花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

ソロ

2006-12-27 22:25:13 | Book
 師走の通勤電車で読んだ丸山直樹著「ソロ-単独登攀者・山野井泰史」(山と渓谷社刊)は、一年、あるいは二、三年に一度読み返している本です。定期的に読み返している訳ではありませんが、何かの拍子に無性に読みたくなって、結果として数年に一度、書棚の既におなじみとなった場所から抜き出して読み始めます。この本は、かつて世界最強とまで言われた(もちろん今も半端じゃないですが)ソロ・クライマー、山野井泰史さんを描いたノンフィクションです。この本の魅力は何と言っても、そこに描かれている山野井さんの登攀内容の凄さです。8000メートル級のヒマラヤで平地の3分の1程の酸素の中、ほんのささいなミスでも確実に死ぬといった状況に置かれながら、極限のムーブで壁をよじ登っていく山野井さんの登攀は、失礼ですが著者の文章がなくても、例えばチョ・オユー南西壁をソロ、しかも無酸素で登った、その事実だけで、圧倒的電撃的感動フツフツです。でも、この本を繰り返し読むのは、おそらく別の理由があるのではないかと思います。私が、山野井さんの言葉で特に心に残っているものが2つあり、ひとつは、「電車に乗っても街を歩いていても、僕はいつも自分のことを、世界一幸せ者だと思っている。人より充実した人生を送っている」(大蔵喜福著『彼ら「挑戦者」』・東京新聞出版局刊)。もうひとつは、「いつの日か、僕は山で死ぬかもしれない。死ぬ直前、僕は決して悔やむことはないだろう。一般的には『山は逃げない』と言われるが、チャンスは何度も訪れないし、やはり逃げていくものだと思う。だからこそ、年をとったらできない、今しかできないことを、激しく、そして全力で挑戦してきたつもりだ。かりに僕が山で、どんな悲惨な死に方をしても、決して悲しんでほしくないし、また非難してもらいたくもない。登山家は、山で死んではいけないような風潮があるが、山で死んでもよい人間もいる。そのうちの一人が、多分、僕だと思う。これは、僕に許された最高の贅沢かもしれない」(山野井泰史著『垂直の記憶』・山と渓谷社刊)。こういった言葉を山野井さんは、なんの気取りも衒いもなく、さらっと言ってのけます。そこには、山に登ることだけを考え、山に登るためだけに生きてきた、ひたむきな生き様の重みがあります。きっと、山野井さんの生き様をかいま見て、「すっげぇー」とか「かっくぃー」と感じたいがために、時折この本のページを開くような気がします。

マコン・ブラン・ヴィラージュ・プリムール2006

2006-12-25 22:31:56 | Weblog
 十字架で磔にされることによって人類の罪を償い、世の中に救いをもたらした、主イエス・キリストが、貧しい大工の子として、馬小屋のみすぼらしい飼い葉桶の中で生まれた日がクリスマスである。そんな日にドンチャン騒ぎをするのは、心理的に抵抗を覚えるが、それでも、我が家のクリスマスは家族揃って、少しあらたまった気持ちになり、ささやかではあるが楽しく夕餉を迎えることにしている。
 そういった雰囲気の中で飲むのは、ワインがふさわしい。と言うのも、美味しいワインは、心の中に暖かな陽が射してきたような感じにさせ、そして、ゆったりとした気分で、世俗のたいていのことを、「まっ、どってことないんじゃない」と、寛容な眼差しで眺められる、そんな風に人を優しい気持ちにさせてくれるお酒だからだ。さらには、そういった楽しいひとときを味わえることに対する感謝の念も沸いてくる、功徳のあるお酒でもある。
 今年のイブに飲んだルイ・ジャドの「マコン・ブラン・ヴィラージュ・プリムール2006」も、やはり、そんな美味しくて功徳のあるワインだった。変なたとえかもしれないが、筋目正しい旗本の家に生まれ、厳格なしつけのもと育ち、元服に達した青年剣士、自己主張は強くないが、感受性豊かなところがそこここにうかがえ、過剰もいびつもなく調和のとれた性格、そのような印象を受けた。もうひとつ変なたとえをするならば、その美味しさは、性善説を信じさせうる、あるいは信じたくなる、美味しいワインに共通した喜びの風味を持っている。

仮説の検証

2006-12-13 21:54:39 | Weblog
 健康診断のたびに尿酸値で引っ掛かる私は、この秋の検診に向けてある仮説のもと、尿酸値が高い人が先ず真っ先に禁じられるビールを、敢えて積極的に飲む試みをしました。そのこころとは。「尿酸値の高い人は、プリン体の多い食べ物や飲み物、例えばビール、を摂取しないように注意されるが、実は口から摂取するプリン体よりも体内で産出されるプリン体の方が多いのではないか。体内プリンが多いと仮定した場合、アルコールを分解するときにプリン体は多く産出されるのではないだろうか。そうなると、アルコール度数の低いビールより、プリン含有量は少なくてもアルコール度数がより高い焼酎の方が、体内で分解するアルコール総量は増え、結果としてプリン体が多く産出されるのではないだろうか。」  かように勝手な理屈をこねて、ビールを我慢して焼酎を飲むくらいなら、むしろビールを飲んでアルコール総摂取量を減らそうと、この夏、ビール完全解禁に踏み切りました。で、秋の健康診断を経て、その結果が今日届きました。えいやっと尿酸値の数値を見たら、0.1ポイントUPしていました。自分なりの解釈では、少なくとも自分の尿酸値が高いのはビールのせいではない、と結論に至りました。春から秋にかけて0.1ポイント悪化したのは、春の検診前にはアメリカンチェリーを食べたのに、秋には食べなかったせいだろう、もしチェリーを食べていたらおそらく0.4ポイントくらい数値は下がっていたかも、なんて都合の良く考えたりしています。ちなみに、ビールを飲まずに焼酎を飲んで、尿酸値を下げると言われているアメリカンチェリーを食べた春の検診では0.5ポイント、前回(昨秋)より数値が改善していました。痛風を発症している人には失礼かもしれませんが、来春はどんな作戦で健康診断に臨もうかと、楽しみが出来ました。

いじめられてる子供らへ、松井秀喜さんからのメッセージ、そして君の〝アメリカ〟

2006-12-06 23:58:03 | Weblog
 「無理して立ち向かわなくていいんだ」、大リーガーの松井秀喜さんはこう呼び掛ける。いじめられている子供やいじめている子供に向けた各界の著名人や識者のメッセージを、少し前から朝日新聞朝刊では掲載しているが、今日は松井選手からのものだった。「学校やクラスにいても楽しくない。仲間にうまく入れない。それなら、それで、別にいいんじゃないかな。だれかがつくった世界に君が入らなければいけない、ということはないんだよ。それより、君には、居心地のいい場所で、自分の好きなことに夢中になってほしい。何かに没頭(ぼっとう)することによって、いやなことが気にならなくなることって、あると思うんだ。逃げるんじゃない。自分から好きな世界を選ぶんだ。その中で同じ夢を持った友だちに出会うこともあるだろう。新しい仲間ができるかもしれない」、松井選手はこう続ける。
 かなり昔だが、司馬遼太郎さんの「アメリカ素描」(新潮社刊)を読んだことがある。次の箇所は、アメリカへ行くことになった司馬さんに、ある友人の方が述べた言葉である。「もしこの地球上にアメリカという人口国家がなければ、私たち他の一角にすむ者も息ぐるしいのではないでしょうか」。この言葉の意味を司馬さんは以下のように捉えている。「いまもむかしも、地球上のほとんどの国のひとびとは、文化で自家中毒するほどに重い気圧のなかで生きている。そういう状況の中で、大きく風穴をあけたのが、十五世紀末の〝新大陸発見〟だった。アメリカ大陸が〝発見〟されると、ヨーロッパから、ほうぼうの国のひとびとがきて、合衆国をつくった。・・・(略)・・・文明だけでOKですという気楽な大空間がこの世にあると感じるだけで、決してそこへ移住はせぬにせよ、いつでもそこへゆけるという安心感が人類の心のどこかにあるのではないか。」
 もちろん、松井選手と司馬さんはそれぞれ次元の異なる話をしているのだが、共通しているのは、「自分の居場所」あるいは「自分にふさわしい場所」があると信じることで、人は苦難に立ち向かえる、ということだろう。話は横道にそれるが、たまたま今読んでいるオルハン・パムクの「雪」(藤原書店刊)では、トルコの政治的、宗教的対立の中で、女子学生が自殺したり、人々が殺されていく話が次から次と出てくる。それは、死や暴力が特別のものではなく、日常的な世界だ。「雪」では、〝アメリカ〟の存在が心の一角で光を照らすことのない世界の重苦しさを読み取ることが出来る。一方、〝アメリカ〟を必要としない幸せ、それは普通気が付かない幸せなのだろうが、けれども充分感謝に値する幸せであることを、思い合わせられる気がする。ともあれ、松井選手は最後にまたこう呼び掛けている。「だから、いま君が立ち向かうことはないんだ。」 これは、きっと、「君にも〝アメリカ〟があるよ」、という励ましなのだ。

autumn leaves

2006-12-03 16:21:41 | 季節/自然
 今年は紅葉の進みが遅いこともあって、まだ紅葉を見に行っていなかったが、天気予報で好天が伝えられていたので、昨日の土曜日、新宿御苑へ出掛けた。御苑に着いて、芝生の上でデイパックを下ろすと、一瞬背中に冷気が当るのを感じたが、日差しがあるので、徐々に陽の光の暖かさで心地よくなってきた。イギリス風景式庭園を思う存分駆け回っているわが子を遠くに見ながら、文庫本を開く。時々、子供の姿を確認するために目を上げると、丁度見頃の木々が何本も眼に入る。箱にハイクラスと書いてある550円のサンドウィッチをつまみながら、今年の秋もこれで見納めだなぁと思った。日向ぼっこで気持ち良くなった頃、子供も走り疲れた様子なので御苑を後にした。御苑を出て新宿の街を通ると、そこはすっかりクリスマスモードになっていた。