〔六孫王神社の狛犬と桜〕
今年の桜の開花をめぐって、人々がてんてこ舞いする様子がおかしくも、愚かでもあった。だいたい、震災の日を迎えて鎮魂の気持ちを新たにしてから数日もしないうちに開花宣言が出され、何もかも忘れたかのように花見の準備に向けて行動を開始した人たちは、この国の行く末を長い眼で見守るよりも、やはり自分たちの刹那の楽しみのほうが大事なのだろう。
などと偉そうなことをいっていられるうちはいいのだが、実際に外を歩いていても桜の花が眼につき出し、次の週末を逃すともうあとがないとわかると、つい平常心を失ってしまう。そして休みを待ちかねたように、いそいそと出かけたくなるのが人情だ。このとき、生物のなかでいちばん賢いはずの人間さまは、桜ごときに振り回されているのである。
予定していた“桜まつり”の開催期間が、実際の花のピークと大いにズレるとなっては、一大事らしい。たしかに、機転を利かせて葉桜の下で“葉見”をやることにした、などという話は聞いたことがない。腐っても鯛、などというが、散っても桜、という気分にはなかなかなれないのだろう。その点、事前のポスターを作る際には、今年の満開はいつごろになるのか、慎重なリサーチを踏まえての会議がおこなわれたりするのかもしれない。
だが、人間の思うとおりにいかないのが、自然である。科学がこれだけ進んでも、桜を思いどおりに開花させることすらできないのは奇妙だ。日を追うごとに新しい情報が追加される地震の予測の話などを聞いていても、それは仕方ないことなのかなと思う。
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〔新幹線の高架を背景に〕
京都を代表する写真家の水野克比古のことは、前にもちょっと書いた。彼は、純粋に花見をしようと考えている人たち以上に開花情報とにらめっこしていることだろうし、ほとんど休む間もなく、京都のあちこちを撮り歩いているのだろう。
彼の「京都桜案内」という本には、洛北から洛南まで、107か所もの桜の写真が載っている。人間はせいぜい数十年しか生きられないのに、すでに京都だけで100以上の桜を観てまわり、それをすべて写真におさめているとは、いったいどういう魔法を使えばそんなことができるのか、といいたくなる。ともあれ、水野氏の案内に従って、桜の名所としての令名がさほど轟いているわけではない、JR京都駅近くの六孫王(ろくそんのう)神社を訪れた。
たしかに、あまり大きな神社ではない。だが、境内の中央に太鼓橋があったりして、地形が変化に富んでいる。ただ、写真を撮ろうとすると、周辺のあまり綺麗とはいえない住宅地や電線が写り込んでしまうので難しい。
ただ、別の意味で、おもしろい場所でもあるだろう。駅の間近ということもあって、神社の境内から新幹線の高架が望めるのだ。その線路を通すために、神社の敷地が削られたという話もある。
数分おきにそこを列車が轟音を立てて通過し、しかも駅に近いせいかやや徐行しているので時間が長くかかり、あまり落ち着いて参拝できる場所だとはいえない。ただ、鉄道ファンにとっては、桜と新幹線とを同時に撮影できるスポットとして貴重かもしれない。
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〔東寺の五重塔を覆い隠すかのごとき不二桜〕
いつまでも長居できる場所ではないので、歩いて数分のところにある東寺へ移動する。実は、ここでは施設の特別拝観のような催しがしょっちゅうおこなわれているのだが、もう記憶も掻き消えるほど遠い昔に2度ほど来たきりで、あとは近鉄の車内から五重塔を眺めるだけで満足していた。いつかは、五重塔の内陣でも拝ませてもらいたいと思っているのだが・・・。
もちろん、ここに花見に来たこともまだなかった。だが、あまり期待もせずに境内に入っていくと、まるでピンクの噴水のように見事な枝垂桜が一本ある。不二桜という名前で呼ばれているそうで、高さは13メートルもあるという。資料によると、円山公園の有名な桜より1メートル高い。
壮麗な桜の枝越しに、五重塔が聳えている。この日はとくに天気がよかったので、自然の造形美と人工の建築美とが青空によく映えた。単純にいって、人間の作るものは高みを目指し、周囲から際立った鋭さで天を突き刺しているのに対して、自然のものは頂点を極めようとすることをやめ、あたりのものを包み込もうとするように垂れ下がってきている。現代の企業の人間が、恒例行事のように桜を愛でるだけ愛でておいて、業績を際限なく伸ばそうと努力することの狭隘さ、不自然さに気付かないのはなぜであろうか。
この素晴らしい桜も、やがて日が経つと風にあおられ、燦然たるきらめきを放ちながら散っていくことだろう。日本経済の虚像が散っていくさまを、われわれも何年か前に目撃しているはずだが、それを美しいと感じた人はほとんどいなかった。
いったいどちらの生きざまが、より本然に近いことなのだろうか? 酒を飲みながら大声を張り上げるよりも、静かに自分自身の胸に耳を傾けてみるべきではないのか、と思った。せっかく咲きそろった桜を、日ごろの憂さ晴らしの肴としてしか扱えないようでは、この国の行く先も不安である。
〔満開の桜が築地塀に影を落とす〕
参考図書:
水野克比古『京都桜案内』(光村推古書院)
(了)