てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

咲き急ぐ桜

2013年03月31日 | その他の随想

〔六孫王神社の狛犬と桜〕

 今年の桜の開花をめぐって、人々がてんてこ舞いする様子がおかしくも、愚かでもあった。だいたい、震災の日を迎えて鎮魂の気持ちを新たにしてから数日もしないうちに開花宣言が出され、何もかも忘れたかのように花見の準備に向けて行動を開始した人たちは、この国の行く末を長い眼で見守るよりも、やはり自分たちの刹那の楽しみのほうが大事なのだろう。

 などと偉そうなことをいっていられるうちはいいのだが、実際に外を歩いていても桜の花が眼につき出し、次の週末を逃すともうあとがないとわかると、つい平常心を失ってしまう。そして休みを待ちかねたように、いそいそと出かけたくなるのが人情だ。このとき、生物のなかでいちばん賢いはずの人間さまは、桜ごときに振り回されているのである。

 予定していた“桜まつり”の開催期間が、実際の花のピークと大いにズレるとなっては、一大事らしい。たしかに、機転を利かせて葉桜の下で“葉見”をやることにした、などという話は聞いたことがない。腐っても鯛、などというが、散っても桜、という気分にはなかなかなれないのだろう。その点、事前のポスターを作る際には、今年の満開はいつごろになるのか、慎重なリサーチを踏まえての会議がおこなわれたりするのかもしれない。

 だが、人間の思うとおりにいかないのが、自然である。科学がこれだけ進んでも、桜を思いどおりに開花させることすらできないのは奇妙だ。日を追うごとに新しい情報が追加される地震の予測の話などを聞いていても、それは仕方ないことなのかなと思う。

                    ***


〔新幹線の高架を背景に〕

 京都を代表する写真家の水野克比古のことは、前にもちょっと書いた。彼は、純粋に花見をしようと考えている人たち以上に開花情報とにらめっこしていることだろうし、ほとんど休む間もなく、京都のあちこちを撮り歩いているのだろう。

 彼の「京都桜案内」という本には、洛北から洛南まで、107か所もの桜の写真が載っている。人間はせいぜい数十年しか生きられないのに、すでに京都だけで100以上の桜を観てまわり、それをすべて写真におさめているとは、いったいどういう魔法を使えばそんなことができるのか、といいたくなる。ともあれ、水野氏の案内に従って、桜の名所としての令名がさほど轟いているわけではない、JR京都駅近くの六孫王(ろくそんのう)神社を訪れた。

 たしかに、あまり大きな神社ではない。だが、境内の中央に太鼓橋があったりして、地形が変化に富んでいる。ただ、写真を撮ろうとすると、周辺のあまり綺麗とはいえない住宅地や電線が写り込んでしまうので難しい。

 ただ、別の意味で、おもしろい場所でもあるだろう。駅の間近ということもあって、神社の境内から新幹線の高架が望めるのだ。その線路を通すために、神社の敷地が削られたという話もある。

 数分おきにそこを列車が轟音を立てて通過し、しかも駅に近いせいかやや徐行しているので時間が長くかかり、あまり落ち着いて参拝できる場所だとはいえない。ただ、鉄道ファンにとっては、桜と新幹線とを同時に撮影できるスポットとして貴重かもしれない。

                    ***


〔東寺の五重塔を覆い隠すかのごとき不二桜〕

 いつまでも長居できる場所ではないので、歩いて数分のところにある東寺へ移動する。実は、ここでは施設の特別拝観のような催しがしょっちゅうおこなわれているのだが、もう記憶も掻き消えるほど遠い昔に2度ほど来たきりで、あとは近鉄の車内から五重塔を眺めるだけで満足していた。いつかは、五重塔の内陣でも拝ませてもらいたいと思っているのだが・・・。

 もちろん、ここに花見に来たこともまだなかった。だが、あまり期待もせずに境内に入っていくと、まるでピンクの噴水のように見事な枝垂桜が一本ある。不二桜という名前で呼ばれているそうで、高さは13メートルもあるという。資料によると、円山公園の有名な桜より1メートル高い。

 壮麗な桜の枝越しに、五重塔が聳えている。この日はとくに天気がよかったので、自然の造形美と人工の建築美とが青空によく映えた。単純にいって、人間の作るものは高みを目指し、周囲から際立った鋭さで天を突き刺しているのに対して、自然のものは頂点を極めようとすることをやめ、あたりのものを包み込もうとするように垂れ下がってきている。現代の企業の人間が、恒例行事のように桜を愛でるだけ愛でておいて、業績を際限なく伸ばそうと努力することの狭隘さ、不自然さに気付かないのはなぜであろうか。

 この素晴らしい桜も、やがて日が経つと風にあおられ、燦然たるきらめきを放ちながら散っていくことだろう。日本経済の虚像が散っていくさまを、われわれも何年か前に目撃しているはずだが、それを美しいと感じた人はほとんどいなかった。

 いったいどちらの生きざまが、より本然に近いことなのだろうか? 酒を飲みながら大声を張り上げるよりも、静かに自分自身の胸に耳を傾けてみるべきではないのか、と思った。せっかく咲きそろった桜を、日ごろの憂さ晴らしの肴としてしか扱えないようでは、この国の行く先も不安である。


〔満開の桜が築地塀に影を落とす〕

参考図書:
 水野克比古『京都桜案内』(光村推古書院)

(了)

去年の暮れ、東京のあれこれ(39)

2013年03月30日 | 美術随想
古きよき家 その3


『早春の水路』(1982年、向井潤吉アトリエ館蔵)

 『早春の水路』は、埼玉県川越が舞台だという。向井の絵の場合、想像上の風景ではなく、あくまで実景がもとになっているので、写生をした正確な場所がわかっているのだろう。

 北陸生まれで関西在住、たまに関東へ行くといっても東京23区内から外はまったく知らないぼくにとっては、川越という土地の知識などほとんどないようなものだ。たまに「小江戸」などと呼ばれる、古い街並が残ったエリアがテレビで紹介されたりするが、それが川越のすべてではあるまい。たとえば大阪の人が全員タイガースファンではないようなもので、ある特定の土地の名前だけでそのへんの風物をひとからげにするような理解の仕方をすると、とんでもない間違いを犯すことになるだろう(行政というのは、しばしばそういうことをやりがちなものだが)。

 しかし向井潤吉は、何よりも画家であった。彼は現地に赴き、そこの空気を吸い、音を聞き、家や草木を見た。五感すべてを総動員して、その土地の“たたずまい”を感じ取ったはずだ。『早春の水路』に描かれている川越は、世間一般に流布している川越のイメージとは一線を画しているだろうと思う。

 ここではめずらしく、民家よりも木々が主役である。屋根のようなものが隙間から少しのぞいているだけで、あとは人工物がない。けれども、人間によって手入れされた、生活環境としての自然がはっきりと感じられる。向井潤吉は、ただ田舎の風景が描きたいわけではなかった。そこにはおのずから秩序があり、人々が暮らしていくための暗黙のルールがあった。

 それがこわされはじめたのは、やはり日本が過剰なまでの近代化の追い風にあおられ、商業主義に流されはじめてからだろう。追いつけ追い越せ、という競争心がむき出しになった結果、日本の景色は一変してしまった。そこかしこに同じような街があらわれ、その土地固有の“顔”を失ってしまったことを嘆く人は多い。

 ただ、向井はそれを嘆くだけではなく、まだ開発の手の及ばないところに先回りして、描きつづけた。彼にとっては、日本が変わりつつあることは自明のことであり、一介の芸術家がそれに歯止めをかけることなどできないこともわかっていた。描くことこそが、彼にとって精一杯の抵抗だったのである。

                    ***


『奥丹波の秋』(1969年、向井潤吉アトリエ館蔵)

 ぼくは長いこと京都に住んでいたことがあって、今でもことあるごとに京都京都と、ナントカのひとつ覚えのように繰り返しているわりには、丹波方面には一度も行ったことがない。お恥ずかしい話だが、ぼくの“京都観”それ自体が非常に狭いものでしかなかったといわざるを得ない。

 いや、向井自身も京都市の中心部の出身であってみれば、そういった一種の偏見に気付かないわけではなかったろう。京都市民は、まるで日本の中心に住んでいるような自負心をもっていながら、北部の地域に関しては京都とは認めていないようなところがある。そんな頑固さに反発して、向井はフットワークも軽く各地を取材して回り、それぞれの土地には原始の日本の姿が今でも息づいていて、昔からのDNAが純粋に受け継がれていることを知ったのかもしれない。

 そのためか、向井潤吉の絵の展覧会を観ているだけで、昭和の匂いが色濃く残る時代にタイムスリップしただけではなく、その時代のなかを自由に旅して回ったような印象が得られる。茅葺屋根の三角形と、遠方の山の三角形とが心地よいリズムを奏でる風景は、今でも見ることができるのかどうか。

 気になる人は、みずからそこへ出かけていくことだ。まだ、日本の国土のすべてがコンクリートに埋め尽くされてしまったというわけではないのだから。そうやって普段とちがう土地の空気を吸うことが、日ごろの何気ない暮らしのなかに生気を吹き込んでくれるかもしれないではないか。

 ときどき向井潤吉の絵が無性に見たくなるのは、都会暮らしのなかで忘却しかけていたことを、すっかり忘れ去ってしまわないために必要なことなのであった。それを首都の街並のなかにぽつんと取り残されたような画家のアトリエで眺めることは、とても有意義なことのように思われた。

つづきを読む
この随想を最初から読む

去年の暮れ、東京のあれこれ(38)

2013年03月29日 | 美術随想
古きよき家 その2


〔向井潤吉アトリエ館のチケット〕

 電話帳のように分厚い松本竣介展の図録を受付に預け、スリッパに履き替えて展示室に上がる。郊外の親戚の家を訪ねてきたような感覚である。親しみ深いが、どうしても手を触れてはいけないエリアというものがあるのだ。そこは、この家の主が占有している場所である。

 大きなフロアに置かれた重そうなイーゼルは、すでに向井潤吉が亡くなってからかなりの年数が経った今でも、主人の帰りを待っているかのようであった。画家の生前のオーラが今でもただよっているというのは、すごいことだ。オカルトめいているように受け取られるのは心外なのだが、どこか“気”が凝り固まっているような感じがする。

 アトリエの再現展示というのは、これまでもしばしば観る機会があった。もっとも親しんできたのが、神戸の六甲アイランドに移築された小磯良平のものである。彼の絵にも登場する家具や人形や帽子などの現物が、今でも大切に保存されている。ほかにも小出楢重のアトリエが、芦屋に復元されている。

 2012年に東京で観た展覧会のなかでは、セザンヌのアトリエが再現されていたし、絵の具が一面に飛び散ったポロックのアトリエも、原寸大写真を床に張り合わせることで再現されていた。ただ、それらを眺めていても、何だか形骸を見せられているような気持ちにならざるを得ない。かたちは忠実になぞっていても、そこに“気”がこもっているとはいいがたいのだ。

 けれども、向井潤吉アトリエ館は、実際に向井が創作活動にいそしんでいたスペースなのである。場所もまったく変わっていない。彼が日本全国で取材した民家の資料を持ち帰り、じっくりと時間をかけて油絵に仕上げる作業は、まさにここでおこなわれたのだろう。ちなみに向井は、実に62年間もここに住みつづけたということだった。

                    ***


『比良春雪』(1970年、向井潤吉アトリエ館蔵)

 ところで、向井が全国に散らばる民家の絵を多く描いたのは、その景観に愛着をもっていたからである。それと同時に、こういう民家がいつまでも残されているだろうという甘い考えも彼にはなかったにちがいない。彼は、いつかは消えてなくなる日本の原風景を描きとめるために、あちこちに足を運んだ。要するに、彼の絵は“記録画”でもあるのだった。

 けれども、単に記録するためだったら、写真という手段のほうが優れている。あえて油彩という手間のかかる方法を選んだのは、もちろん彼がパリ留学の経験もある優れた画家だからだが、そこで叩き込まれた“美の規範”といったものが、彼の作品を通して具現化されているのではないかと思う。

 つまり、対象をただ忠実に写し取るだけではなく、モチーフの取捨選択をおこない、構図にも凝ることで、スナップ写真にはない一種のモニュメンタルな品格を醸し出しているのだ。その点、眼に見えるものをありのままに描いた印象派の画家たちが、いかに写真家に近い存在だったかということを思い知らされる(のちに「第1回印象派展」と呼ばれることになる展覧会が、ナダールという写真家のスタジオを借りて開かれたというのは、考えてみれば示唆的な出来事であった)。

 印象派の絵が、当初は「未完」などと揶揄されたのとはちがい、向井潤吉の絵は、隙間なく徹底的に描き込まれている。これは誰が見ても、立派に完成された作品だといわざるを得ない。彼がルーヴルなどで学んだ西洋の美学は、田舎の“雰囲気”を表現することではなく、民家の存在そのものを、写実という手法で再現することだった。

                    ***

 それにもうひとつ、向井の絵の制作年代を、観る人自身の過去の人生と対照させると、新たな楽しみも生まれるだろう。たとえば『比良春雪』は京都の大原の風景であるが、描かれたのはぼくが生まれる前年である。隣の大阪ではちょうど万博が開かれ、最新のメカが紹介されたり、世界中から人々が集まってインターナショナルな交流をしたりしていたときに、大原の民家の屋根には雪が積もり、春の訪れを今か今かと待っていた。

 高度成長期の日本が“開発”の名のもとにあちこちの土を掘り返し、大きなビルをおっ立てる一方で、郊外には時代に取り残されたような家がぽつんと残っていたのだ。しかも過去の遺物としてではなく、あくまで住民の生活を背負いながら・・・。

 日本が“過去”と“未来”と、ふたつに引き裂かれようとしている時代が、まさにここにあった。それを、向井潤吉は“現在”という拠点に立脚して、堅実に描こうとしたのだろう。未来への眺望もなく、過去を懐かしむでもなく、彼の眼の前にある古きよき家の姿を、画家としての全精力を傾けてキャンバスに写し取った。

つづきを読む
この随想を最初から読む

去年の暮れ、東京のあれこれ(37)

2013年03月28日 | 美術随想
古きよき家 その1


〔向井潤吉アトリエ館の外観〕

 世田谷美術館には、3つの分館がある。それぞれ、3人の画家のアトリエがあった跡地である。この日は比較的アクセスのしやすい「向井潤吉アトリエ館」に立ち寄るつもりにしていた。

 向井のアトリエが見たかったというより、彼の絵には昔からたびたび接する機会があって、ときどき無性に再会したくなる、そんな画家だからである。彼は、生涯の大半を、日本の民家を描くことで過ごした。そのために、年を取ってからも日本中を駆け回ったようだ。

 都心に戻る前に東急を降りて、駒沢大学駅を出る。ただ、そこは学生街というよりも、やたら車の交通量ばかりが多い殺伐とした街だったので閉口した。頭上を見上げると、高速道路の高架が空を覆い隠している。向井が18年ぐらい前までこの近くに住んでいたということが信じられないほどである。

 けれども、分館のあるほうへ向かって道を折れると車は少なくなり、それどころか、すれちがう人すらほとんどいなくなってしまった。皆が出払っているというわけでもあるまいに、週末の都会の住宅地というのはどうしてこんなに静かなのだろう? いや、先ほどあまりにうるさい車の騒音に晒されただけに、うってかわって深閑とした感じがするだけなのだろうか。人間の五感のニュートラルな感覚というものが、東京にいるとわからなくなることがある。

 事前にインターネットで道順をチェックしていたはずだったが、それでも少し道に迷ったりして、ようやくアトリエ館についた。まるで、そこだけ昭和のまま時間が止まってしまったかのような古びた住宅が、重厚な石塀に囲われて姿をあらわした。

                    ***


〔門には向井潤吉の表札が掛かる〕

 向井は、京都の人だ。平安神宮の近くの、関西美術院で絵を学んでいる。梅原龍三郎、安井曽太郎、須田国太郎などと同じである。この人たちは、日本の近代洋画の礎を築いた偉大な人たちであるが、日本画のみならず洋画においても、京都人の果たした役割は大きかったのだ。

 けれども向井の絵を観ていると、京都的なものを感じることはほとんどない。彼は、ある特定の土地に縛られることはなく、西洋の著名な画家にかぶれることもなかったように思う。画家に対して失礼なたとえかもしれないが、いってみれば“精巧なカメラのレンズ”のようなイメージをぼくはもっている。その作風が極めて写実的だからだが、それだけでもない。

 美術における近代は、画家個人の独自なやり方というものが一世を風靡した時代だといえる。たとえば「ピカソ風」に、あるいは「シャガール風」に描こうと思えば、ある程度たやすいことだろうと思う。ただ、本家本元のピカソやシャガールの個性の強烈さは、誰しも凌駕することができないだけだ。

 しかし向井潤吉には、そのような際立った個性がない。「向井潤吉風」などといった絵は、存在しないのである。自我を前面に出すことなく、対象のリアルな再現に徹底する作風は、現代の写実絵画のブームをはるかに予告しているような面もあるだろう。しかし、単なる写実ともまた別のもののような気がする。

 そんな向井潤吉は、いったいどんな場所で絵を描いていたのだろうか。緩やかな石組みの階段をのぼり、まるで誰かの家にお邪魔するようなつもりで、玄関のドアを開けた。

つづきを読む
この随想を最初から読む

去年の暮れ、東京のあれこれ(36)

2013年03月27日 | 美術随想
生きていた松本竣介 その10


『人』(1947年、岩手県立美術館蔵)

 戦後、松本竣介の画風は一変する。終戦という大きな転機が彼のなかで化学反応を起こしたのかどうか、それは何ともいえないが、明らかに次のステージへ向けて一歩を踏み出した感じがする。

 『人』は、最初に発表されたときは『画家の像』と題されていたという。妻と子を従えて仁王立ちしていた、あの絵と同じタイトルである。しかし、それとはまるで別人の作品みたいに、こちらは極度に単純化されて描かれている。おそらくはスケッチブックを開いて鉛筆を走らせている姿のようだが、はっきりしない。

 そもそも、この絵が竣介自身を描いたものかどうかさえ、もはや判断できる状態にないのだ。顔は正面と横顔とが重なったようになっているが、その鋭い鼻梁からすると、本人の容貌とはかけ離れているように思える。もしかすると、占領下で眼にする機会の多かった米兵の印象が反映しているのではないかという気もするが、推測の域を出ない。

 ただ、従来の松本竣介の画風を決定づけていた透明感が失われ、押しの強い濃い描線が絵を支配する。そして何といっても、全体が褐色に塗り込められているのが奇妙だ。空間の奥行きが消え、微妙な陰影だけが画面に変化をもたらす。

 竣介はここに至って、にわかに抽象絵画の領域へと踏み込んでいこうとしたのだろうか。そして、彼があれほど繰り返し描いていた都市風景は、どこに消えてしまったのか。全国民を巻き込んだ敗戦という事態は、ひとりの若い画家にとっても、従来の愛着あるモチーフへの決別を意味した。彼は、生まれ変わろうとしていたのかもしれない。軍国主義から睨まれることのない自由な天地で、これまで抑えていたものを存分に羽ばたかせようとしていたのかもしれない。

                    ***


『彫刻と女』(1948年、福岡市美術館蔵)

 しかし、運命というものは残酷だ。終戦から丸3年も経たないうちに、竣介は病に倒れ、命を落とす。そのとき、ちょうど団体展が開催されていて、彼も2枚の絵を出品していた。それが『建物』と『彫刻と女』という作品で、竣介の遺作ということになっている。

 『建物』(別名『建物(茶)』)については、もう5年ほども前に記事にしたことがあるので、そちらを参照していただきたい(「五十点美術館 No.3」)。もう一方の『彫刻と女』は、写真では何度も観ていたが、今回はじめて実物と対面することになった。

 一時期、彼の画面から失われかけていた透明な光が、少しだけよみがえってきているように思われた。高い台の上に置かれた胸像を、愛おしむように撫でさする女。彼女は裸体のようにも、服を着ているようにも見えるが、もっと正確にいうなら、神秘的な輝きをその体にまといつかせているのだ。

 同じモチーフを繰り返し描くことの多い竣介だが、『彫刻と女』という図柄は、この絵にしかないようである。ぼくは、死を予感した竣介があえてこういうモチーフを選んだとは思わない。彼の死はあくまで突然のものであり、予期せざるものだったろう。

 しかし、まるで最後の別れを交わすときのように、名残惜しそうに彫刻に手を差し伸べる女の姿は、命半ばであの世へ連れ去られることになった竣介の無念さをあらわしているように見えて仕方なかった。

                    ***

 もし自分の家の近くでこの展覧会が開かれていたら、2度でも3度でも足を運んだことであろう。それだけ内容が充実していたし、たった一回で松本竣介という存在を知り尽くそうとするのは、どだい無理な話であった。

 だが、こちらは竣介にわりと関心が薄い(と思われる)関西から来た人間であって、もう数時間後には、新幹線に乗ってそちらへ戻らねばならない。しばらくのあいだ、竣介の絵画と再会する機会は巡ってこないかもしれないが、この日の出会いを心の底であたためながら、次のときを待ちたいと思った。

つづきを読む
この随想を最初から読む