花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

存えて(ながらえて)

2011-10-19 07:24:00 | Weblog
 10月17日付の朝日新聞朝刊の俳壇に、「存えて 九月の蝉と なりにけり」という句が掲載されていました。東京都の佐藤正夫さんとおっしゃる方の句です。今年は例年になく、蝉の鳴き声が遅くまで聞かれます。10月の初めに植物園に行った時は、足下では蟋蟀が、頭上では蝉が鳴いていました。さて、この句の蝉も、夏が過ぎ秋が訪れてなお鳴いています。「残暑が長かったからなぁ」と言ってしまえばそれまでですが、人間の気持ちを存えた蝉に仮託しているなら、蝉のはどんな気持ちで鳴いているのでしょうか。
 私はふたりの人物が思い浮かびました。ひとりは、「卯の花の 散るまで鳴くか 子規(ほととぎす)」を詠んだ正岡子規です。肺結核を病んでいることが分かった後に詠んだ句で、「命尽きるまで」的な覚悟が感じられます。
 もうひとりは、田宮虎彦の小説、「霧の中」の主人公である中山荘十郎です。戊辰戦争で薩長に家族を殺され、会津降伏人として日陰者の生活を強いられます。新政府への激しい怨みはあれど、それ晴らす方途を見つけられないまま、すさんだ日々を送ります。そして、時代が経つうちにタイトルの「霧の中」が示すように、確たる敵が見当たらなくなり、死に場を失い、「あっぱれ、荘十郎」といったこともなしえず、寂しく死んでいきます。何事も成さないまま、気がつけば自分の死に場所(同時にそれは生きる場所)がなくなってしまった悲哀を感じさせる小説です。
 存えた九月の蝉は、「命が燃え尽きるまで鳴いてやろう」と思っているのか、あるいは、「何のために鳴いてきたのだろう」と取り残され感を嘆いているのか、人それぞれの読みようがあるでしょう。私自身、両様の読み方の片方を捨てたくはありません。さて蛇足ですが、蝉を詠んだ句で次のような句もあります。「啼きながら 蟻にひかるる 秋の蝉」、これは「卯の花」と同じく正岡子規の句です。しぶとさと虚ろさの両方が読み取れる句です。

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1 コメント

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御礼 (呑亀)
2013-08-19 15:24:11
花・伊太利 様
2年ほど前の朝日俳壇に掲載された拙句にご講評を頂きありがとうございました。ご挨拶が遅くなりました事お許しください。インターネット検索はすごいものですね。情報を重ね検索すると貴方のブログにたどり着きました。少し「花・伊太利」を拝読いたしました。きっと大学で教鞭を執られているいるのでしょうね。博識に驚かせられます。これからもブログを楽しみに拝見させて頂きます。昨年7月よりブログ「俳茶居」をはじめました。よろしければ覗いてみてください。

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