Oceangreenの思索

主に、古神道、チベット仏教、心理学等に基づく日本精神文化の分析…だったはずなんだけど!

ストレッサーとしての煩悩

2010-07-19 | こころ
タイのお坊さまの本(テーラワーダ仏教の実践)を読んでいた時、
仏教の“苦”は、英語のstress(ストレス)、
あるいはconflict(相容れない、争い)にあたるという記述がありました。

つまり、“苦”というのは、本来
日本人が思うほど重い意味ではないのかもしれません。

ストレスとは、精神的・肉体的な負担となる刺激や状況のことですから、
“存在とは苦である”というのは、
存在する限りストレスはなくならず、存在自体が刺激であり負担である、
という事であり、

現代的な視点から見ても、全くその通りです、としか
言いようがありません。

もっともこんなことは、
確か日本のお医者さんで本に書いていた方がいたように思います。
まだ読んでいませんが。

ともかく“ストレス”は“苦しみ”ほど重い言葉ではありませんが、
それでも“ストレス社会”と呼ばれる現代、
人はそのストレスによって、それこそ本当に苦しんでいるのです。

***

仏教では“煩悩”というものが苦を引き起こすと考えられています。
つまり、ストレスを引き起こす原因を指すストレッサーという言葉が、
仏教用語の煩悩にあたるのでしょう。

現在の日本で“煩悩”という場合、普通、
肉欲や権力欲、支配欲などをイメージさせますが、
煩悩という漢字自体は、煩わし悩ます、の意味ですから、
ストレスをもたらす、という意味のストレッサーの意味とも合致します。

一般に、心理学などでストレッサーという場合は、
主に外的な要因を指します。

寒暑や騒音、天災などの物理的ストレッサー、
病気、怪我、疲労、睡眠不足などの生理的ストレッサー、
人間関係、所属集団の環境、結婚、失恋などの心理的ストレッサーの
三つに分類されることが多いと思います。

つまり、ストレス要因は自分の外からもたらされる、というのが、
現代的な考え方ですが、

お釈迦さまは、二千五百年も前に、
ストレッサーは余所から来るのではありませんよ、
自分の中にあって無くすことも出来るんですよ、
と言った、という事になるでしょう。

***

仏教では、わたしたちに内在するストレスの原因を、
普通、貪(偏好・嗜癖)・瞋(怒り)・痴(無明)の三つ(三毒)で説明します。
日本では、ここに、慢(自他比較)
疑(知ることの拒否)
見(私は正しく他は間違いと決めつける見解)を加えて、
根本六煩悩とします。

日本仏教の煩悩の分類は、限りなくあります。
除夜の鐘などで知られる百八が最多だと思いますが、
そんなに覚えるのは大変ですし、実際に使いこなしにくいですから、
何事も暗記しなくては気が済まない人だけ覚えれば、普通、六煩悩位で足りると思います。

“痴”を除いた五つの“煩悩”が、直接的にも、
周囲との関係悪化の原因となるであろうことは、なんとなく想像できます。

しかしそれだけでなく、仏教では、
これらの心理自体が、心理的ストレスとして心に悪影響を及ぼし、
萎縮・硬直したり、落ち込みがちで暗い心の状態を引き起こすと言います。

それが積み重なると、病気など生理的ストレスの原因ともなると言い、
また、そうした心理を動機として起こす行動の積み重ねが悪因縁となり、
やがて悪果として様々な物理的ストレスをもたらす一因となると考えるのです。

ですから、メタ認知を鍛えて、
こうした心理が生じる最初の所で気付けるようにし、
想念が頭の中で膨らむ前に他の事を考えるなり集中して止めてしまうのがベターとされます。
それがストレスを減らす、という事につながるのです。

想念が膨らんでしまうと、煩悩は力を持ち、
自力で止めるのが難しくなってしまいますから。

しかし、そうは言ってもそれは理想で、
ことはそんなに簡単に行かない、という実感だってあるとは思います。
それは勿論その通りで、ダライ・ラマだって、
怒りを止めるために相当苦労なさったと書いてありました。

でも、努力すれば、
努力しないよりはかなり良くなると思います。

***

実のところ、“痴(無明)”以外の五つの煩悩は枝葉であり、
これらの親玉、根源的ストレッサーとなっているのが“痴”なのです。

他の煩悩は、比較的簡単に、メタ認知で気付くことができます。
でも“痴”は無意識的で、最初から心にしみついているものですから、
中々、気付くということができないのです。

痴=無明というのは、無明でなくなって振り返ったときに、
初めて気付く事ができるような物と言えるでしょう。

痴=無明というのは、知らないという事です。
何を知らないかと言うと、事実を知らないのです。
産まれた時から見ている物事の見掛けを信じていて、
本当の姿を知らないということです。

つまり、すべてが“空”であるという事実、

例えばすべてが、常に入れ替わっていく原子や分子が、
仮に形を取っただけの存在であるということ。
例えば、昨日の心と今日の心は、繋がってはいても同じではないこと。
だから人間は、いつも同じ存在ではないということ。

人間や世界が、どのように存在しているかという事に関する、
五感で感じることのできない事実。

こうしたことを知らないと、人間は、
五感で感じることに流されてしまいます。
流される以外にも生き方がある事に気付きません。

五感で感じたことから、いろいろ考えたり思ったりして、
その過去の考えや思いにこだわったり、要らぬプライドを持ったりします。

そうした事から、“痴”以外の煩悩が生じてきますから、
“痴”が、例え直接的なストレスをもたらさなくても、
それは仏教において根本的なストレッサーと考えられ、
対峙すべき主な課題とされているのです。

瞑想や学習などの方法で“空”を知り、実感していく事で、
“痴”は弱まり“慧(智恵)”が生じてきます。
それによって、他の煩悩は弱まり、
それを動機とする行動が少なくなっていきます。

将来のストレスの原因も、少なくなっていきます。

完全に“空”を理解し体得すると、
新たなストレスを全く生まない状態になれますが、
それには普通、一生で済まない位の相当な時間がいりますから、

平行して、メタ認知によるモニタリングとコントロールで、
出来る限りのストレッサーを取り除いていく。
そうすると、ストレスの少ない生き方に近づいていくのです。

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