てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

てつりう“光源学”(7)

2006年10月31日 | 美術随想
 「和の明かり」をきっかけとして、光についてあれこれ考えつづけているうち、それとタイミングを合わせるようにして、大阪でインゴ・マウラーという照明デザイナーの展覧会が開かれていることを知った。彼はドイツ人で、その世界ではかなり有名な人のようだが、ぼくは名前すら聞いたことがない。しかしせっかくの機会であるから、出かけてみることにした。

 ところが会場に足を踏み入れた途端、あまりのまぶしさに目がくらむ思いがした。金属製のテーブルの上に、巨大な電球がいくつも置かれていたのである。その『バルブ』と名づけられたシリーズは、正確にいうと電球を模した形のランプだそうだが、ほのかな間接照明を想像していたぼくは思わずたじろいでしまった。太陽を直視したときのように、網膜に光の残像が踊った。

 そのときぼくは、西洋の光の歴史の上で電球というものが果たした決定的な役割に、そしてその影響力の大きさに、いやでも直面せざるを得なかったのである。

   *

 日本では、むき出しの灯火に和紙をきせることで「和の明かり」が形成されてきた。しかし西洋ではエジソンの出現によって、科学の力で人工の光源を輝かせるという、まったく別の歴史を経験してきたのだ。そして、現代に生きるぼくたちが夜を有意義に、また快適に過ごすことができるのも、一方で過剰なまでに明るい夜を作り出してしまい、生活のリズムに少なからぬ変調をもたらしているのも、もとはといえばこの電球のためなのである。

 インゴ・マウラーは、あるインタビューの中で「電球は私のデザインのテーマで、照明デザインの基盤だ」と明言している。その言葉を裏付けるような“電球礼讃”とでもいうべき作品群を観ながら、ぼくは手放しで賛同できない自分に気づかざるを得なかった。電球という明かりは、西洋化された日本に暮らしているぼくにとって、まさにアンビバレントな存在にほかならなかったのだ。

   *

 しかしマウラーは、電球にばかりこだわっていたわけではない。前回にも触れた発光ダイオード(LED)との出会いが、彼の作風に変化をもたらした。後期の作品を展示するフロアに入ると、先ほどまでとは打って変わって薄暗い。そしてその暗がりの中に、星を散りばめたようなテーブルやベンチが置かれていたり、壁にはバラの模様の電飾が浮かび上がっていたりするのである。いずれも発光ダイオードを用いた作品だという。

 それらは“照明であることをやめた光”であるように、ぼくには思われた。周囲を明るく照らすためだけに輝いている光ではないのだ。電球のもつ機能性から離れ、“光との戯れ”の境地に足を踏み入れているともいえる。そこにこそ、デザイナーの面目躍如たるものがあるような気もするのである。

   *

 「美の壺」の番組の中では、有明行灯というものが紹介されていた。これは行灯にもかかわらず、調光ができるというものである。いったいどうやるのかというと、何のことはない、穴が開けられた木の箱をかぶせるだけのことだ。しかしその穴というのが、満月の形をしていたり、三日月の形をしていたりするのである。

 満月のときは明るく、三日月のときは暗く、朧月のように妖しく光る行灯の美しさ・・・。常夜灯として用いられたというこの明かりは、有明行灯という風流な名前ともあいまって ― 有明とは、月が空に残っているのに夜が明けることだ ― 日本人の遊びの感覚をよくあらわしているように思う。

   *

 発光ダイオードを使ったインゴ・マウラーの照明は、こういった遊びの境地に一歩近づいている感じがするのだ。透明なガラスに白色の発光ダイオードを散りばめた作品を、マウラーは『スター・ダスト(星屑)』と名づけていた。有明行灯と『スター・ダスト』・・・もしこのふたつが家にあったら、と思うと、何だか楽しくなってくる。そうすれば、部屋の電気をつけっぱなしで朝まで眠り込むことなどなくなるのではあるまいか?

 家に帰って必要な用事をすませたら、はやばやと部屋を暗くし、そして有明行灯と『スター・ダスト』を灯そう。その幻想的な光をぼんやり眺めながら、穏やかに眠気が訪れてくるのを待とう。朝日の雄弁な輝きが、ぼくの目を覚ますときまで。

 ・・・こんなことはもちろん実現しそうもないが、これこそが光との健全な付き合い方なのだろう。少なくとも、今のぼくの生活よりは。

 《まあどう云う工合(ぐあい)になるか、試しに電燈を消してみることだ。》(『陰翳礼讃』)


DATA:
 「光の魔術師 インゴ・マウラー展」
 2006年10月7日~11月5日
 サントリーミュージアム[天保山]

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てつりう“光源学”(6)

2006年10月27日 | 美術随想
 4年ほど前のことになるだろうか。ぼくは大阪の中心地、阪急梅田駅にほど近い雑居ビルで働いていた。今までに何度か職場を転々としたが、これほどアクセス至便なところは他になかった。何しろ、会社の窓から阪急電車の高架線が見えるのである。

 しかしあるときを境に、建設中の建物がその眺めをさえぎりだした。隣接した土地に、何やら新しいビルを建てはじめたのである。殺風景な工事現場が窓をふさぎ、電車の振動音のかわりにドリルの音が聞こえるようになって、ぼくは閉口した。そのうち、近代的なビルが無機質な全貌をあらわすにちがいなかった。窓から見えるものが隣のビルの壁だなんて、こんなにつまらないものはない・・・。

 だが、ちらほらと耳に飛び込んできた情報によると、そのビルは安藤忠雄が設計したらしいということがわかってきたのだ。隣の工事現場は俄然、興味をそそられる存在となった。安藤建築ができあがりつつある瞬間を、毎日のように間近で観察できるチャンスというのは、そうそう転がっているものではないからだ。だが工事現場というものは ― 住宅ならともかく、高層ビルではなおのこと ― 素人が見てもさっぱりわけがわからないものなのである。おまけにぼくの仕事はといえば、毎晩終電で帰らねばならないほど忙しく、のんびり窓の外を眺めている余裕もないのだった。

   *

 ところが、それほどまでして働いたにもかかわらず、突如として会社は傾いた・・・というか、傾いたのを上層部が隠していたのが露見した。一部の社員に給料が支払われないという事態が発生し、のっぴきならぬ現実が目の前に立ちはだかったのだ。ぼくたち社員は討議のすえ、全員で申し合わせて辞表を手にし、社長の前に列を作った。ちょっと待て、話し合おう、話し合おうと繰り返しながら窓際に後ずさりする社長を尻目に、ぼくたちは永遠にその会社からおさらばした。

 そのあと、梅田の高架下の食堂に入り、これまで一緒に食事をしたこともなかった同僚たちとささやかな送別会を開いた。ぼくたちは奇妙に高揚していて、不思議な優越感で結ばれていたようである。しかしそれはいうまでもなく、空しさに裏打ちされたものだった。ぼくは特に、安藤忠雄のビルが完成するのを見届けることなく去らねばならないのが、残念で仕方がなかった。

   *

 しばらくして、その新しい建物は完成した。それは宝塚造形芸術大学大学院の梅田キャンパスというものだった。安藤建築というと、打ちっぱなしのコンクリートを素材にしたものが有名だが ― ちなみにぼくが今住んでいるマンションも、安藤忠雄ではないがコンクリート打ちっぱなしの外壁である ― しかしその建物はそうではなかった。半透明のガラスで覆われた直方体が、ほとんど何の装飾もないままに、ただ真っ直ぐ、すらりと立っているのである。それはあたかも、大都会にいきなり出現した巨大な行灯のようだ。

 それだけではない。日中はそれこそ昼行灯のように目立たないが、夜になるとその建物は表情を一変させるのだった。内部から、ほのかな光を放ちはじめるのだ。しかもその光が、徐々に強くなったり淡くなったりを繰り返しながら、色とりどりにゆっくりと変化する。ビルの壁面に光を照射してイメージを映し出すという試みは聞いたことがあるが、このビルはみずからが光り輝くのである。

 これはジェームズ・タレルという、光の芸術家が手がけた照明だということだ。最近耳にすることの多い発光ダイオード(LED)が光源に使われていて、光の三原色の組み合わせで何種類もの色を作ることができるという。ぼくはタレルの存在は知っていたし、テレビでその作品を見かけこともあったが、実際に目の前にするのは初めてだった。梅田に出かけたときなど、時間があればぼんやりとそのビルを眺め、光と色の移ろいを楽しんでいたものだ。それは確かに、ぎらぎらと自己を主張するだけの広告ネオンとは異なっていた。ひとことでいえば、おくゆかしい光だった。

   *

 安藤忠雄とタレルとのコラボレーションは、瀬戸内海に浮かぶ直島でも観ることができるという。『南寺(みなみでら)』という木造建築と、その内部に展示された『バックサイド・オブ・ザ・ムーン』である。しかし展示といっても、壁にかかっていたり、床に置かれていたりするわけではない。それはざっと次のようなものだそうだ。

 《中は全くの暗闇で方向感覚を失ってしまい、足を一歩も前へ踏み出すことができないほど、恐怖を感じる。そこにじっと立っているのが精一杯である。ただそこにいる自分の存在だけを感じる時間が過ぎていく。待つこと十数分。徐々に目が暗闇に慣れてきて、光が見えてくる。正面に四角く青白い光が現れる。それまで闇だった空間は、その時には光に満ちた輝かしいものへと変化している。側まで近づいてみると、どこまでも微かに光り輝く空間が無限に広がっている。》(「直島通信」vol.5)

 これを実際に体験したことのないぼくは頭で想像するしかないが、この文を読むかぎり、真の暗黒を経て光を再発見するプロセスが意図されているような気もする。光と闇とは、やはり表裏一体なのだ。闇なくして本当の光もない。街をどんどん明るくしてきた現代人たちが、それとひきかえに失ったものは多い。

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てつりう“光源学”(5)

2006年10月25日 | 美術随想
 「美の壺」の中では、谷崎潤一郎の代表的な随筆である『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』についても触れられていた。ぼくは特に谷崎の愛読者というわけではないが、この本は何年か前に図書館で借りて読んだことがあった。そのときはそれなりにおもしろく読んだような気がするが、何しろ年月が経ってしまっているので、詳しいことは思い出すことができない。この機会に文庫本を買い込み、急いで読み返してみた。

 一読して思うのは、これはやはり日本人独特の感性で書かれたものだということである。日本家屋や工芸品、あるいは羊羹や味噌汁といった食べ物の中に、谷崎は陰と光の妖しい戯れを見出そうとしているのだ。谷崎といえば世界各国で翻訳されている小説家であるが、こういう美意識が海外の読者にどれほど伝わるものか、はなはだおぼつかないという気がする。

 逆に、谷崎の書いていることが多少なりとも実感できるこのぼくは、まだしも運がよかったといえるのかもしれない。ぼくが生まれたのは谷崎が世を去ってから6年後だが、そのとき日本はすでに高度経済成長期のピークともいえる時期を迎えていて、谷崎的世界は加速度的に過去へと押し流されていたはずだ。ぼくは北陸の田舎町に生まれたので、家の周辺には田んぼがたくさん残り、夜の闇はまだ深かったように思う(前述のとおり、星がよく見えたものだ)。夏休みに親戚の家に泊まりに行くと、用水路のほとりに蛍の飛び交うのが見えることもあった。もし都会のど真ん中に生まれていたら、谷崎が書いたことの片鱗も理解できなかったかもしれない。

   *

 この本が書かれたのは昭和ひとけたのころだが、そのときすでに「和の明かり」は西洋式の照明におびやかされていたようである。

 《京都に「わらんじや」と云う有名な料理屋があって、ここの家では近頃まで客間に電燈をともさず、古風な燭台を使うのが名物になっていたが、ことしの春、久しぶりで行ってみると、いつの間にか行燈式の電燈を使うようになっている。いつからこうしたのかと聞くと、去年からこれにいたしました。蝋燭の灯ではあまり暗すぎると仰(お)っしゃるお客様が多いものでござりますから、拠(よ)んどころなくこう云う風に致しましたが、やはり昔のままの方がよいと仰っしゃるお方には、燭台を持って参りますと云う。で、折角それを楽しみにして来たのであるから、燭台に替えて貰ったが、その時私が感じたのは、日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりした薄明りの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮されると云うことであった。》(谷崎潤一郎『陰翳礼讃』中公文庫、一部表記を改めた)

 時は過ぎ、今では“電燈”がほとんど日本中を席巻してしまったかに思われる。現在でも一部の店では、この国の伝統的な明かりを想起させるインテリアを見かけることがないわけではない。しかしそれは「和の明かり」ではなく、あくまで「和風の明かり」にすぎないともいえるだろう。今となっては、ろうそくだけの明かりなど思いもよらないことにちがいない。煌々と輝く明るい照明に慣れてしまった目には、「ろうそくの暗さ」はわかっても、「ろうそくの明るさ」はもうわからないのだ。

   *

 先日のことだが、京都で開かれているプライスコレクションの展覧会に出かけた。アメリカ人の手で収集された江戸絵画コレクションの、いわば里帰り展である。といっても、ぼくはその展覧会のすべてを堪能してきたわけではない。会期の途中で展示替えがあるので、前期にしか出品されない8点の作品をひと目観ておくために、所用の合間を縫って駆けつけたのだった。

 会場に入ったときは、すでに午後4時に近かった。閉館まで1時間しかないが、近年の伊藤若冲ブームも手伝ってか、館内には人があふれていた。すべての絵をじっくり眺めることはできそうもないが、8枚の絵を観るためにはじゅうぶんである。ぼくはそう割り切って、順路に従ってずんずん先へ進んでいった。

 この美術館では、企画展示室は3階にある。しかし今回は3階から始まって4階へとつづき、さらに1階のロビーにしつらえられた特別室までつづくという、かなりの長丁場である。その特別室というのがまた凝っていて、窓際に12の床の間を作り、そこに酒井抱一の『十二か月花鳥図』を1枚ずつかけ、障子をとおした自然光で鑑賞するようになっていた。江戸時代に描かれた絵画を、できるだけ当時に近いシチュエーションで観られるように、ということらしい。当然のことながら、照明は使われていない。

   *

 ぼくは閉館間際にようやく特別室にたどり着いたが、絵を観るためにはあまりにも暗すぎるように思われた。すでに夕方になっているので、無理もない。ぼくは適当に絵の前を歩いただけで、そのまま帰った。後期展示を観にくるときには、もっと明るい時間帯に来よう、と思いながらだ。

 しかしこのたび『陰翳礼讃』を読み返してみると、谷崎はこんなことを書いているではないか。

 《われわれはよく京都や奈良の名刹を訪ねて、その寺の宝物と云われる軸物が、奥深い大書院の床の間にかかっているのを見せられるが、そう云う床の間は大概昼も薄暗いので、図柄などは見分けられない、ただ案内人の説明を聞きながら消えかかった墨色のあとを辿って多分立派な絵なのであろうと想像するばかりであるが、しかしそのぼやけた古画と暗い床の間との取り合わせが如何にもしっくりしていて、図柄の不鮮明などは聊(いささ)かも問題でないばかりか、却ってこのくらいな不鮮明さがちょうど適しているようにさえ感じる。》(同)

 ぼくはどうやら、絵を鮮明に観ることにばかり汲々としすぎていたようだ。陰翳を味わうことは、決して簡単なことではないのである。

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てつりう“光源学”(4)

2006年10月21日 | 美術随想
 それにしても、伝統工芸の後継者不足が叫ばれて久しく、衰退をたどりつつあるものが多い中で、和紙というのは現代でも比較的脚光を浴びているのではなかろうか。文具店などをのぞいてみると、和紙でできた便箋や封筒などが置かれているのを見かけることは多い。照明器具でも ― イサム・ノグチブームの余波であろうか ― 和紙を使った製品を見かけることが増えてきたような気がする。

 ぼく自身も、ある人から卓上型の小さな行灯のようなものと、アロマキャンドルとを贈られたことがあった。備え付けのろうそくのかわりにアロマキャンドルを入れて火をつけると、ほのかな明るさと心休まる香りと、両方楽しめるというなかなかの趣向である(煙草を吸わないぼくは、ろうそくに火をつけるためにわざわざライターを買わなければならなかったけれども)。

   *

 しかしイサム・ノグチとて、やはり20世紀の人である。いかに日本人の血が混じっているといっても、彼は最初から「和の明かり」に親しんでいたわけではなかった。ノグチが岐阜提灯に出会い、「和の明かり」を再発見するのは、すでに彼が40代後半を迎えてからのことである。いやもっと正確にいうと、次のようなことらしい。

 《イサムは、長良川の鵜飼を見物するため岐阜市に立ち寄ったとき、岐阜市長から、伝統の岐阜提灯を世界のインテリア市場に出すための助言を求められた。岐阜提灯はイサムにとって、父親とゆかりのある日本の伝統産業であった。(略)

 イサムは、白の美濃紙と竹を素材に、つぎつぎと異なるデザインを考案し、照明器具として淑子との新居で使った。》(ドウス昌代『イサム・ノグチ 宿命の越境者』講談社文庫)

 淑子とは、当時イサム・ノグチと結婚したばかりの女優、山口淑子(別名、李香蘭)のことである。それはともかく、ノグチの「あかり」はその発端からしてすでに“伝統工芸の活性化”という役目を担っていたということがわかる。結局ノグチの考案した「あかり」は大ヒットとなり、半世紀以上たった今でも売れつづけているようだ。現代の和紙産業も、このようなすぐれた時代感覚をもつ人と、堅実な職人たちの共同作業によって維持されているのだろう。

   *

 ちなみに堀木エリ子は、和紙のデザインやプロデュースをするだけにとどまらず、全身を覆う雨ガッパのようなものを着込んで、職人たちに混じって実際に紙を漉いている。彼女は一見キャリアウーマン風であると、ぼくは先に書いてしまったが、工房で汗みずくになって働いている写真を見ると ― 何しろ漉いている紙の大きさが半端ではなく、最大で16メートルの幅があるというのだが ― 手作業でものを作り出す喜びにあふれている。

 その姿は、特定の肩書きで代表できるようなものではない。あえていえば“つくる人”と呼ぶほかないだろう。ひたすら仕事に打ち込む“つくる人”の姿に、ぼくはいいしれぬ憧れをいだかずにはいられない。

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てつりう“光源学”(3)

2006年10月19日 | 美術随想
 「和の明かり」が成立するためには、どうやら和紙が必要不可欠のようだ。思えば、木と紙でできた家に長年住みつづけてきた日本人にとって、その素材はごく身近にあったはずである。障子越しに日の光が射し込む、その柔和な明るさは、われわれの先祖にとって親しいものであったにちがいない。行灯や提灯といった、光源を和紙で包み込むという発想は、普段の生活の中から自然に生まれ出てきたものではあるまいか。イサム・ノグチも、堀木エリ子も、その伝統の上に立って仕事をしているのだろう。

 その点、西洋の明かりはランプのように、透明なガラスで包まれていた。明るさをストレートに伝えるガラスの照明は、ほのかな「和の明かり」とは対極にあるといっていい。そこには光と闇という、厳しい二律背反の図式が透けて見えるようである。暗黒に拮抗し得る、確実で揺るがぬ光をこそ、西洋人は求めていたのかもしれない。

 そしてこれはぼくの想像だが、キリスト教のいわゆる“神の光”というものが、西洋の明かりの感覚に影響を及ぼしているようにも思う。それは闇を打ち砕く、強靭な光でなければならなかったはずだからだ。しかしぼくはクリスチャンではなく、西洋人でもないので、本当のところはわからない。

   *

 ガラスといえば、オランダの住宅はガラス窓が非常に大きいということを、何かのテレビで見たことがあった。しかも曇りガラスなどではなく、透き通ったガラスであり、それをしょっちゅう磨き上げてはピカピカにしておくのだという。カーテンやブラインドなどもあまり使わないそうである。

 おのずと家の内部は丸見えになるはずで、プライバシーは大丈夫なのかと心配にもなるが、そうやって広く開けられたガラスの空間からは、北国のあまり高くはのぼらない太陽の光がさんさんと射し込んでくるのだろう。そういえば「ガラス」という日本語は、もともとオランダから入ってきた言葉らしい。

   *

 ジャポニスムを取り入れたといわれているエミール・ガレやドーム兄弟のランプシェードも、もちろんガラス製である。だが彼らの場合、それがガラスであるといわれても、にわかに信じられないことが少なくない。ぼくたちはまず、ガラスは透明で脆いものだと頭から思い込んでいるが、ガレたちの作るガラス作品はしばしば不透明で、重厚な物質感をもっているからである。しかし照明を透かしてみると、確かにほんのりと明るいのだ。ぼくはガレのランプを初めて観たとき、「光を孕んでいるようだ」と感じたことをよく覚えている。

 ガレたちは、花鳥風月といった和のモチーフを採用したというだけではなく、ひょっとしたら日本人の感性を深いところで理解していたのではなかろうか? なぜなら、彼らは日本人が昔から和紙でやってきたことを、ガラスという新しい素材を使って試みようとしているかに思われるからだ。色ガラスを何層にも被(き)せ、金銀の箔を散らし、光を妖しく拡散させる手法は、照明に微妙なニュアンスを求めた「和の明かり」と相通ずるものがあるような気がするのである。

   *

 余談だが、ガレは1900年に開かれたパリ万博にこれらのガラス工芸を出品し、グラン・プリを獲得した。またドーム兄弟はガラス部門の大賞を受賞してもいる。彼らのガラス作品が最も高い栄誉に包まれたこのときの万博会場は、グラン・パレというガラス天井の建物であった(今でも現存している)。しかしその天井に嵌め込まれたガラスは、ごく普通に日の光をとおす、透明なガラスである。

 鉄骨とガラスとでできたこの巨大な建物は、きたるべき20世紀建築のモデルとなったかもしれないのだが、その建物の中で展示されて喝采を受けたのが、ガレとドーム兄弟のガラスだったということは、ぼくには大いなる皮肉に思われる。ふとかえりみれば、ガラスと鉄骨でできた街に日々暮らしつつ、ガレのランプを愛してやまない日本人の屈折した状況が、そのときすでに予言されていたかのようではないか?

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