Oceangreenの思索

主に、古神道、チベット仏教、心理学等に基づく日本精神文化の分析…だったはずなんだけど!

魂の課題とご利益

2010-06-29 | 大本および深見
これは、先々月号の“婦人公論”で江原氏も書いていたことですが、

人が人生の中で、何か問題に直面するということは、
その中で、魂が学ぶべき課題を見い出し、解決しなさい、
という事なんです。

ですから、例えば
子供が学校で問題ばかり起こす、とか、
恋人が欲しいのにできない、とか、
夫婦がうまくいかない、などという時には、

大概、自分の人間理解に問題があったり、ものの考え方に偏りがあったり、
或いは、ものごとに対処するスキルに欠け、
決別する決断力や勇気がなかったりするものです。

ですから、例えば宗教などで、そうした問題を相談された時には、
まず、相談者が学ぶべきことを見い出せるよう、
誘導しなくてはなりません。

もしそこが、ご利益をもたらす神を奉ずる宗教だとしても、
相談の中身だけ聞いて、では祈祷で解決しましょう、というのでは、
人々の魂を導く宗教とは言えません。

例えば、祈祷でお子さまは変わります、とか、恋人ができます、
あなたは何にも変わらなくても、お金さえだせば。
というのは、おかしいんです。

古代エジプトでは、
人間は、神の意識化の過程を担う神の一部、と考えられていたと、
以前書きましたが、
それ故に、人は自らの問題を意識的に、
現実的な手段で解決できるようにならなくてはいけません。

そうなってゆくことを、成長と呼びます。

自分は何一つ学ばなくても、神さまを信じているからすべてうまく行く、
というのでは、人として生まれてきた意味がありません。

ある程度心的な課題を明確にしてから、
相談者がそれをクリアするのを支えるために祈祷を行うのなら、
問題ないと思いますが。

様々な問題にたいして、何が課題であり、どうすれば良くなるのか、を、
相談者との対話から的確に見い出して行けるようになるには、
やはり沢山の現場での経験と学びが必要だと思います。

しかし、相談を受ける側もまた、
試行錯誤を重ねながらスキルを身に付けていく。
それが“因果を究める”ということに、
通じるのではないでしょうか?

***

深見の教団では一般的に、
自分の側に何か問題があるとは考えません。

それは関係なく、ともかく神力で押しきるのが正しいのであり、
神力を味方に付けるためには“明るさ”と“みんなのために”が必要、の
一本やりです。

特に名古屋エリア本部ではそれが顕著であり、
一度、自分の側の問題について考えることを提案したことがありましたが、
本部長に“暗い”と説教されました。

本部長が本当に、前世、日蓮上人の一番弟子だったなら、
仏教徒だった名残として、因果への志向性があるものと思いますが、

因果の必要を感じないだけでなく、むしろ拒否するのならば、
日蓮上人の一番弟子は腐れ仏教徒だった、という事になってしまいます。

***

こうした深見教団の傾向の一つのきっかけになったのが、
教団幹部による深見へのセクハラ訴訟、および、
税務署による立ち入り調査だと思います。

おそらく深見は、この打撃に対して、
自分の側にも何か問題があったと考えることができなかった。

相手が一方的に悪い法難であり、とにかく神力で越えるのだ、
という考えしか持てなかったのではないかと思います。

おそらく、自分の何が悪かったのかと
考え始めると、どうにもならないほど落ち込んでしまい、
悔しさと恨みと憤怒に呑まれてしまう状態だったのではないでしょうか?

相手を渋々赦すのが精一杯で、その受難を、
まるで自らがイエス・キリストになったかのように賛美していました。

しかし、おそらく問題は、
深見が、社会的な肩書きや学歴、年齢、性別による偏見で他人を判断し、
社会の評価に流されやすい事だったのではないかと思います。

もしも彼が、他人をそうした外的な条件から偏見で見るのではなく、
中身そのものを中庸の視点から見て、
不公平な評価を受ける人間は助けようとする人だったら、

つまづき、社会的な評価が地に落ちたとしても、おそらく、
助けてくれる人が周囲に集まり、
困難でも、より乗り越えやすかったのでは、と思います。

周囲からの支えが強くなるために、自らの問題にも、
より向き合い易かったでしょう。

しかし、“俺は悪くない、俺は迫害されている、社会が悪い、
神さま、越えさせてくれ”
という深見の傾向は、

自らを顧みず、すべてを他人のせいにする人間ばかりを、
彼の周囲に集めてしまったのでは?
と思います。

他人のせいにしているばかりでは、
魂の成長は、何一つないのですが…

最新の画像もっと見る