花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

いつでも松島、いつまでも松島

2019-11-24 20:20:46 | Weblog
 詩人の田村隆一さんが京都の銀閣寺を訪れた時のことです。観光客が多くてゆっくりと銀閣寺と向き合えなかったようで、次のような言葉を述べています。

「銀閣寺の庭も、人声と足音にみちていて、これが観光シーズンなら、いったい、どういうことになるのかしら。白昼の向月台と銀砂灘を横目で見て、上の庭、初期浄土庭園の原型を模したといわれる枯山水の石組みと、お茶の井をながめておりてきたが、この月光寺院の庭を満喫するためには、秋の満月の夜、寺塀をのりこえて、ひとり忍びこむよりほかに手はなさそうだ、と、ぼくは空想する。(中略)・・・京の庭は、閉じられていなければならぬ、閉じられていてこそ、京の庭なのだ、どうしても、京の庭が経験したかったら、忍びこむのだ、観覧料を払った瞬間、京の庭は消滅する・・・」(「詩人の旅(中公文庫)」)

 田村さんのこの気持ちに私も首肯します。某日、瑞巌寺にて屏風絵に囲まれた堂宇内の各部屋を見た際、これらと対峙するには静謐が必要だと思いつつも、観覧の人の波に押されるようにして、立ち去り難い思いを感じながらその場を離れたことがあるからです。

 日本の文化的遺産に多くの人々が触れることに異存はありませんが、しじまの中でじっくりと向かい合いたいという無い物ねだりを思うのも、また、それが簡単に叶わないのも、まさに文化的価値の高さの証左と見て、自らを慰撫するしかないのかもしれません。

老い支度

2019-11-10 19:07:58 | Weblog
 今日、郊外を散歩してきました。9時過ぎに家を出て電車に乗りました。特急や快速に乗っても良かったのですが、文庫本が長く読めるので各駅停車に乗りました。何回も追い越し列車の通過待ちをして、1時間ちょっとでとある駅に降りて、そこからバスに乗り、終点から歩き始めました。

 空は晴天、心もち早歩きをしてもうっすら汗がにじむ程度の快適な陽気の中、2時間ほど山道を歩きました。車道へ出て最初のバス停で時刻表を見ると、次のバスは2時間先。もうちょっと歩いて大きな道路まで行くと、違う路線があるだろうと思い、車に気をつけながら舗道を歩きました。

 途中、ダムがあり、流木やゴミ、中にはちぎれたフェンスなどが浮かんでいました。おそらく台風19号の豪雨で流されてきたものでしょう。ダム周辺は公園になっていて、バス停がありました。見ると10分くらい待てばバスがやってきます。この時、歩数計は1万6千歩を示していました。2万歩は歩きたいなと思ったのと、先まで歩くとバス代が安くなるかもと思ったのとで、フィニッシュにするのを延ばしました。

 家に着いたら歩数は2万1千歩。時間は16時過ぎ。爽やかな空気をいっぱい吸って、適度なアップダウンを歩き、平和な一日でした。会社を辞めても、それなりに時間がつぶせるなと思いました。

ドンマイ総理

2019-11-07 22:37:36 | Weblog
 今日の朝日新聞朝刊の社説は、「『任命責任』は口だけか」と題して閣僚辞任に関する安倍総理の国会答弁を批判するものでした。経産大臣と法務大臣の相次ぐ辞任を受け、総理は任命責任を認めつつも、具体的な責任の取り方には言及しませんでした。社説によると、「責任の果たし方については『行政を前に進めることに全力を尽くす』の一点張りだった」とのことです。

 行政に全力を尽くすのは、そもそも内閣の使命であり、辞任があろうとなかろうと当然やるべきことです。任命責任とは切り離して考える筋合いのものを持ち出して、これで責任を取ると言われても、「それで良いのかなぁ」と思ってしまいます。

 例えば野球では、タイムリーエラーをした選手がその後ホームランを打てば、「エラーを帳消し」などと言われます。これは、エラーのマイナスをホームランのプラスでカバーしたので「帳消し」となりますが、それも最終的な勝敗だけを見ているから言えることです。それぞれのプレーが独立して評価されるのなら、帳消しとは言えません。また、ヘマをした選手に「ドンマイ、ドンマイ、バッチコー(ばっちりいこう)」と声を掛けるのは、気落ちして委縮すれば本来の力が発揮出来なくなり、さらに傷口が広がっては困るためです。「ドンマイ」でエラーが消えるわけではありません。いずれにせよ、スポーツが日常生活から時間と空間を区切って行われる、いわばフィクションであることが前提になっています。

 実社会はスポーツとは異なります。飲酒運転をした人が、翌日泥棒を捕まえたとしても、飲酒運転は飲酒運転、犯人逮捕は犯人逮捕できちんと分けて考え、飲酒運転が帳消しになったりはしません。任命責任を認めたり、辞表を書いたりするなら、やはりどういう責任があるのか、きちんと説明しなければならないと思います。

 社説にこんなことも書いてありました。「安倍政権では、疑惑をもたれて要職を辞した政治家が、その後、説明責任を果たさぬまま、復権を果たす例が相次いでいる。今回の連続辞任も、しばらくすれば国民は忘れてくれるだろうと高をくくっているのだとしたら、同じ過ちが繰り返されてもおかしくはない。」

 「行政を前に進めることに全力を尽くす」の言葉が、何となく「ドンマイ、ドンマイ、バッチコー」と聞こえてなりません。お友達というチームメイトに、「気にせず、今まで通りガンガン行こうぜ」と言っているようで、私たち国民に向けられたものとは感じられません。

思ふどち

2019-11-06 21:58:18 | 季節/自然
 「思ふどち春の山辺に打ち群れて そことも言はぬ旅寝してしが」、これは三十六歌仙のひとり、素性(そせい)法師が詠んだ歌です。思うどち、つまり気心の知れた仲間同士が、春の山に出掛けて、どこでとは言わないけれど、旅先で寝てみたい、といった歌意でしょうか。

 11月の三連休のある日、山登りに出掛けました。春の山辺から季節は半周回って晩秋の趣きさえ漂っていましたが、山を楽しんだ点では素性法師と同じだったのではと思っています。と言うのも、今年はやけに雨が多く、山の計画を立ててもずっと雨に泣かされてきました。久しぶりの今回の登山は快晴に恵まれ、遠くは加賀の白山まで見通せて、広々感、伸び伸び感で文句なし開放的な気分を味わえたからです。旅寝とまではいきませんが、こころ長閑にくつろいだ気分を味わえました。

 素性法師は次の歌も詠んでいます。「もみぢ葉に道はむもれてあともなし いづくよりかは秋のゆくらむ」
 日ごとに山は冬の装いになってくることでしょう。素性法師ならずとも、知らぬ間に秋がどこへやら去っていくのを、後になって気づかされます。この先、天気が安定して、もう1、2回は秋の名残の山を歩けると良いのですが。