山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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小坂城④

2017-07-06 18:40:58 | 山城ー信州
北尾根をさらに歩きます。


堀切エから、この尾根を見れば、ここまでだと思い引き返す方が多いのでは、しかしここを登って連続堀切が現れます。

山道は右下にあり、道を登っては、この曲輪を見逃してしまいます。

曲輪11の城壁

曲輪11

縄張り図は「信濃の山城と館2 更埴・長野編」曲輪11から

堀切オ

ここから山道と合流します。この大岩は、気にせず通り登っていましたが、良く見れば虎口のようです。

櫓台のような台状の遺構

この櫓台を登れば、堀切と瘤を併用した細尾根に繋がり、堀切キが口を開いています。

堀切キを振り返って見ています。

堀切ク

堀切ケ

堀切コ

北尾根曲輪12(私が名付けています。)、宮坂氏はここで引き返してしまったようです。しかし、この先は次回とします。


天文二十二年の合戦後、武田領となり城主が保科弾正義昌となる。

保科氏について
建武2年(1335年)には中先代の乱において北条方残党を擁立する諏訪氏や滋野氏に同調した保科弥三郎が北条氏知行地に属していた四宮左衛門太郎(諏訪氏の庶流と伝えられる)らと共に室町幕府の守護所(千曲市小船山)を襲い青沼合戦を引き起こして敗走する。そして足利方の守護小笠原貞宗や市河氏らの追撃を受けて八幡河原、福井河原、四宮河原を転戦した。だが鎌倉において足利方が勢いを盛り返し保科氏らは清滝城に篭城して抵抗したが攻略された。守護方は反転してこの後牧城へ向けて攻撃を加えている。その後は諏訪氏らとともに南朝勢として活動している。
武田家臣時代から近世大名化
戦国時代になると、南信濃の高遠城主諏訪頼継の家老として「保科弾正」(あるいは筑前守、保科正則)の名が登場する。本来は北信濃の霞台城を本拠とする保科氏が南信濃に移った時期や理由などについては、長享年間に村上顕国との抗争に敗れて高遠に遷移したと見る向きもあるが、今も真相は不明である。但し鎌倉時代以来諏訪神党の一つに数えられたことから、諏訪氏と密接な関係が築かれていたと考えられ、正則のあとを継いだ保科正俊は[2]高遠氏家臣団では筆頭の地位にあったとされる。
天文21年(1552年)に旧主の高遠氏が武田氏の信濃侵攻により滅亡すると、正俊以下の旧家臣団は武田氏の傘下となる。正俊は軍役120騎を勤める高遠城将として数々の戦いで軍功を挙げ、後を継いだ嫡男の正直も高遠城将として、武田氏滅亡時の高遠城主仁科盛信と共に奮戦している。
正直は高遠城落城の際に落ち延び、本能寺の変で信濃の織田勢力が瓦解した後、後北条氏を後ろ盾に高遠城奪還に成功する。そして後北条氏と徳川氏が信濃の旧織田領を巡って対立すると、徳川方に与して高遠城主としての地位を安堵される。ウィキペディアより