〔芸術センターの4階の窓から日が射し込む〕
ぼくが三沢厚彦の展覧会を観たのは、最終日だった。朝から天気が悪く、最初はどこにも出かけるつもりがなかったのだが、三沢本人のギャラリートークがあることを知って、急遽出かけることにしたのである。
だが会場に着いてみて、驚いた。入口の自動ドアが閉まりきらないぐらい、多くの人が集まっているではないか。一見すると若い人が多いようにも見受けられるが - ぼくは「日展」での工芸の列品解説のように年齢層の高いものをよく聞くからそう感じるのかもしれないけれど - 特に学生ばかりというわけでもない。三沢の作る動物は、意外なほど多くの人々に受け入れられているようだ。
やがて、マイクを持った三沢氏があらわれた。わざわざ紹介されなくても、この人があの動物たちの生みの親だな、ということがたちどころにわかる風貌だ。今年50歳になるそうだが、髭をたくわえているにもかかわらず、あまり芸術家然としたところはない。どこか地方で農場でも営んでいるように見えるといったら、怒られるだろうか。
***
〔「文學界」4月号。三沢厚彦の猿が表紙を飾っている〕
だいたいぼくは、作家や芸術家が自作について語る言葉を、それほど傾聴するほうではない。よくいわれるように、作品というものは作者の手を離れたとたん勝手にひとり歩きをはじめるものであり、いったんそうなってしまったら最後、「本当はこういうつもりで作った」などと主張したところで聞き入れてはもらえないからだ。ぼくが工芸の解説を聞いたりするのも、作者がどういった思いをこめて作ったかというよりは、具体的にどのような素材や技法を駆使したかを知りたいからである。
しかし三沢厚彦は、自分の技法についてほとんど何も語らなかった。現代の美術は立体作品に限らず、絵画や、とりわけ“ミクストメディア”と呼ばれるような - 早い話が分類するのが厄介な - さまざまなジャンルにおいても、作者の技術的な巧拙に関してはあまり言及されない。なかには美大でいったい何を教わってきたのかというような、テクニックのまったく感じられない作品もある(それこそ野田弘志に代表される写実絵画は、大きな例外だが)。“どのように作るか”よりも“どんなものを作るか”が、今の芸術家にとって最大の関心事なのだろうかとさえ思われる。
三沢の話のなかで印象に残ったのが、リアリティーとリアリズムはちがう、というようなことだった。たしかに、写実絵画の身上はリアリズムの具現化であるが、そこに描かれているものに生き生きとしたリアリティーを感じられるかというと、一概にそうともいえない気がする。逆説的にいえば、リアルすぎるがゆえにむしろどことなく空虚な、現実のものではないものを観ているのだという感じにうたれることが、なくはない。写真に撮られた顔が、その瞬間によってまるで別人に見えることがあるように。
動物というものはわれわれに親しい存在であるだけ、リアルに作り上げることは難しい。あまり本物に忠実すぎると、それは剥製になってしまう。野田弘志をはじめとした写実画家たちが、人間は別としてほとんど生き物をモチーフに取り上げようとしないのも、そのへんに理由があるのではないか。野田は、動物は動物でも、その骨を執拗に描いている。たしかに毛皮に覆われた体が滅び去って、あとに残った白い骨はもはや不動のものであり、確固たるリアリズムに耐え得るだけの強固なモチーフとなるだろう。だがときとして、それはあまりにも冷たく、われわれの日常からは遠くかけ離れてしまうのである。
つづきを読む
この随想を最初から読む