てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

てつりう“光源学”(1)

2006年10月15日 | 美術随想
 このところ仕事が忙しくなり、帰宅が深夜に及ぶ日々がつづいた。展覧会の予定をたっぷり詰め込んでおいた三連休も、終わってみれば丸一日休みがとれたのは日曜日だけであった。しかしその僅かな空き時間を縫うようにして、ぼくはやはり美術館に駆けつけずにはいられなかった。美術と向き合う時間をもつことで、仕事に流されがちな日頃の生活にブレーキをかけ、自己を確かめることができるとぼくは考えているからである。オーバーなことをいうと思われるかもしれないが、ぼくは単に“美術が好き”というだけの理由で展覧会にかよっているわけではないのだ。

 人間には“立ち止まって考える”ことがいかに重要か、ぼくは疑ってみたこともない。立ち止まることによって、人間は自分が今いる場所を正確に知ることができ、同時に自分を取り巻く他者の存在や、世間との距離感がはっきりと見えてくるのである。ぼくが美術にのめりこんだのは、それが“立ち止まって考える”のに絶好の素材であったからにほかならない。展覧会に出かけることは、そしてそこに並べられたひとつひとつの作品を観てまわることは、考えるきっかけをぼくに与えてくれる貴重な体験なのである。

 このつたない美術随想録も、考えに考えたあげく ― あるいは考えることと並行しながら ― 書いている。したがって、書き上げるまでにある程度の時間がかかることはやむを得ない。なかには、展覧会を観てから何か月も経ってようやく完成するものもある。ブログという媒体の特色ともいえる“速報性”からは、ぼくは大きく遅れをとってしまった。しかしこれでいいと思う。まず展覧会の第一印象からはじまって、さまざまな資料や文献などを読んで思考の外堀を埋め、徐々にぼくなりの核心に到達するために、それは必要な時間だからである。

   *

 先ごろまでイサム・ノグチに関する記事を書いていたのだが、それはイサム・ノグチについて考える日々でもあった。しかし仕事が多忙になるにつれて ― それが肉体労働ではなく、多少頭を使わなければならない仕事だけになおさら ― 考えることが困難になってくる。だからといって、いったん書きかけたものをそのまま放置しておくと、ふたたび外堀に水がたまってきてしまい、これまで考えてきたことごとが無残に溶け出してしまわないともかぎらない。ぼくは困り果てた。

 たとえ不充分なものであっても、少しずつでも書き継ぐべきなのかもしれない。しかしブログというものが人の目にふれるものである以上、おざなりなことは書くべきでないという妙なこだわりも、ぼくには確かにあったのだ。あるときなど、次のようなことが頭をよぎったりした。ブログはあくまで下書きの場ということにして、推敲して手を入れたものを発表するホームページを別に開設すればいいと・・・。あたかも新聞や雑誌に連載した小説を、加筆訂正して単行本化するような具合に、である。

 しかしどちらもウェブ上に公開されるものである以上、発表の場を二重にすることに意味があるとも思えない。結局、ぼくは毎晩帰宅したあと、ひとまず何をさしおいてもパソコンに向かってみることにした。余った時間のすべてを、随想の執筆に費やそうと試みた。しかし悲しいかな、日中は仕事に容赦なく追いまくられ、ぼくは心身ともに疲弊しきっていたのである。ふと気がつくと、部屋の電気を煌々とつけたまま、パソコンもつけっぱなしのまま、すでに夜が明けようとしていることがよくあった。ぼくは布団も敷かずにごろんと横になり、いつの間にか眠り込んでいたのだ。

 気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝
 これじゃ身体(からだ)に いいわきゃないよ


 生まれるずっと前に流行った歌の一節が、何となく口をついて出たりした。ぼくが“立ち止まって考える”生活から、かなり遠くに来てしまっていることは明らかだった。

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