花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

6月28日の所信表明

2019-06-28 21:58:53 | Weblog
 自分たちに不都合なことはなかったことにしようとする安倍政権の姿勢に対する識者のインタビュー記事が、本日の毎日新聞朝刊に掲載されていました。その中の一つを書き写してみます。

 「下流」層を取り込む自民 白井聡・京都精華大専任講師

 「金融庁の報告書はもうない」などと事実をもみ消す現政権の言動の背景には、民主主義を成り立たす大前提の崩壊がある。国民全体が政治と社会の知識を広く得ている、せめて得ようとしているという前提の崩壊を、現政権は徹底活用している。
 新聞も野党も政権の論理矛盾や隠蔽体質を批判している。だが、麻生太郎財務相いわく「新聞読まない人は全部自民党支持だ」。批判が効果を発揮しないのは、自民党が論理整合性に関心を払わない有権者層を主たる「顧客」として取り込んでいるからだ。野党が同じ土俵で「顧客」獲得に励んでも勝利は望めない。資金力で勝負にならないからだ。
 小泉純一郎政権(2001~06年)時代、広告代理店が政府に提出した広報戦略資料が話題になった。政権の支持基盤である「具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターを支持する」主婦や若者、高齢者を「B層」と名付け、彼らに「分かりやすい」宣伝を提案していた。
 同時期にマーケティングアナリストの三浦展氏は、低い所得だけでなく、意欲に欠ける生活習慣や思考様式を共有する階層「下流」の出現を説いていた。
 「B層」は「下流」の言い換えともいえよう。小泉政権向けの広報戦略資料が暗示したのは、政権が新たな格差の拡大を防ぐのではなく、利用し尽そうという意志ではなかっただろうか。
 これは、自民党の自己否定ともいえる。自民党は、少なくとも建前では、あらゆる社会階層の利益を調和的に実現する国民政党を標ぼうしていた。その自民党が特定の階級・階層に依拠する党への変質を宣言したに等しい。しかも、その階層の利害を代表せず、単に支持基盤として利用するのだ、と。
 先日、若い女性を主要購読層とするファッション誌「ViVi」の広告企画が批判された。同誌のモデルに「権利平等」「文化共生」といった主張を語らせた自民党の広告だ。これらの主張が、自民党議員の多くや中核的な支持層の価値観とかけ離れていることは、簡単に分かる。だが、まさにこれが分からない(と思われる)層を対象に、自民党は広告を打った。消費社会に生まれ育ち、政治の知識に乏しい人々の感情をふんわり肯定し、決して内実を知らしめず、ただ好印象を抱かせる戦略だ。
 自民党は「ViVi」以外でも、イラストレーターに安倍晋三首相を侍として描かせるなど、政策を直接語らない、特に若者向け広告を次々と仕掛けている。若年層全体を「B層」扱いして、「これからの日本の主役は総じてバカでいい」との前提に立っている。この前提でどんな未来を描くつもりか。
 ただ、「B層」扱いされている有権者も市井の人々である。生活を見返せば、山積する問題は明らかだ。なぜ「好景気」なのに生活が苦しいのか、なぜ子どもを産み育てる余裕がないのか・・・。今の年金問題も、人々がふんわりとした政治宣伝の洪水から頭を上げ、眠っていた怒りを沸き立たせるきっかけにはなりうる。いずれにせよ、怒りが復権しないままでは、この国は滅びるほかないだろう。(記事ここまで)


 この記事を読んで、率直なところ怒りの復権に期待しようという気持ちは持てず、じゃあこの国は滅びてしまうんだろうかと、暗くなってしまいました。ただ、民主主義が崩壊してしまうのは嫌なので、少なくとも「B層」扱いされないように、自分の頭でちゃんと考えることを心掛けていくつもりです。そのことで、世の中の大勢から外れようとも、気落ちしたり自棄になったりせず、野党がだらしないなら、「自分が政権与党と対峙することで、ひとり二大政党制を実現してやる」とうそぶく、カラ元気の「夜郎自大」野郎になってやろうと思います。

啄木新婚の家

2019-06-26 21:45:52 | Weblog
 先日、所用で盛岡を訪れた際、少し空き時間があったので、盛岡駅から15分ほど歩いて石川啄木新婚の家に寄ってみました。新婚の家と言えば、何となくほのぼのハッピーなイメージを抱きがちですが、啄木には当てはまりません。この家で催されることになっていた結婚式に、なんと啄木は現れなかったのです。すったもんだはあったようですが、新妻の意向を汲んで婿抜きで式を執り行ったそうです。啄木が姿を見せたのは結婚式の5日も後でした。「啄木新婚の家」よりも「啄木が結婚式をすっぽかした家」とした方が、観光客へのインパクトはありそうです。
 ドナルド・キーンさんはその著書「石川啄木」(新潮社刊)の中で、啄木が奇怪な行動をとった理由を次のように推測しています。

・他人が自分のために勝手に取り決めをすることが嫌いだったので、行方をくらますことで翻弄したかった。
・結婚式に伴う行事を嫌って、人の意表を突くことを楽しんだ。
・自分が本当に結婚したいのかどうか、突然疑問を抱いた。
・結婚することで自分の自由が制限されると思い、結婚を躊躇した。

 真相はともあれ、人騒がせな男です。この家は啄木にとって方角が悪かったのか、たった3週間しか住まなかったそうです。結婚の翌年には故郷の渋民村に戻り教職を得るものの長続きはしなかったので、方角のせいではなく、単に身勝手な性格の故なのかもしれません。
 結婚式に来なかった啄木にはびっくりですが、式を取り止めなかった新婦は凄いなぁ、また、それに付き合った参集者は偉いなぁ、でもやっぱり一番は、結局申し開きをしなかった(らしい)啄木の面の皮の厚さだろうと思いながら新婚の家を後にしました。

(※画像は石川啄木が妻節子と使っていた部屋です)

保守と革新

2019-06-17 21:51:11 | Weblog
 6月15日(土)付・朝日新聞朝刊の読書欄には、宇野重規東大教授の「若者の政治意識 自明性を失う『保守』と『革新』」と題した書評が載っていました。世代間の政治意識の違いをテーマに三冊の本を取り上げたもので、どのような違いがあるかを記事に沿って紹介してみます。「高齢者が共産党をもっとも革新的な政党と見ているのに対し、若年層は日本維新の会をもっとも革新的と考えている」(「イデオロギーと日本政治」遠藤晶久、ウィリー・ジョウ著 新泉社刊)、これまで「憲法や安全保障といった争点を中心に保守と革新の対立軸が形成されてきた」が、「40代以下の層においてはむしろ、『既得権益への挑戦』や『改革派』のアピールこそが『革新』の判断基準とな」っているそうです。
 また、橘玲著「朝日ぎらい」(朝日新書)では、「70代以上では、もっとも保守的なのが自民党であり、共産党がリベラルに位置づけられている。これに対し18~29歳では、もっとも保守的なのが公明党で、次いで共産党、もっともリベラルなのが日本維新の会である」と、読売新聞・早稲田大学共同世論調査(2017年)に依拠しつつ、「50代以上と40代以下の間に断層があるとすれば、その原因は冷戦の終焉とバブル崩壊にあ」り、「『変わらなければ、生き残れない』と言われ続けたバブル以降の世代にとって、年功序列・終身雇用という日本型雇用制度を守ろうとする年上世代は『保守』以外の何ものでもな」く、「かつて『リベラル』だった世代が高齢化することで、言葉の意味が入れ替わった」と指摘しています。
 しかし、「かつて『リベラル』だった世代が高齢化」したとの見方に対して、「武器としての世論調査」(三春充希著 ちくま新書)は、「若年層において『支持政党なし』や『わからない』と回答する人が多いことに注目」し、「与党であれ、野党であれ、若い世代ほど支持率は下がる。ただし、その下がり方には違いがあり、野党の方がより激しい。与党支持がかろうじて残っているのに対し、野党支持が劇的に減ったのである。結果として、投票に行った人に限って言えば、与党支持が相対的に多くなる。したがって、いまや自民党は若年層にこそ支持されているという議論は誤りである」と分析しています。
 そして、宇野教授は、「現在の50代以上にとって自明であった『保守』と『革新』の区分は、40代以下の世代にとって自明性を失っている。若い世代にとって、どの政党を支持すべきかについて迷いがある以上、政党再編以上に、政党を評価する軸の再編が急務と言えるだろう」と結んでいます。
 護憲、平和主義を主張してきたリベラル派が主義信条を守っているうちに、主義信条の中身によってではなく、主義信条を「守ってきた」が故に、保守的と見なされるようになったのかと思います。方や、政治的争点に際して声の大きさ、あるいは政治を動かしているかのようなパフォーマンスによって革新的と見られている勢力があり、これとて主義信条の中身によるものでないことは同様でしょう。おそらく中選挙区制から小選挙区制へ移行したあたりから顕著になってきたポピュリズムが、この傾向に拍車を掛けたのだと思います。
 保守と革新の評価軸に世代間の大きなズレが生じているのは確かでしょう。では、宇野教授がおっしゃる「政党を評価する軸の再編」を考える時、私は政治的手法を見るのもひとつの手ではないかと思います。政策的な選択肢はその時々で変わり得ます。現に、「老後に2000万円必要」と言った大臣は、批判の矛先が向けられるや否や簡単になかったことにしています。政権を守るためとあらば、有権者の顔色を窺いながらいくらでもお色直しをしてくるでしょう。けれども、政治的合意を形成するそのやり方はなかなか変わらないものです。政治手法の如何を保守‐革新の二項対立に変わる物差しとするには、政治手法の合法性・妥当性の度合いを見極める目を養う必要があると思います。

傘がない

2019-06-15 15:54:18 | Weblog
 今日は一日中ジャバジャバの雨。山へ行く予定は止む無く中止、終日家に垂れ込めました。家の前の道路で雨脚が跳ね上がるのを窓から見ていると、ある情景が思い出されました。
 夕暮の街、降り出した雨の中、傘を持たない母娘がタクシーを待っていますが、空車はなかなか通りません。そこへ70歳を超えたくらいの小柄な紳士然とした人が近づきます。男性は母娘に高級そうな傘を渡し、幾ばくかのお金を受け取ります。雨に濡れて困っている人に、親切にもわずかなお金で傘を提供したようです。老人は足早にその場を離れ、とあるパブに入りウィスキーをグッと一気に飲み干します。そして、一本の傘を手にパブを出て大きな通りまで行くと、今度は背の高い痩せた男に傘を差し出しました。
 これはもちろん私が目撃した訳ではありません。Roald Dahlの短編、飲み代を稼ぐために傘泥棒をする“The Umbrella Man”に描かれているものです。雨から傘、傘から“The Umbrella Man”への連想があるのは確かですが、しかしこれにはまだ先があります。本当に頭に残っているのは、母娘からせしめたお金でウィスキーを飲む箇所の文章で、そのため雨の日にウィスキーを連想することがたまにあります。どうしてだか、往々にして「傘」の部分をすっ飛ばし、雨とウィスキーが直結してしまうのですが。では、そのウィスキーを飲むシーンを。
 “The little man picked up the glass and put it to his lips.He tilted it gently.Then he tilted it higher ...and higher ...and higher ...and very soon all the whisky had disappeared down his throat in one long pour.”
 日がな一日家に垂れ込めたとしても、表で降りしきる雨をよそに、グラス高々と傾けて琥珀の水をのどに流し込めば、休日の雨も悪くはありません。