏・長窪大井氏と三家あると言われております。





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