花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

嗤うに笑えない話

2017-03-31 22:48:02 | Weblog
 道徳教科書の検定に際してパン屋を和菓子屋に、アスレチックの公園が和楽器店へ書き換えられたことがニュースになっています。このことを池上彰さんはどう見ているかが今日の朝日新聞朝刊に載っていました。文部科学省が指導要領にある「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という点が足りないと言ったのに対して、教科書会社が書き換えを行った訳ですが、池上さんは次のように見ています。「文科省は細かい点を指摘し、その後の修正は教科書会社に任せる。その結果、教科書会社は文科省の顔色をうかがって忖度し、『和菓子屋』や『和楽器店』を持ち出す、という構造になっています。小学校の道徳で教えなければならない項目は、学習指導要領で学年により19~22項目あります。その中には『個性の伸長』という項目もありますが、教科書会社に忖度させて、内容をコントロールさせる。ここに個性の出番はありません。」もっともな意見です。
 また、池上さんとは違う角度から、私も文科省は変だと思いました。道徳と言うからには、人と人との関係を良くする、社会を良くするといった、外へ広がっていくベクトルがあるはずです。あるいは少し風呂敷を広げるなら、普遍的な価値を目指す部分を持つべきだと言っても良いかもしれません。それに反して、文部科学省は特殊性に重きを置こうとしているかのように感じられます。思い過ごしかもしれませんが、日本的なるものに偏った愛着を持つようになれば、そこからは排他性が生まれ、道徳本来の目的とは乖離してしまうのではないかと気になります。
 ともあれ、道徳の教科書に関わる人たちが、狭い世界でいびつな人間関係を形成していることは、悲しい逆説と言えるでしょう。どうせ忖度するのなら、日本中の人たち、いや世界中の人たちのことを忖度してもらいたいものです。

はだかのもうもう

2017-03-27 21:01:39 | Weblog
 「はだかのもうもうがゐるよ」。牧場で牛を見た3歳の男の子が母親に発したこの言葉に北原白秋は心を動かされと、評論家・川本三郎さんは「白秋望景」(新書館刊)に書いています。白秋は幼児の言葉を次のように評しています。「片言のやうではありますが、この中にどれだけの無邪と愛情と憐愍とがありますことか。ああ、裸のもうもう、空は晴れ草は幽かに青みそめても、まだ風は寒かつたでせう。さうしてその田舎の景色もその幼い者には何ともいへず珍しく感じられたでせう」。牛をみて裸だとは思う大人はほとんどありません。白秋が子どもに見て取った無邪をして「はだかのもうもう」の言葉が出てきたものと思います。「白秋望景」では、近所の子どもがどんな植物でも葉っぱはみんな葉っぱと言うことに対して、白秋が「私はつくづく檜の葉とか蕪の葉とか分類しなければならぬ大人の智慧を耻じた」ことも紹介されています。枠にはまった大人のものの見方では見えてこないものを、子どもは見ることが出来、白秋はその子どもの目をいくらか羨ましく思っているかのようです。ただ、今になって大人の私たちが枠にはまらない子どもの目でものを見ようとしても、作為的であればどこかわざとらしさが出てきてしまいます。いい年になった大人に出来ることは、ふと囚われないものの見方をした時、例えば牛は裸だといった、そういう瞬間を逃さずすくい取って、驚きの感度を失わないように努めることでしょう。サクラの開花が聞こえています。これからは自然が躍動感を持つ季節です。自然を新鮮な気持ちで見る中で、自分の中にまだ子どもの目が残っていたかと気づける、そんな嬉しさを待ってみたいです。

惟フニ(おもうに) 附言

2017-03-09 20:56:02 | Weblog
 今日の朝日新聞朝刊に稲田防衛相の参院予算委員会での発言が掲載されていました。社民党の福島瑞穂議員が教育勅語に関する考えを質したところ、「教育勅語の精神である日本が道義国家を目指すべきであること、そして親孝行だとか友達を大切にするとか、そういう核の部分は今も大切なものとして維持をしているところだ」と答えたそうです。親孝行であるとか友達を大切にすることは普通にみんなが認めるところのものです。敢て教育勅語に拠らずとも、道義心を育てることは問題なく出来ると思います。なにゆえ教育勅語なのか理解に苦しみます。大臣の発言には説得力がないばかりか、もっと別な、それも公言出来ないたぐいの意図があるように感じられます。

惟フニ(おもうに)

2017-03-08 20:57:14 | Weblog
 このところ森友学園問題が各メディアで報じられています。よくもまあ、胡散臭いことが次から次へと出てくるなとびっくりですが、少なくとも土地の売却価格を誰がどう決めたのかは明らかにして欲しいと思います。問題が出始めた頃、教育勅語を幼児に暗唱させることが取り上げられました。教育勅語が軍国主義と結びついていった経緯があるので、教育の場で今また用いられることの是非はあります。また、稲田防衛相が「教育勅語の中の親孝行とかは良い面だ」と衆院予算委員会で発言したことが朝日新聞に出ていました。教育勅語の中から徳目的なものをつまみ食いすれば良いとのお考えなのか、徳目で教育勅語の国家主義的なものをカムフラージュしようと考えられているのか、私には分かりませんが、徳目それ自体も使い方によっては弊害を生むのではないかと思います。それは徳目が権力や権威主義と結びついた場合です。例えば、稲田防衛相がおっしゃる「親孝行」ですが、普通の意味では何の問題もありません。立派な徳目です。しかし、これが上から強制されるとどうでしょうか。大体において、徳目は行為の外面的な部分の表現であり、具体的な意味内容は捨象されることが多いです。ですから、徳目が上から押し付けられる場合、自らに都合の良いような意味内容を盛り込むことが可能です。「親孝行」と称して理不尽な命令に服従することを強いることも出来ます。徳目を強要する側が恣意的に行為の中身を決めてしまう危険性があるので、教育勅語を幼い子どもたちに刷り込もうとすることは如何なものでしょう。特に、教師の権威が圧倒的に強く、生徒の判断力が充分ではない小学校においては、なおさら賛成出来ません。