花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

夏近し

2017-06-29 20:53:57 | 季節/自然
 6月も末となりました。もう数週間すれば梅雨が明け、本格的な夏が訪れることでしょう。春夏秋冬、季節にはそれぞれの楽しみがあります。その一方で季節ごとに我慢を強いられることもあります。梅雨で言えばジメジメとして鬱陶しいこと、夏なら蒸し暑さにはうんざりさせられます。しかしながら、日本人は豊かな言葉で季節季節を表現してきました。例えば正岡子規の短歌「昼顔の花咲く濱の真砂路に跡もとどめず夕立の雨」を思い出すと、夕方突然の雨に打たれても、そこに風情を感じることが出来ます。また、ギラギラの陽射しに照りつけられても、「峰となり岩と木となり獅子となり変化となりて動く夏雲」が頭にあれば、見上げる空も違ったものとして見えてきそうです。文学の言葉に季節の情緒を感じることで、我慢のうちの幾ばくかは季節感あるものとなり、嫌さ加減が和らげられることでしょう。不快指数が高まるこれからの季節ですが、先人の言葉の力を借りて、気持ちに余裕を持ちたいものです。

死人に口なし

2017-06-19 21:45:22 | Book
 6月17日の土曜日、山登りへ行く電車の中でシェークスピアの「ジュリアス・シーザー」を久しぶりに読み返しました。「ブルータス、お前もか」のセリフが有名なこの戯曲は、説明するまでもないですが、シーザーの暗殺およびその後のブルータスとアントニーの戦いが展開のメインになっています。シーザーは王の座に就きローマ市民の自由を奪おうとしているとするブルータスは、シーザーを亡き者とした後、市民を前に「シーザーは野心を抱いていた」と呼び掛けます。自分がシーザーに刃を向けなければならなかったのはローマを守るためだったと理に訴えるブルータスに対して、アントニーはシーザーの行為を具体的に振り返りながら「シーザーはローマ市民を愛していた」と情に訴えます。これも言うまでもありませんが、結局ブルータスはアントニーらとの一戦に敗北し、自らの胸に剣を突き刺すところで幕が下ります。
 この「ジュリアス・シーザー」ではシーザーに野心があったか否かが焦点になっています。このことについて劇中、シーザー本人の言葉を聞くことはありません。そもそもシーザー自身のセリフが少ないうえに、元老院に呼び出されたシーザーは、ブルータスたちに野心を問い質されることのないまま、いきなり暗殺されてしまうからです。シーザーは野心を抱いていたか、いなかったか、どちらでしょうか? ブルータスは野心ありと疑わず正義を貫くために暗殺に及びました。おそらくアントニーも野心ありと見ていたのでしょうが、アントニーはシーザーを悲運の人とすることで権力奪取に動きます。ローマ市民はアントニーの巧みな弁舌を信じて、シーザーの野心を糾弾するブルータスには与しません。そして、この劇の観客は、シーザーの野心を挫いたブルータスの正義がアントニーの権謀に敗れるさまに悲劇を見てとります。つまり、野心を軸に見てみると、劇の中心人物は野心ありとし、中心人物たちを取り巻く市民は野心はなかったに流れ、客席で劇を見る観客は野心があったと思っています。しかしながら、肝心のシーザー自身は何も語っていない、そういう構図が面白いなと思っているうちに、梅雨とは思えない青空が広がる山間の駅に到着しました。

きな臭い感じ

2017-06-15 20:51:49 | Weblog
 古い本の頁をめくっていたら次のような文章に目が留まり、ハッとなりました。「明治維新後の政府は、一方で『集会条例』をつくり、他方で教科書を統制し中央集権的な教育制度を準備した。第一次大戦後の政府は治安維持法と特高警察をつくった。要するに過去のもっとも自由主義的な時代に日本政府の考えたことは、警察力の拡大をはかることと、教育の『行きすぎ』をあらためてその制度を中央集権化することであった。そういうことを第二次大戦後の政府は、占領下で実施することはできなかったが、占領が終り、平和条約が発効するや、忽ち警察予備隊を拡大し、警職法をつくり、教育委員会の公選制を廃し、小学校長の権限を拡大し、教科書の検定制度を強化して、先例に倣った。すなわち明治維新・第一次大戦・第二次大戦後の三つの時期、民権の伸長に力点のおかれたこの三つの時期(それぞれ十年‐十五年)をくらべると、各時代の政府のとってきた政策にはあきらかに共通点がある。その時期の後に、過去においては、民権を犠牲にして国権を伸展しようとする長い時期がつづいた。その歴史は、現在から将来にかけても、繰返されるだろうか。」
 この文章の出典は加藤周一さんの「雑種文化」(講談社文庫)所収の「日本人の世界像」です。「日本人の世界像」は日本の対外的態度に関する論考で、外国から文物を熱心に受容する「から」の時期と、外国と対峙する姿勢を見せる「対して」の時期に分け、明治維新から太平洋戦争終戦までの足取りをたどっています。引用した文章は論の一番最後、締め括りのところです。今の政治情勢とぴたり符号が合い、「民権を犠牲にして国権を伸展しようとする長い時期がつづいた」の箇所が杞憂に終われば良いがと願わずにはいられません。