道徳教科書の検定に際してパン屋を和菓子屋に、アスレチックの公園が和楽器店へ書き換えられたことがニュースになっています。このことを池上彰さんはどう見ているかが今日の朝日新聞朝刊に載っていました。文部科学省が指導要領にある「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という点が足りないと言ったのに対して、教科書会社が書き換えを行った訳ですが、池上さんは次のように見ています。「文科省は細かい点を指摘し、その後の修正は教科書会社に任せる。その結果、教科書会社は文科省の顔色をうかがって忖度し、『和菓子屋』や『和楽器店』を持ち出す、という構造になっています。小学校の道徳で教えなければならない項目は、学習指導要領で学年により19~22項目あります。その中には『個性の伸長』という項目もありますが、教科書会社に忖度させて、内容をコントロールさせる。ここに個性の出番はありません。」もっともな意見です。
また、池上さんとは違う角度から、私も文科省は変だと思いました。道徳と言うからには、人と人との関係を良くする、社会を良くするといった、外へ広がっていくベクトルがあるはずです。あるいは少し風呂敷を広げるなら、普遍的な価値を目指す部分を持つべきだと言っても良いかもしれません。それに反して、文部科学省は特殊性に重きを置こうとしているかのように感じられます。思い過ごしかもしれませんが、日本的なるものに偏った愛着を持つようになれば、そこからは排他性が生まれ、道徳本来の目的とは乖離してしまうのではないかと気になります。
ともあれ、道徳の教科書に関わる人たちが、狭い世界でいびつな人間関係を形成していることは、悲しい逆説と言えるでしょう。どうせ忖度するのなら、日本中の人たち、いや世界中の人たちのことを忖度してもらいたいものです。
また、池上さんとは違う角度から、私も文科省は変だと思いました。道徳と言うからには、人と人との関係を良くする、社会を良くするといった、外へ広がっていくベクトルがあるはずです。あるいは少し風呂敷を広げるなら、普遍的な価値を目指す部分を持つべきだと言っても良いかもしれません。それに反して、文部科学省は特殊性に重きを置こうとしているかのように感じられます。思い過ごしかもしれませんが、日本的なるものに偏った愛着を持つようになれば、そこからは排他性が生まれ、道徳本来の目的とは乖離してしまうのではないかと気になります。
ともあれ、道徳の教科書に関わる人たちが、狭い世界でいびつな人間関係を形成していることは、悲しい逆説と言えるでしょう。どうせ忖度するのなら、日本中の人たち、いや世界中の人たちのことを忖度してもらいたいものです。