山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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村上城②

2017-09-18 19:04:14 | 山城ー野州
本の紹介

この頃は海道龍一朗氏の著書を好んで読んでおります。川中島を舞台に日記形式で信玄が茶臼山に陣取り、謙信は妻女山に籠りお互いの戦略、心を洞察しながら時間が経過してゆきます。進言が茶臼山に陣を張ったのは囲碁の手で合わせの手、相手に合わせて鏡のように相手の動きを待つという。しかし、謙信は妻女山で動かない。また一方で謙信が妻女山を下り、善光寺の後詰と挟み撃ちに動けば、逆に海津城の兵と茶臼山の本隊とで、妻女山を下りたときに挟み撃ちにする構えであるという。なかなか著者の深い読みで感心をしながら読んでおります。

村上城


内堀

外堀

縄張り図、南虎口から入り、東側の堀を歩いています。図のように本丸を中心に一周しております。南下野は高い山が少なくて、このような深堀を築いて守っております。

外濠の西虎口

登ってゆくと平原のようですが、外濠を突破した敵兵は、この土塁によって手ひどい攻撃を受けることになります。

内側に土塁で囲まれ、西虎口

内堀の西虎口を横から見ています。

堅固な内側土塁

内堀の土塁と西本丸虎口から本丸を見ています。

村上氏は益子氏の一族で、この地域を守っていたようです。

戦国期の益子氏(宇都宮氏の家臣でありながら、独立の道を歩もうとしていたようです。)
戦国時代~主家との反目~
戦国時代以降、関東をめぐる情勢は再び不安定化しはじめるようになった。結果、下野南部に隆盛を誇った益子氏も宇都宮家臣であると同時に、独立領主でもあるという立場から戦乱の渦中に呑みこまれていったのである。
天文8年(1532年)には、芳賀氏など他の宇都宮家臣との対立から益子勝清が、宇都宮氏を一時離反する事態が起こり、さらに同15年(1546年)には勝清の庶子であった益子勝宗が益子本家に謀叛を起こし、兄で益子宗家の家督を継いでいた益子勝家親子を攻め滅ぼして、家督に収まるという事件が勃発した。
一連の事態を造反とみた主君 宇都宮氏は益子勝宗を謀反人と見做し、益子氏の追討に乗り出すことになった。対する、勝宗は主家に対抗するため、常陸国の結城氏配下の水谷氏に一時、属して、一時これに反抗するも、再び宇都宮家に帰順し事なきを得た。しかし、その後も勝宗は下野国内における勢力拡大に野心を抱いたことから、永禄2年(1559年)、七井の矢島城を陥落させて領地を拡大、それから20余年の時を経た天正4年(1576年)には七井城を築いて五男 勝忠を城主として据え、七井氏を名乗らせるなど、下野国内の国人領主としての勢力を広げていった。さらに同年には、高館城を修築し、本拠を益子城より移すなど自身の勢力基盤の確立に力を注ぐようになったのである。
益子氏の独立性はその対外政策の面でも顕著となっていった。主家である宇都宮家自身が親上杉派であるのに対して、勝宗率いる益子氏は親北条派であったとされるなど、主家とは異なる路線を取るようになっていったのである。とりわけ、益子勝宗は主家と別に独自に甲斐の武田信玄と親交を深め、信玄の上野国侵攻時にはこれに呼応して出兵し、その軍功から武田信玄より感状を贈られるなど外交のみならず軍事面でも親武田の姿勢が見られた。殊に、武田信玄から勝宗に贈られた感状には此度之武功無比類儀候」と記されており、嫡男の元服に際して「仍家名之信字進之候」即ち信玄の俗名 晴信の一字信の字を偏諱を授けられ、益子信勝と名乗らせ、さらに嫡男元服に際して祝の品として則光の刀も贈られているなど宇都宮家臣ながら武田方に臣従するかのような姿勢をとっているのも益子氏の独自路線を顕著に示している。但し、一方で天正6年(1578年)、武田勝頼が上野に侵攻すると、宇都宮氏など下野をはじめとする北関東諸将はこぞって反武田につき、益子氏も小田氏の家臣信田彌四郎らとともに勝頼の陣へ夜襲をかけ、益子氏は内藤昌月と跡部勝資を敗走させ、この功により勝宗は主君 宇都宮国綱から感状が贈られている。この結末を見る限り、益子氏の独自外交はあくまで益子氏の独立領主としての立場を生かした宇都宮家の調略の一環であったということができる。ウィキペディアより

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