本丸と周辺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/f7/f9f9d231fc17638c452460f8945f9d54.jpg)
本丸全体
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/d2/7c301dfa96b9133b1cb5fa66f3f13b67.jpg)
本丸西下の空堀と二つの虎口
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/de/5a1aae7b4e80123e4fc3906097eab2c3.jpg)
西虎口
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/5b/ae9e304e173d4d6626dd3ff74b06e2d0.jpg)
西虎口と下段の帯曲輪との連携
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/0d/e94447140a4506dcdf97f87d532c3126.jpg)
西虎口の南30m先にある南西虎口
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/27/035cea02ee4bf2e8e5d81ba570130a42.jpg)
南西虎口を壕で受けています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/64/cb961db0c9cb250c3a24148c23bb25a7.jpg)
本丸を南から見ています。現在は梅林になっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/dd/16af38164fac3cfb50912b9f0a31d679.jpg)
本丸東にある空堀
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/63/d44c8d534ce52be312f037b3127a53cf.jpg)
俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より
次回 本丸南下曲輪へ
益子氏について
下野国の益子氏(宇都宮氏家臣)
益子氏の本姓は紀氏。家系は孝元天皇の血筋で応神天皇、神功皇后の大臣であった武内宿禰の末裔である。遠祖は諸説あり、大納言紀長谷雄、征東大将軍紀古佐美あるいは土佐守紀貫之ともいわれる。下野守護 宇都宮氏の重臣で同国の有力武士団 紀党の棟梁でもある。下野国芳賀郡益子邑を拠点に600町を有し、西明寺城をはじめとする八木岡城、上三川城諸城の城主でもあった。家紋は左三つ巴、隅切り角に左三つ巴、子持ち左巴、丸に片喰、丸に下がり藤、丸に三つ引き。
鎌倉・室町時代~宇都宮氏重臣としての活躍~
益子氏は紀貞隆の次男益子正隆を初代とし、三代益子正重は源頼朝が奥州藤原氏打倒の兵を挙げた際に宇都宮朝綱を大将に奉じ2万の兵を率い従軍、益子氏の率いる紀党と芳賀高親率いる清党がとともに宇都宮氏の属下として抜群の武功を顕わした。この時、益子氏と芳賀氏は頼朝から源氏の白旗一流ずつを贈られたことが後世まで益子氏の栄誉とされ、世にその武勲を知らしめる端緒となった。この益子氏率いる紀党と芳賀氏率いる清党こそ宇都宮氏幕下の二大武士団 紀清両党として知られるようになったのである。とりわけ、益子氏の隆盛の基盤となったのは、後に下野守護職を世襲する宇都宮氏の祖 藤原宗円の母が益子正隆の女であったことによるところが大きい。鎌倉時代を通じて宇都宮氏が下野国内で大名化するにつれ、益子氏は宇都宮氏の重臣かつ下野国芳賀郡益子城主としてその武力を支えたのである。益子氏の家紋は主家・宇都宮氏同様、左三つ巴であり、おそらく主家から拝領したものと考えられる。 ウィキペディアより
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本丸全体
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本丸西下の空堀と二つの虎口
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西虎口
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西虎口と下段の帯曲輪との連携
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西虎口の南30m先にある南西虎口
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南西虎口を壕で受けています。
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本丸を南から見ています。現在は梅林になっています。
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本丸東にある空堀
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俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より
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益子氏について
下野国の益子氏(宇都宮氏家臣)
益子氏の本姓は紀氏。家系は孝元天皇の血筋で応神天皇、神功皇后の大臣であった武内宿禰の末裔である。遠祖は諸説あり、大納言紀長谷雄、征東大将軍紀古佐美あるいは土佐守紀貫之ともいわれる。下野守護 宇都宮氏の重臣で同国の有力武士団 紀党の棟梁でもある。下野国芳賀郡益子邑を拠点に600町を有し、西明寺城をはじめとする八木岡城、上三川城諸城の城主でもあった。家紋は左三つ巴、隅切り角に左三つ巴、子持ち左巴、丸に片喰、丸に下がり藤、丸に三つ引き。
鎌倉・室町時代~宇都宮氏重臣としての活躍~
益子氏は紀貞隆の次男益子正隆を初代とし、三代益子正重は源頼朝が奥州藤原氏打倒の兵を挙げた際に宇都宮朝綱を大将に奉じ2万の兵を率い従軍、益子氏の率いる紀党と芳賀高親率いる清党がとともに宇都宮氏の属下として抜群の武功を顕わした。この時、益子氏と芳賀氏は頼朝から源氏の白旗一流ずつを贈られたことが後世まで益子氏の栄誉とされ、世にその武勲を知らしめる端緒となった。この益子氏率いる紀党と芳賀氏率いる清党こそ宇都宮氏幕下の二大武士団 紀清両党として知られるようになったのである。とりわけ、益子氏の隆盛の基盤となったのは、後に下野守護職を世襲する宇都宮氏の祖 藤原宗円の母が益子正隆の女であったことによるところが大きい。鎌倉時代を通じて宇都宮氏が下野国内で大名化するにつれ、益子氏は宇都宮氏の重臣かつ下野国芳賀郡益子城主としてその武力を支えたのである。益子氏の家紋は主家・宇都宮氏同様、左三つ巴であり、おそらく主家から拝領したものと考えられる。 ウィキペディアより