てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

フェスよさらば

2008年12月31日 | その他の随想


 おみくじで凶を引いてはじまったこの2008年は、ぼくにとってまことにひどい年だった。生涯最悪の一年といっても過言ではない。できることなら今すぐ記憶のなかから消し去ってしまいたいぐらいだ。風呂へ入ろうと服を脱ぐたびに、下腹部の傷がつらかった手術の記憶を思い起こさせる。

 しかしこの不景気では、2009年が今年をうわまわる最悪の年にならないという保証はどこにもない。いわゆる非正規労働者であるぼくは、明日をも知れぬ思いでびくびくしながら過ごさねばならないのであろうか? そんなぼくを支えてくれ、日々の原動力になってくれるのが美術であり、芸術だ。腹の足しにはならないが、心を豊かに満たしてくれ、明日も生きようと思わせてくれるのである。

 厳しいふところ事情のなか、今年も年末の「第九」の演奏会を聴いた。今から考えるとかなりの出費だが、チケットが売り出された数か月前にはこれほど深刻な不況が襲ってくるとは夢にも思わなかったのだ。今年最後の贅沢のつもりで、大阪中之島のフェスティバルホールに赴いた。チケットをお金に変える手段もあったのだろうが、ぼくはどうしても出かけたかった。

                    ***

 18年前に福井の実家を出て、ひとまず大阪の豊中市に落ち着いたが、そのころのぼくは美術よりもクラシック音楽の虫だった。以前の記事でも書いたことがあるが、思いがけずテレビで「第九」の全曲を耳にして、あっという間にとりこになってしまったのである。当時はすでにCDが普及しはじめていて、慣れない仕事から帰宅したあと、壁の薄いアパートの一室に疲れた体を横たえながらヘッドホンで聴くクラシックのCDがぼくの癒やしであった。

 お金がたまると、少しずつコンサートに出かけるようになった。何といっても驚いたのが、福井とはちがって毎日のようにどこかしらで公演があることと、会場となるホールの豪華さだった。今では福井にもクラシック専用のホールができているが(ただしぼくは入ったことがない)、昔は一流の演奏家が来演したときでも、文化会館のようないわゆる多目的ホールを使って間に合わせていたのである。

 フェスティバルホールにはじめて入ったときは、本当に度肝を抜かれた。ロビーにはまるで高級ホテルのような深紅のカーペットが敷き詰められ、天井からはシャンデリアがいくつも下がっている。壁面には絵画が何枚も掛けられ、過去に登場した名演奏家の写真がずらりと掲げてある。ホールの内部に足を踏み入れてみると、天井の高さに眼がくらむようだった。2700もの座席があるということで、大阪にはこんなにクラシックを愛好する人がいるのかと感心したものだ(もちろんやって来るのは大阪の人ばかりではないけれど)。

 ぼくが聴いたいくつかの公演のなかでも忘れがたいのが、朝比奈隆が大阪フィルを指揮した「第九」の公演である。毎年12月29日と30日の両日におこなわれていて、3、4回ぐらいは聴いたのではないかと思うが、一度はマエストロの後ろ姿を仰ぎ見るような位置に座ったことがあった。当時すでに80代の半ばであったけれど、聴いているほうにまで気迫が伝染するかのような熱のこもった演奏をくりひろげるかと思うと、第3楽章の美しい調べには心の底から陶酔することができた。演奏が終わると、マエストロは指揮棒を隣にいる弦楽器奏者の譜面台に挟んでこちらへ向き直るのだが、そのとき指揮棒がひどく震えているのが眼についた。年齢のせいか、それとも極度に興奮していたせいか、それはわからない。

 そんな思い出のフェスティバルホールが、今年限りで建て替えられるというのである。その最後を見届けるために、ぼくは29日の「第九」のチケットを買ったのだ。時間より早く着いてみると、人々はすでにぎっしりと集まって開場を待っている。ホールの50年の歴史を振り返るパネルや映像が展示されていて、それを熱心に見てまわる人もいる。大変な熱気だったが、今日が朝比奈隆の命日だったことに気づいた人はどれだけいただろう。

 オープンした翌年の1959年には、作曲家のストラヴィンスキーがN響を率いて自作の『火の鳥』を指揮した。そのときのモノラル映像はNHKでたびたび放送されているが、楽団員に混じって若き日の岩城宏之や黛敏郎が舞台にのっていたそうである(このふたりもすでに故人となった)。西日本の音楽シーンを支えてきた歴史あるホールが、その姿を消すのは何ともさびしい気がする。

                    ***

 この日の「第九」を振ったのは、現音楽監督の大植英次だった。彼の演奏を聴くのははじめてだが、登場してみると思ったより小柄なのに驚いた。この小さな男が、朝比奈亡き後の大阪フィルを牽引しているのである。

 彼は指揮棒を持たず、ときに歌舞伎役者が見得を切るような不思議なポーズを織り交ぜながら、熱い「第九」を聴かせてくれた。演奏については、批評めいたことはいうまい。大植は指揮者としてはまだ若いし、前任者の長い歴史に比べれば大阪フィルとのコンビも緒に就いたばかりである(余談だが、プログラムを見ていたら楽団の理事の名前の欄に橋下某とあったので驚いた。彼はいったい何をやってくれているのだろう。なくなるのはホールだけでじゅうぶんだ)。

 終演後、ロビーはちょっとした撮影会の様相を呈していた。どこかの観光地に来たみたいに肩を並べ、シャッターを押してもらう人もいた。大阪フィルのカレンダーを売っていたスタッフは、お釣りを渡すときに「よいお年をお迎えください」といっていた。年の瀬とともに、名物ホールもその任務を終えようとしているのだった。

 2013年には、同規模の新しいホールとなって生まれ変わるということだ。だが、何百年も前のヴァイオリンが今でも名器とされているように、木が音と調和して豊かな響きをかもし出すには時間がかかる。新生フェスティバルホールが本当に鳴りはじめるのは、まだまだ先の話なのかもしれない。


DATA:
 「第9シンフォニーの夕べ」
 指揮:大植英次
 管弦楽:大阪フィルハーモニー交響楽団
 合唱:大阪フィルハーモニー合唱団 他
 2008年12月29日、フェスティバルホール

(了)



                    ***

 さて、つたないブログながら、今年もお付き合いいただきましてありがとうございました。4月に大きな病気をして以来、無理をするのをできるだけ避けているので(と思っていても無理をせねばならないときが多いのですが)更新のペースは遅くなり、書きかけの記事をたくさん積み残したまま大晦日を迎えることになってしまいました。2008年、本当に悔やまれる一年でした。

 来年こそは少しでも明るい展望が開けてくれることを祈りつつ、一日一日を真剣に生きてまいりたいと思います。

 皆さま、どうかよいお年を。

目次を見る

画家になりたかった男 ― ミュシャの商業芸術 ― (2)

2008年12月29日 | 美術随想

ミュシャ『モナコ・モンテカルロ』のポスター

 鉄道は、当時の文明の最先端であった。印象派の画家の絵にも列車や駅を描いたものが少なくないが、遠距離の旅行が庶民の娯楽として次第に定着しはじめた。そうなってくると、それを不特定多数の人たちに宣伝するのは広告の役目だということになる。ミュシャにも当然のように声がかかり、そうやって生まれたのが『モナコ・モンテカルロ』のポスターだ。

 画面の右下には、パリからモナコのモンテカルロまで16時間の旅、などと書かれているという。16時間も列車に揺られつづけることなど、今から考えるとうんざりするが、ミュシャの時代には夢のような話だったのかもしれない。モナコというと自動車レースのイメージがあるが、車が一般に普及するのはずっとのちのことである。ちなみに現代では、パリからモンテカルロへ列車で行こうと思えば世界最速のTGVで6時間しかかからないそうだ(それでもずいぶん遠い気がする)。

 しかしミュシャは、商品である鉄道の姿をまったく描かなかった。一見したところ、芝居のポスターと何ら変わるところはない。ひざまずいて天を見上げる娘の背後には、ライラックが光背のように丸く輪を描いている。まるで花の精か何かのようである。

 だが学芸員の説明によれば、娘の体を挟むように描かれたふたつの花輪は列車の車輪をあらわし、画面を斜めに横切る流線型の茎はレールを象徴するのではないかという。いわれてみればたしかにそうで、ミュシャは文明の利器を直接描くかわりに、植物に見立てたのにちがいない。広告としては持って回った表現だが、いかにもミュシャらしい作品に仕上がっているといえるだろう。

 けれども実をいうと、このポスターはミュシャの限界を示す絵なのではないだろうか、とも思えるのである。彼が時代の寵児だったこの時代には、おしゃれな、気のきいたアイディアだと持てはやされたかもしれない。しかし時代は次から次へと移り変わり、流行は変転する。機械文明を宣伝するのに美しい草花をもってする方法が、いつまでも有効だとはミュシャ自身も考えていなかったにちがいない。

 改めてこの絵を見ると、ひざまずいて口もとに指を当てる娘の姿が胸に迫ってくるように感じられる。彼女は、まるで祈りを捧げているようですらある。文明の進化が、植物の楽園とうまく共存できますように・・・。美しい花々に彩られ、花電車ならぬ花の車輪に身を委ねたこの妖精が、モンテカルロに連れて行ってもらえることを期待しているとは思えない。現代のポスターやコマーシャルフィルムには美しいモデルやタレントが登場するが、このような敬虔な表情を浮かべている人がひとりでもいるだろうか。

                    ***

 アルフォンス・ミュシャ館には、リトグラフだけではなくミュシャの油彩画も展示されている。なかでも『ハーモニー』は、幅4メートルに及ぶという巨大な壁画である。

 かつて、NHKの番組でこの絵が取り上げられたことがあった。それによると、ミュシャが渾身の力を込めたこの大作はなかなか日の眼を見ることができなかったという。アメリカの倉庫に眠っているのが発見されたのは、1983年のことである。描かれてから実に75年の歳月が流れていた。

 このときミュシャは、デザイナーとしての地位を捨て、パリという活動拠点も捨てて、結婚したばかりの妻とともにアメリカに渡っている。すでに40代後半という年齢にもかかわらず、新しい境地を求めて漕ぎ出したのである。やがて、ニューヨークに新しくできる劇場のために壁画を描いてほしいという依頼が舞い込む。画家としての力量を世に示す願ってもない機会だったが、描き上げられた『ハーモニー』は受け取りを拒否されてしまった。かつてパリ市民のハートをつかんで離さなかったこの人気者は、海を越えた新天地で大きな挫折に直面することになる。

 ぼくの眼から観ても、『ハーモニー』は絵画として自立し得ているとは思えなかった。たしかにアール・ヌーヴォー調の装飾は影を潜めていて、人物には多少の奥行きが与えられているものの、やはり芝居のような不自然なポーズをとり、現実味に乏しいような気がするのである。もちろん劇場を装飾する壁画だということもあるだろうが、これが描かれた1908年という時代を考えても、かなり古めかしい絵だといわざるを得ない。ポスターの世界で流行の最先端を突っ走っている間に、絵画の流行からはすっかりおくれをとってしまっていたのだ。

 しかしミュシャは、もう一度華やかなポスターの世界に舞い戻ろうとはしなかった。彼は故国チェコに帰り、連作『スラヴ叙事詩』全20点を仕上げ、プラハ市に寄贈する。あえて時代おくれの歴史画に取り組み、スラヴ民族のたどってきた苦難の道筋を描こうとしたのである。パリの地で活動した異国の芸術家が数多くいるなかで、祖国愛に燃えたこのような作品を残した人はほとんどいないのではなかろうか。この絵はモラヴィア地方の古い城に展示されているということで、ぼくは写真でしか観たことがないのが残念だ。

                    ***

 生涯の目標を達成したかにみえたミュシャだが、苦難の歴史は彼自身の人生にもつきまとっていた。チェコに侵攻したドイツのゲシュタポに逮捕され、ほどなく釈放されるものの健康を害し、その生涯を閉じたという。

 今、チェコから遠く離れた極東の島国にミュシャの優れたコレクションがあるのは、奇跡のようなものかもしれない。だがこの国でのミュシャは、やはりアール・ヌーヴォーのポスター作家という認識しかされていないといっても過言ではないだろう。彼はまだまだ、知られざる画家なのである。

(画像はいずれもアルフォンス・ミュシャ館蔵)

(了)


DATA:
 「ミュシャと世紀末芸術」
 2008年11月15日~2009年3月8日
 堺市立文化館 アルフォンス・ミュシャ館

この随想を最初から読む
目次を見る

画家になりたかった男 ― ミュシャの商業芸術 ― (1)

2008年12月28日 | 美術随想

ミュシャ『ジスモンダ』のポスター

 今年最後の美術館めぐりとして、大阪南部の堺市をチョイスした。おそらく美術のメッカとは認識されていないと思うので、やや意外に思う人もあるかもしれないが、詳しい向きにはよく知られている施設がある。アルフォンス・ミュシャ館がそれだ。あの、アール・ヌーヴォーの代名詞ともいうべきポスター作家のミュージアムである。

 堺市は、世界でも指折りのミュシャのコレクションを有しているそうだ。何でも、某カメラ店の創業者のコレクションが遺族によって寄贈されたのだという。ただしミュシャの美術館を建設するというのが条件だったが、まだようやく候補地を物色しはじめた段階で具体化のめどは立っておらず、それまでの間はスーパーと賃貸マンションに上下を挟まれたフロアに仮住まいという、ちょっと気の毒な状態である。いわば大阪市が所蔵している佐伯祐三のコレクションと同じように、珠玉のお宝は持っているけれどハコがないというわけだ(ちなみにそのカメラ店は数年前に倒産してしまった。そうなるより前に堺市に寄贈されていたというのが、作品にとってはせめてもの救いである)。

 堺には何度か来たことがあるが、JR堺市駅に降り立ったのははじめてだった。駅からは連絡通路がのびていてアクセスは抜群だが、そのアプローチからは美術のにおいはこれっぽっちも漂ってこない(かつて堺市立東文化会館というところに出かけたときも、まったく同じような印象を受けた)。戸惑いながらも矢印に導かれて入っていくとショップを兼ねた受付があり、今ちょうど学芸員の解説をやっていますからどうぞと、せかされるようにしてエレベーターに乗り込んだ。

                    ***

 これまでにも、ミュシャの展覧会は何度も観たことがある。作品の多くはリトグラフだから、いわゆる一点ものではないため、同じ絵がさまざまなところにコレクションされているはずだ。もちろん詳しく観察していくと、刷りによって微妙なちがいがあったりするのだろうが、いざ作品の前に立つとそんな冷静なことはいっていられなくなる。流麗な曲線と繊細な草花の描写、そして何よりも20世紀の映画女優の時代を予告するかのような官能的な女性の姿に魅了されざるを得ない。観る者の理性を麻痺させ、つかの間の陶酔境へといざなってしまう。これこそ、広告ポスターとしての絶対の強みであることはもちろんだろう。

 そういった名作のかずかずを頭に入れたあとで、ミュシャの出世作となった『ジスモンダ』のポスターの前に立ってみると、意外なほどシンプルで生硬さの目立つ表現であることに驚く。眼につくのは曲線よりも、縦長の画面を支える堅固な直線である。ジスモンダに扮しているのは伝説的な女優のサラ・ベルナールだが、まるで日本の裃(かみしも)のように角張った衣装を着けていて、体の線はまったくうかがい知ることができない。それにくわえて、彼女の胴体が絵のほぼ中央に立っているのに比べ、頭部はやや右にずらして描かれていて、もし医学の専門家が見れば背骨と頸椎がつながっていないというだろう。これまでポスターを手がけた経験のない一介の挿絵画家が、慣れない画面に悪戦苦闘した形跡があらわに見て取れるのである。

 それにもかかわらず、『ジスモンダ』のポスターは一夜にしてミュシャをスターにしてしまった。これにはもちろんベルナールの人気もあったにちがいないが、やはりミュシャがこの一枚のポスター作りによって、ある決定的な秘策にたどり着いてしまったからではないかと思う。すなわち、ポスターには真実性よりもデザイン性が優先されるということだ。誤解をおそれずにいえば、人間を深く探求しなくても、魅惑的なポスターを作ることはできるのである。純粋絵画と商業ポスターとのわかれ道は、おそらくこのあたりに存在するにちがいない。

                    ***


ミュシャ『メディア』のポスター

 『メディア』のポスターは、『ジスモンダ』より3年後に制作されたものである。古代ギリシャを代表するこの芝居は血塗られた復讐劇であり、ポスターもミュシャには異色ともいえるおどろおどろしい仕上がりになっている。中央に立つ王女メディアに扮するのはやはりサラ・ベルナールで、左の腕には蛇が巻きついているが、これを気に入ったサラは宝飾店に蛇のブレスレットを作らせ、舞台で実際に着用したということである(このブレスレットもアルフォンス・ミュシャ館に展示されていた)。

 ここでもやはり、肉体に過度なデフォルメがほどこされていることに気がつく。ただしそれは自由の女神のような冠をかぶったサラではなく、足もとに横たわる女の姿に顕著だ。彼女は(死んでいるせいもあるかもしれないが)あり得ない具合に体をのけぞらせ、よくよく観ると左手が両足の間に挟まっているというまことに不可解な姿勢をとらされているのである。

 学芸員の話によると、右側にサラ・ベルナールの名前が縦書きで記されていることや、日本の落款を模したらしい文様が描かれていることから、この作品はとりわけジャポニスムの影響が強い一枚であるという。メディアの顔の背後に描かれたたなびく雲の表現も、我が国の屏風絵などにみられる金雲と似た表現であるともいっていた。たしかにそのとおりだが、『ジスモンダ』にしても『メディア』にしても、画面上部に描かれたモザイク風のタイトル部分は明らかに西洋の石の文化にその出自をもつように思われる。

 チェコに生まれ、ウィーンとミュンヘンに学び、パリに出てようやく開花したミュシャの才能は、さまざまな国の芸術のエキスを少しずつ吸い上げた複雑な遺伝子から成り立っていたにちがいない。

つづきを読む

メリー・クリスマス・アフター

2008年12月27日 | 写真記


 クリスマスは、子供のころから好きである。貧乏な借家住まいだった我が家も、その日だけは明るく和やかな空気に包まれた。一抹の厳粛さが伴う正月に比べて、福井の厳しい冬のさなかでほっとできる瞬間でもあった。

 ぼくには弟がいるが、ふたり揃って背丈より高いクリスマスツリーを組み立て、雪がわりの白い綿を散らして、点滅する電飾を巻きつけた。ケーキを頬張ったり、写真を撮ったり、ひとしきり騒いだあとに、二段ベッドの上と下とにわかれて横になるのだが、小声で示し合わせて「今年こそは寝ないでサンタクロースの正体を見極めてやろう」ということになるのが常だった。しかしいつの間にか眠りこけてしまって、朝になりまぶたをこすりながら起きてみると、枕もとにはすでにラッピングされた包みが置かれてあり、ぼくたちは悔しいような嬉しいような何とも複雑な表情をしながら互いのプレゼントを見せ合いっこしたりした。

 もう長いこと、ぼくの独り住まいの家にはサンタが来てくれたこともないし、ぼく自身がサンタの役割を務めたこともない。しかしクリスマスが近づくと何となく気持ちが浮き立ち、自分にささやかなご褒美をあげたくなることもたしかだ。各地のイルミネーションは年を追うごとに凝ったものになり、派手さを増し、期間も長くなり、まだ紅葉も終わっていないというのにツリーが輝いていたりする。ちょっと行き過ぎではないかという気がしないでもないが、こんなときぐらい街をきれいに飾り立てないと、醜いことに満ちあふれた世の中には夢も希望もないようなものだ。ちょっとひねくれた見方をすれば、クリスマスの装いは荒廃した社会の毒をかき消すために豪華にならざるを得ないのである。


〔梅田スカイビルのクリスマスツリー。トップの画像は会場内にあった19世紀製のメリーゴーラウンド〕


〔京都市役所付近のクリスマスツリー〕

                    ***

 先日、久しぶりに大阪吹田の万博記念公園を訪れた。ある展覧会を観て、閉館間際に外へ出ると、やはりイルミネーションがはじまっていた。他の場所とはちがってここでは入園料が必要だが、家族連れでけっこうな賑わいをみせていた。

 会場の一角には国際色豊かな屋台が出ていて、タイ料理やインドのカレー、トルコの何とかいう食べ物などを外国人が手ずから作って売っていたが、もっともお客を集めていたのは富士宮の焼きそばである。これにはちょっと笑ってしまった。

 太陽の塔には「デジタル掛け軸」なるものが投影されていた。プロジェクターから映し出された文様が、ゆっくりとランダムに姿を変えていく。実はこれと同じものを、去年の冬に嵐山の法輪寺というところで見たことがあったが、あのときは移ろう光のさざめきのなかに身を置いているような錯覚があった。今回は広場のど真ん中に置かれている塔を遠巻きにして眺める感じだったが、神秘的でもあり、現代的でもあり、見慣れた太陽の塔の顔がさまざまな色に塗られていくのは滑稽でもあった。


〔太陽の塔をバックにツリーが輝く〕


〔映し出された「デジタル掛け軸」〕

                    ***

 その翌日に、今度は大阪の中之島に出かけてきた。ここでは何年か前から「光のルネサンス」というイベントがおこなわれている。これまで行こう行こうと思って果たせないでいたが、このたびようやく足を運ぶことができたのである。

 その日はあいにくの雨模様で、やんだかと思うとスコールのように降り出す不安定な天候だったが、多くの人でごった返していた。なかでも目玉となる「ウォールタペストリー」の観客席はすでに満員で、時間ぎりぎりに駆けつけたぼくは立ち見で見物するしかなかった。これは中之島図書館のファサードをスクリーンにして映像を映し出すというショーである。

 美麗なソプラノが歌う「アメイジング・グレイス」が大音量で流れ出すと、くすんだ重厚な図書館の建物が次々と色を変えはじめた。ときには宝塚の舞台かと思うほど豪奢に飾りつけられ、ときには舞い落ちる雪の結晶があたりを包み込んだ。最後には屋根のてっぺんあたりから無数のシャボン玉が落ちてきて、本物の雪さながらにきらめいた。観客たちはひとしきりざわめき、「きれいねえ」という声も聞かれたが、こんな演出が喜ばれるということは、それだけホワイトクリスマスがわれわれから縁遠くなっている証拠でもあるだろう。思い返してみれば、ぼくも福井を離れてからは一度も経験していないような気がする(ちなみに今年の福井は、クリスマスの翌日に雪が降ったそうだ)。


〔中之島図書館の「ウォールタペストリー」〕


〔今年が最後のフェスティバルホールの電飾〕


〔ビルの壁面にレーザー光線で描かれたメッセージ〕


〔鳥取砂丘の砂で作られた造形〕


〔並木が色とりどりに輝く。ダイビルをバックに〕


〔中之島三井ビルには聖夜一晩かぎりのツリーが登場。堂島川に浮かぶ光のボートにはサンタが乗っていた〕

                    ***

 しかし今の世の中には、クリスマスどころでない人がたくさんいることもたしかだ。先ごろ、久しぶりにチャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』を新訳で読み返したが(池央耿訳・光文社古典新訳文庫、下図)、その舞台となっているヴィクトリア朝時代のロンドンでも、富裕と貧困という大きな格差が生じていることは現代と同じである。だが、貧しき人々のうえにもクリスマスの恵みがもたらされるということが、日本とは大きくちがうところだ。クリスマスは本来、慈善と奉仕のための祝日でもあるのである。だからこそ吝嗇な主人公スクルージは、多くの人から忌み嫌われると同時に、陰ではあたたかい祝福の言葉を送られてもいるのだ。



 ところが我が国では、クリスマスは自分たちだけのものである。人にプレゼントをあげるのも、親しい者たちとの関係を良好に保つための一種の方便だといってもいい。毎日、加速度的に増えつづけていく失業者たちが、その恩恵にあずかることは絶望的に困難なことだろう。かくいうぼくも、失業こそしていないが明らかに貧困層に属するので、今年のクリスマスは電飾を眺めるだけで終わった感じがする。

 25日の夜9時ごろ、仕事を終えて梅田の地下街を通りかかると、何やら作業服のようなものを着込んだ大勢の人たちが待機しているのを見かけた。いうまでもないことだが、クリスマスの飾りつけは26日の朝までに撤収してしまわなければならない。旬の過ぎた聖夜はたちまちのうちに拭い去られ、迎春の装いへと早変わりする。浮かれ気分で家路につく人がいる一方で、徹夜で後片付けに追われる人が何百人となくいるはずで、彼らはその一団かと思われた。

 おそらく、そのなかには今年の失業組も何人か混じっているにちがいない。慣れない仕事を前にして緊張しているだろうか、それとも仕事にありつけてほっとしているのだろうか。人それぞれのクリスマスが終わり、今年も暮れようとしている。そしてまた、人それぞれのお正月がやって来るのである。

(了)

目次を見る

音引きの怪

2008年12月23日 | 雑想


 かつて大阪に住んでいたころ、文学の実作を学ぶ教室にかよっていたが、ある仲間が書いた小説のなかに「コーヒ」という言葉が何度も出てきた。気になったので「コーヒー、ですよね?」と念を押してみたら、「いや、コーヒ、ですね」と明確に否定されてしまった。ぼくは物心ついてからずっと「コーヒー」だと思い込んでいたので、一種のカルチャーショックを受けたのを覚えている。大阪ではよくそういう発音をするらしいのだが、だからといってそのとおりに書くとは限らない。

 大江健三郎は「テレビ」を「テレヴィ」と表記していたように記憶するが、人によって書き方の癖があるのは当然だ。それにしても「コーヒ」とは珍しいと思っていたら、のちに京都に住むようになったとき、「イノダコーヒ」という店があるのを知って驚いてしまった。そこは何でも京都を代表する老舗で、かの谷崎潤一郎もよく訪れたという名店らしい。ぼくは一度だけ入ったことがあるが、注文するときに「コーヒー」といわず「コーヒ」というべきか思い悩んでいたら、ブレンドコーヒーには「アラビアの真珠」という名前がついていたので、ちょっと緊張しながら「アラビアの真珠をください」などとオーダーしてやりすごした(ちなみにアメリカンコーヒーは「コロンビアのエメラルド」というそうだ)。

                    ***

 古い例になるが、夏目漱石の『吾輩は猫である』のなかには「ボイ」という言葉がよく出てくる。最初のうちは何のことかと思ったが、読んでいくうちにレストランなどの「ボーイ」のことだとわかってきた。しかし、英語が堪能だった漱石が実際に口でも「ボイ」と発音していたのかどうか、それは何ともいえないことだ。

 今でも路線バスに乗ると、乗降口のところに「ブザが鳴るとドアが開きます」などと書いてあるのを見かける。これは何も京都だけではないようだが、いったい「ブザ」とは何なのか。手もとの広辞苑をひもといてみても、「ブザ」という語句は見つけることができなかった。もちろん「ブザー」のことをさしているのは明らかで、業界用語なのかもしれないと思ったが、どうも違和感を禁じ得ない。

 記憶に新しいところでは、かつて多くの不具合を起こしたエレベーターのメーカーは「シンドラーエレベータ」という名前だった。ニュースを聞いていると、アナウンサーも注意して両者の発音を使い分けているようだった。実は日本のエレベーター会社には、ほかにも社名を「何々エレベータ」としたものがいくつかある。

 このような音引きの省略は、どうして起こるのだろう。いろいろ調べてみたが、JIS規格とやらがカタカナ表記に関して幅を利かせているらしいことと、そのベースになっているのが内閣の出した告示らしいことがわかった程度だった。しかし“お上”が定める国語表記の決定事項に関しては、素直にうなずけないものが多かったりする。何年前だったか、人名用漢字に「糞」「屍」などの文字を追加する案が示されたとき、その常識のなさには唖然としたものだ(これらの字は結局削除されたが、当然のことである。自分にそういう名前が付けられたときのことを、彼らは少しでも考えなかったのだろうか)。

                    ***

 日に日に増殖をつづけるカタカナ語のなかでもいちばん人の口にのぼるのは、今をときめくIT用語のかずかずだ。ぼくはこうやってパソコンを使ってブログを書いたりしているわりに、IT関連については疎いのでコメントのしようがないが、どうも日本人の感性には馴染まないような名称が多い感じがする。

 それだけではない。最近では「パーティー」と書かないで、のばさずに「パーティ」と書くことが増えてきた。「エンターテイメント」ではなく、「エンタテイメント」ないしは「エンタテインメント」と書くことも多くなっている。JIS規格にのっとればこういうことになるのかもしれないが、特に新しい言葉でもないのに表記が年々移り変わっていくということが、日本における外来語の落ち着きのわるさを物語っている。

 けれども日本語のカナというものは、外国語を聞こえたとおりに表記する記号として優れたものではないかと思う。もちろん外国には日本語にない発音がふんだんにあって、すべてが完全にカナに移し変えられるとは誰も考えていないだろうが、少なくともある程度は再現できるはずである。音をのばしたり縮めたり、あるいは「ウィーク」が「ウイーク」になったりするのは、一部の専門家たちが自分の考えに応じてカタカナ語をこねくり回しているからだとしか思われない。

 いうまでもないが、カタカナというのは表音文字である。「パーティ」と書く人は、口でいうときも「パーティ」といい、決して語尾をのばさないのだろうか。そんなことはあるまい。口では誰だって「パーティー」というにちがいない。だったら、なぜそのとおりに「パーティー」と書かないのか。耳で聞こえるとおり忠実に表記するという素朴な原則に徹すれば、カタカナをめぐるごたごたが氷解しそうな気もするのだが、人々の口にのぼるよりも先に高度な専門性をもった外国語が続々と輸入されてくる今の情勢では、そうもいかないのかもしれない。

(画像は記事と関係ありません)