勝山城は栃木県さくら市(旧氏家町)氏家にあります。
勝山城地図
栃木には丘陵地に大きな空堀を設けての名城があります。その一つとして勝山城をまず紹介します。
勝山城案内図
東虎口
本丸東側の空堀
慰霊等を後方に見ています。
本丸北側の空堀
慰霊等脇にある解説版
本丸北下にある二段の空堀(上段)
北側の二段の空堀(下段)
慰霊等
本丸東側の空堀
本丸への橋
本丸南側の空堀
次回 二の丸南曲輪
氏家氏について
氏家氏は、藤原北家宇都宮氏流といわれ、宇都宮朝綱の子公頼が下野国芳賀郡氏家郷を領し、氏家を名乗ったことに始まる。「宇都宮系図」によれば、公頼の弟にあたる人物として小田氏の祖となる八田知家がおり、氏家氏は早い段階に宇都宮氏から分かれた家であった。
一説には、公頼から三代の経朝の甥重定が、鎌倉時代の正安年中(1299~1301)に越中に移り、南北朝時代初期の建武四年(1337)奥州探題に任ぜられた斯波兼頼の執事として随行したのが奥州氏家氏の始めという。しかし、南朝方の新田義貞を越前国藤島に攻めて討ち取ったのは斯波高経で、奥州探題となった家兼は高経の弟である。加えて先の斯波兼頼は家兼の子で、出羽按察使として出羽に入った人物である。
『美濃国諸旧記』の「氏家のこと」によれば、氏家氏は越中の出身だとしている。すなわち「氏家の先祖は、越中の国の住人なり。中頃足利尾張守高綱の与力にして、氏家中務丞重国というて、延元のころ、北国の戦に武功あり。殊に延元二年閏七月二日、越前国足羽郡藤島の郷に於いて、新田義貞の首を取って、京都に差し上げける。尊氏将軍、其功を賞せられて、美濃国にて闕所の地を多数給わり、是より当国に来り、石津郡高須の庄に住せり」と記されている。 武家家伝より
勝山城地図
栃木には丘陵地に大きな空堀を設けての名城があります。その一つとして勝山城をまず紹介します。
勝山城案内図
東虎口
本丸東側の空堀
慰霊等を後方に見ています。
本丸北側の空堀
慰霊等脇にある解説版
本丸北下にある二段の空堀(上段)
北側の二段の空堀(下段)
慰霊等
本丸東側の空堀
本丸への橋
本丸南側の空堀
次回 二の丸南曲輪
氏家氏について
氏家氏は、藤原北家宇都宮氏流といわれ、宇都宮朝綱の子公頼が下野国芳賀郡氏家郷を領し、氏家を名乗ったことに始まる。「宇都宮系図」によれば、公頼の弟にあたる人物として小田氏の祖となる八田知家がおり、氏家氏は早い段階に宇都宮氏から分かれた家であった。
一説には、公頼から三代の経朝の甥重定が、鎌倉時代の正安年中(1299~1301)に越中に移り、南北朝時代初期の建武四年(1337)奥州探題に任ぜられた斯波兼頼の執事として随行したのが奥州氏家氏の始めという。しかし、南朝方の新田義貞を越前国藤島に攻めて討ち取ったのは斯波高経で、奥州探題となった家兼は高経の弟である。加えて先の斯波兼頼は家兼の子で、出羽按察使として出羽に入った人物である。
『美濃国諸旧記』の「氏家のこと」によれば、氏家氏は越中の出身だとしている。すなわち「氏家の先祖は、越中の国の住人なり。中頃足利尾張守高綱の与力にして、氏家中務丞重国というて、延元のころ、北国の戦に武功あり。殊に延元二年閏七月二日、越前国足羽郡藤島の郷に於いて、新田義貞の首を取って、京都に差し上げける。尊氏将軍、其功を賞せられて、美濃国にて闕所の地を多数給わり、是より当国に来り、石津郡高須の庄に住せり」と記されている。 武家家伝より