山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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西明寺城④

2017-09-24 18:30:41 | 山城ー野州
北尾根へ(またの機会に未踏査の尾根を見なくてはと思っております。)

北尾根を進み

北尾根第三虎口

尾根が続きます。この北尾根が曲輪であれば益子氏は多くの兵を養う力があったと言えます。

第四虎口

段差を設けている曲輪

北尾根最後の曲輪

第五虎口、ここで城域です。

小田原征伐直前の南下野の情勢(宇都宮氏に反旗を翻した諸城)
小田原征伐直前には、鹿沼城、真岡城、壬生城などの周辺諸城が全て北条に寝返っており、国綱は拠点を平城の宇都宮城から山城の多気城に移さざるを得ない状況にまで追い詰められ、施策としては秀吉の出陣を願うのみとなっていた

鹿沼城
鹿沼城の起源は、1292年(正応5年)に二荒山神社に唐銅を奉献した佐野氏の支族・鹿沼権三郎が、この城から西に500mほどの所にある坂田山に本拠を構えた事から始まる[1]。坂田山の城がいつ頃築城されたのかは不明。
その後の200年間は、鹿沼氏がどのように経過したのかは分かっていない[1]。
戦国時代に入ると、鹿沼氏は東隣の宇都宮氏から圧迫を受け、大永年間の頃、宇都宮忠綱に攻め滅ぼされる[1]。
鹿沼氏を滅ぼした宇都宮氏は、この周辺の支配を壬生綱重に任せる。壬生綱重は坂田山館を改築して居城としたが、1532年(天文元年)に嫡子の壬生綱房が御殿山を中心に城を築き鹿沼城とし[1]、以後は壬生氏の居城となる。
その後、関東で小田原北条氏が台頭してくると壬生義雄は宇都宮氏から離反し、北条氏に従属するようになる。
1590年(天正18年)、小田原征伐で壬生氏が北条方に加担し、義雄が戦後急死したため壬生氏は断絶。鹿沼城も廃城となった。
現在は、御殿山公園となっている[


真岡城
真岡城の起源には諸説あるが、鎌倉時代末期の貞治元年(1362年)に芳賀高貞が築城して御前城から移転し、戦国時代の天正5年(1577年)になって、芳賀高継が北条氏の侵攻に備えて堅固な城郭としたとの説が有力とされる[要出典]。
1597年(慶長2年)に宇都宮氏が豊臣秀吉によって改易されると同時に廃城となった。江戸時代には遺構の一部が徳川幕府の代官所として利用された。
現在の状況[編集]
真岡城跡は現在、真岡市立真岡小学校ならびに城山公園となっている。城山公園には土塁や堀の痕跡が見られる。また、郭の周囲を囲んでいた腰曲輪は比較的良好な形状で保たれている。城山公園付近に四の郭が、小学校付近に三の郭、二の郭、本郭が所在していた。三の郭、二の郭、本郭の各郭間は空堀で仕切られていたが、現在、空堀はなく土塁のみが残る。


壬生城主 壬生義雄
父・綱雄は後北条氏と手を結び宇都宮氏からの独立を画策していたが、綱雄の叔父・周長は一貫して宇都宮氏への従属姿勢を取り、綱雄と対立する。そして天正4年(1576年)、綱雄は暗殺され、周長が壬生氏本拠の鹿沼城主となる。同年、周長は続いて義雄の籠る壬生城を攻めたが、義雄が勝利し周長は殺害される。
一時期は佐竹義重の影響力の拡大に伴ってその傘下に入って後北条氏と戦っているが、天正13年(1585年)12月には結城晴朝の説得を拒否して後北条氏方に離反、勢いづいた北条軍が宇都宮・多気山両城を攻撃したことから、翌年には佐竹氏・宇都宮氏の攻撃を受けている[1]。
天正15年(1587年)10月9日に、南会津の奥州長沼氏へ日光近辺の緊迫した政治状況を書いた書状を送っている。敵対している宇都宮氏が交通の要衝である倉ケ崎に城を構えたため、軍事的な脅威を感じ、後北条氏に報告し、後北条氏による軍勢の派遣を約束した[2][3]。
義雄も父・綱雄同様、後北条氏と手を結んで宇都宮氏から独立して抗争する。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐のとき、北条氏に味方して小田原城に立て籠もったが、小田原落城の直後に病死した(『異説小田原記』などによると、皆川広照によって毒殺されたという説もある)といわれる。義雄には娘しかおらず、男子の跡継ぎがなかった為に、壬生家は断絶した。すべてウィキペディアより引用


次回 宇都宮氏の本城 多気山城




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