花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

なほ恨めしき朝ぼらけかな

2020-09-27 15:36:27 | Weblog
 明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな  藤原道信朝臣

 百人一首の第52番は、「夜が明け、また日が暮れると分かっていても、それでも恨めしく思う明け方よ」と詠んだ、いわゆる後朝(きぬぎぬ)の歌です。雪の降る日に女性のもとから帰ったあと、その女性に贈った歌だそうです。

 「大鏡」によると作者の藤原道信は、「いみじき和歌の上手、心にくきものにいはれ給ひしほどに失せ給ひにき」とあり、弱冠23歳で惜しまれて早世した才子でした。

 以前は、「女のところから帰るくらいでいちいち恨めしくなっても仕方ないだろう」、なんて情緒のないことを思ったりもしましたが、この作者が夭逝したことともつながっていますが、もともと今とは人生の持ち時間が違うわけで、平均寿命が80歳を超える現在に比べて時間の流れに対する感性が全然違っていたのだろうと思います。一期一会的なことを思う気持ちがずっと強かったと想像出来ます。

 ところで朝ぼらけに、「今日の天気はどうだろうか、半袖と長袖のどっちがいいだろうか」てなことしか頭にないのは、かえって幸せなのか、それとも日々無為に暮らしていることを恥ずべきなのか、どちらとも取れますが、二日酔いになって「なほ恨めしき朝ぼらけかな」となるのは、情けなく思わねばならないでしょう。

文化人類学的思考

2020-09-20 11:23:24 | Weblog
 土曜日の朝日新聞には別刷りの「be」が折り込まれていますが、その「be」には斬新な仕事に取り組む各界の方を紹介する「フロントランナー」という特集があります。9/19付に登場したのは立命館大学教授の小川さやかさん、著書「チョンキンマンションのボスは知っている」が今年の河合隼雄学芸賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した文化人類学者です。

 小川さんはタンザニアでのフィールドワーク中にだまされ落ち込んでいた時、「ウソには理由もある。『なぜウソをつくか理由を考えるんだ』と諭され、「依存しあうのでも突き放すのでもない、あんばい。真面目すぎても、ちゃらんぽらんでもダメ」と、バランス感覚を学んだそうです。このバランス感覚は参与観察を行う際、観察対象の理解を深めるうえでとても大切だと思いますが、他にも小川さんは示唆的な言葉を述べています。

・「こうあるべきだというこちら側の規準が強いと、異なる社会の論理を見いだせない」

・「ストレートな提言の一歩前にとどまって思索を深め、そこから提示できる可能性を広げることも意義がある」

・「自己と他者のあいだの距離を意識しつつ、ゆっくりと思考を往還させ」る

 それぞれ文化人類学の思考法を端的に示しているように思います。分断社会と言われる今、個人と個人、個人とコミュニティ、コミュニティとコミュニティ、コミュニティと社会、あちこちに溝が出来、相互の理解が難しくなってきています。そのことで偏見や攻撃的な言辞が目につくようになりました。そういう時だからこそ、文化人類学的なものの見方が重要になっていると感じます。

 「はまると、寝てもさめても、そればかり考えてしまうタチ」、「老若男女にほれっぽい」と自認する小川さん。一方、バランスのとり方、距離のとり方に優れ、結論を急がず内在的に相手を理解しようとする姿勢を併せ持ち、情熱と合理的思考の合一が見てとれます。どちらかと言えば主流の学問分野ではありませんが、文化人類学的な眼を持った人が増えることを願います。

奴隷は主人の言葉で語る

2020-09-08 21:32:10 | Weblog
 「[奴隷は]主人の言語で語らねばならぬ」、イギリスの文化人類学者・デビッド・グレーバーさんは「負債論 貨幣と暴力の5000年」(以文社刊)の中でこう書いています。これはどういうことかと言えば、同氏の言葉を借りるなら、「名誉とは、定義上、他者からどうみられているかに存在するということである。とすると、それを回復するために奴隷は、必然的にじぶんを取り巻く社会の規則と基準を身につけなくてはならないことになる。そしてそのことは、少なくともふるまいにおいては、名誉を自分から剥奪した当の制度について完全に拒絶することはできない、ということを意味している」、となります。

 かつて、マックス・ヴェーバーは、カースト制においてはより上位のカーストに生まれ変わることが人生の主目的となるため、カースト制の存在が自らの日々の努力の前提となり、カースト制による身分差別を変革する契機はカースト制の内部からは生まれない、といった趣旨のことを「古代ユダヤ教」の冒頭で述べています。グレーバーさんが言わんとすることも構造的にはヴェーバーと同じではないかと思われます。つまり、ある思考の枠組みの中にあるとそれに取り込まれてしまい、その枠組みの継続を志向しやすいということです。

 さて、グレーバーさんの言う「じぶんを取り巻く社会の規則と基準を身につけなくてはならない」や「ふるまいにおいては、当の制度について拒絶することはできない」の精神的態度が習い性になってしまうと、人は「長い物には巻かれろ」的な心性に縛られるようになるのかもしれません。ついこの間まで安倍総理の後継者としていろんな名前が挙がっていたのに、ほんのちょっとの間に雪崩を打ったように菅さんへと自民党の議員がなびくさまを見ていて、文脈的には少し違うものの何となくグレーバーさんの言葉が思い出されました。権力に引き寄せられて権力の近くにあろうとする人たちは、どうしても流れを読み勝ち馬に乗ろうとしてしまうのでしょう。

(追悼)
 9月5日付の朝日新聞朝刊はグレーバーさんが2日に死去されたと報じていました。また、本日の朝日新聞に掲載されている岩波書店の広告には、グレーバーさんの新刊である「ブルシット・ジョブ」の書名があり、「発売たちまち4刷」と出ていました。近所の図書館のホームページで同書を検索すると、出て間がないのにも関わらず予約数は46。人気の書と言えます。まだまだいろいろな本を書いて欲しかったのに残念です。享年は59とのことです。