花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

杉下右京の生き方

2020-10-12 20:03:10 | Weblog
(※朝日新聞朝刊連載「折々のことば」風に)

 「人間的であろうとすればするほど、実は社会では生きにくくなる」

 20年目を迎える、ドラマ「相棒」で主役の杉下右京を演じる水谷豊さんは、「右京は人間的ではあるけれども、正義を貫こうとして、組織の中では生きづらくなる」と語っています。右京の信条である正義が組織の論理にぶつかって軋轢を生む場面は、ドラマの見どころのひとつです。世の中では往々にして確立した個よりも、求められるがままに場や状況に合わせられる適応力を良しとしがちです。変化の激しい現今、特にその傾向は強いかもしれません。であれば、右京さんのような生き方が融通の利かない変わり者となってしまうのもうなずけます。

10/10付 朝日新聞朝刊・別刷り「be」掲載の「フロントランナー」から

ぢっと手を見る

2020-10-06 21:26:31 | Weblog
 菅首相は就任の際、国民に「先ずは自助を」と求めました。これを承け、今日の朝日新聞朝刊に3名の方の意見が掲載されました。その中のひとり、NPO法人「暮らしネット・えん」代表理事を務める小島美里さんの言葉が目に留まりました。

 「私たちは健康、職業、受け継いだ資産など色々な要素によって支えられているから自立・自助できる。どれかを持っていなかったり、失ったりすることは『自己責任』ではないはずです。何かの要素を失っても、代わる支えさえあれば自立できる。『自立のための支援』を誰もが受けられる社会にして欲しいと願います。」

 私は総理の「自助」発言があった時、「さぼってないで頑張れよ」みたいな性悪説に近い見方を感じました。でも、頑張っているんだけど大変な人は結構いるんじゃないかと思います。例えば、このコロナ禍の下、苦しんでいる大学生は多く、「高等教育無償化プロジェクトFREE」の調査によると5人にひとりが学業の断念を考えているそうです。

 「高等教育無償化プロジェクトFREE」代表の岩崎詩都香さんはこう言っています。
 「学生は、コロナ禍によって突然困窮したわけではありません。授業料などの学費を稼ぐためにアルバイトをしたり、多額の奨学金を借りたりしている状況がもともとあった。そのうえにコロナ禍が起き、アルバイトをがんばることさえ許されなくなりました。国立大学の授業料の標準額は53万5800円で、半世紀前と比べて45倍くらいに上がっています。私立は平均で100万円近い。一方、非正規雇用が増えたりして、高い学費を負担できる家庭は少なくなっている。そのため、自分の稼ぎだけで学費を出している学生は少なくないし、稼ぐために休学している人もいます。アルバイト漬けで体を壊したり、学業に専念できなかったりするのは本人にとってももったいないし、社会にとっても損です。」

「5人に1人退学検討」の危機:【SDGs ACTION!】朝日新聞デジタル

困窮する学生への支援を訴えてきた「FREE」。コロナ禍で学生の状況は一層深刻になっています。「高等教育の意味」を問い直すよう訴えています。

【SDGs ACTION!】朝日新聞デジタル

 


 こういった学生に「自助」を求めるのは酷でしょう。「共助」と言っても、家族も疲弊しています。そもそも「共助」があれば「自助」が強く求められることはなく、最低限の生活水準の維持においては順番が逆ではないかと思います。「がんばることさえ許されな」い現状があるから、小島美里さんの言葉は説得力があります。

 「はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」
 石川啄木の有名な歌です。働いても働いても、なお、ギリギリで生きている人たち、そんな人に「先ずは自助を」と突き放すような社会にならないことを願います。

あらためて「1940年の想出」

2020-10-03 11:52:09 | Weblog
 日本学術会議の新会員として推薦された150名のうち6名を政府が任命しなかったことについて、菅首相は「法に基づいて適切に対応した結果だ」と述べるにとどまり、6名を除外した理由を明らかにしていません。この6名に共通するのは政府の施策を批判する発言が過去にあったことで、そのことから今回の政府の対応は学問の自由を脅かすものと批判が起こっています。

 任命されなかったひとり、宇野重規東京大学教授のコメントが今日(10月3日付)の朝日新聞朝刊に載っています。いわく、

 「このたびの件について、私の思うところを述べさせていただきます。
 まず、日本学術会議によって会員に推薦していただいたことに感謝いたします。日本の学術を代表する方々に認めていただき、これ以上の名誉はありません。心より御礼申し上げます。
 一方、この推薦にもかかわらず、内閣によって会員に任命されなかったことについては、特に申し上げることはありません。私としては、これまでと同様、自らの学問的信念に基づいて研究活動を続けていくつもりです。政治学者として、日々の政治の推移について、学問的立場から発言していくことに変わりはありません。
 民主的社会を支える基盤は多様な言論活動です。かつて自由主義思想家のジョン=スチュアート・ミルは、言論の自由が重要である理由を以下のように説明しています。もし少数派の意見が正しいとすれば、それを抑圧すれば、社会は真理への道を自ら閉ざしたことになります。仮に少数派の意見が間違っているとしても、批判がなければ多数派の意見は教条化し、硬直化してしまいます。
 私は日本の民主主義の可能性を信じることを、自らの学問的信条としています。その信条は今回の件によっていささかも揺らぎません。民主的社会の最大の強みは、批判に開かれ、つねに自らを修正していく能力にあります。その能力がこれからも鍛えられ、発展していくことを確信しています。」

 宇野教授のコメント読み、私は加藤周一さんの「1940年の想出」(ちくま文庫「夕陽妄語2」所収)が思い出されました。1940年、昭和で言えば15年、日中戦争に批判的な演説を行った斎藤隆夫代議士は衆議院議員を除名され、発言は議事録から削除されました。加藤さんは冒頭そのことに触れ、自由な議論の封殺は民衆主義を損なうと訴えています。次はその中の一部です。

 「異なる意見を統一しようとするのは、反民主主義的である。民主主義をまもるためには、意見の相違を尊重し、批判的少数意見の表現の自由を保障しなければならない。多数意見が現在の問題であるとすれば、少数意見は未来の問題である。少数意見が多数意見となる他に、現在と異なる未来はあり得ない。たとえば、一九四〇年の少数意見が多数意見となったときに、戦後日本の民主主義は成りたった。」

 政治には政治の役割が、学問には学問の役割があり、それぞれの世界に固有の価値に基づいていると思います。政治が学問の世界に関わってくるとすれば、それは国民の文化や生活の向上に鑑み振興を図ることであり、研究や発表の機会を取り上げることではないはずです。また、加藤さんの「少数意見は未来の問題」からすると、少数意見の排除は私たちの未来にも関わってくるわけで、政治本来の役割にも反していると言えるでしょう。息苦しい世の中にならなければ良いのですが。

ヤンキー政権

2020-10-01 19:42:00 | Weblog
 9月30日付の朝日新聞では高橋純子編集委員が安倍政権を「ヤンキーな政治」として振り返っていました(多事奏論「菅政権発足 主権者には力がある、夜露死苦。」)。

 精神科医・斎藤環さんの「ヤンキー論」を援用しながら描き出される安倍政権の「ヤンキー」ぶりを記事から抜き出してみます。なお、ここで言う「ヤンキー」とは反社会的な行動を指すのではなく、「『気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ』という空疎に前向きな感性」のことを呼び、ほかに次のような精神的態度上の特徴があるそうです。「ヤンキーには、『いま、ここ』を生きるという限界があって、歴史的スパンで物事を考えることが苦手」、「徹底した実利思考で『理屈こねている暇があったら行動しろ』というのが基本的なスタンス。主張の内容の是非よりも、どれだけきっぱり言ったか、言ったことを実行できたかが評価のポイント」。


・布マスクを配れば不安はパッと消える。

・ドナルド、ウラジーミル、外国首脳をやたらファーストネームで呼ぶのもそう。「ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」という胸アツスピーチ。

・タガの外れた浅慮や無法は「やんちゃ(行動力)」、依怙贔屓は「仲間思い」に変換され、「でもあいつらマジでこの国のために体張ってっから」てな具合に、まずい結果でさえもびろびろと生温かく受容されていく一方、批判する側は「頑張ってる人間に文句ばっか垂れてるヘタレ」と忌み嫌う。

 「ヤンキー」という視点で見ると、「お友だち政権」、「横車人事」、「森友・加計」、「自分や身内を守るための嘘(情報の隠蔽・改ざん)」、「桜を見る会」などなど、安倍政権の徒党的、あるいは家産制的性格にもうなずけます。安倍内閣とは安倍一家だったのかもしれません。人と人とのエモーショナルな関係に価値を置くとすれば、そこに関わってくるのは権力に近い人たち、取り巻きや大企業に便宜を図るならば、その諸施策の結果が格差社会、こういう見方は飛躍し過ぎでしょうか。