てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

あべの付近、天から地から(5)

2014年10月30日 | 美術随想

ラウル・デュフィ『ヴァイオリンのある静物:バッハへのオマージュ』(1952年、ポンピドゥー・センター蔵)

 色彩あふれるオーケストレーションで知られた作曲家リムスキー=コルサコフは、和音には色があるといったそうだ。ハ長調だったら白、ニ長調だったら黄色、といった具合に。

 ぼくには絶対音感がないからか、音を聞いても色が思い浮かぶということはない。けれども、鮮やかに彩られたデュフィの絵画を観ていると、彼もひょっとしたら音に色を感じ取っていたのではないかという気がする。

 バッハに捧げられたこの絵は情熱的な赤に塗られていて、あまりバッハらしくないようにも思う。宗教音楽などの、ちょっとカビくさいというか、薄暗いイメージがあるからだろうか(決してわるい意味ではない)。けれども調べてみると、赤とはイエスが十字架で流した血の色らしく、敬虔なクリスチャンであったバッハにとっては特別な色なのだろう。ただ、デュフィの鮮烈な赤とキリスト教の赤とは、おそらく何の関係もあるまい。

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 ここまでくると、デュフィの筆の奔放さも極まったようである。この絵を描いた翌年、デュフィは生涯を閉じることになるのだが、さぞや幸福な晩年だったのではないか、と感じる。しかし実際には長期にわたってリューマチを患っており、治療を受けるために渡米したりもしている。絵筆を握るのも困難な状態だったらしい。

 そう聞くと、やはり晩年のルノワールを思い浮かべずにはいられない。彼もリューマチに悩まされ、自由の利かなくなった指に絵筆を結わえつけ、車椅子に座って絵を描いたといわれているが、その作品には画家の苦悩を想起されるものはまったくない。ルノワールにとって、人生とはあくまでも楽しく、喜びに満ちたものであり、絵画もその喜びを増幅させるものでなければならなかったのだ。

 デュフィもまた、同じようなことを考えていたのではなかろうか。悲惨なできごとが多発した20世紀において、深刻な内容を深刻に描くことは当たり前になっていたし(ピカソの『ゲルニカ』はその好例だ)、アメリカのポロックはあらゆる思想の網目をかいくぐるようにして、肉体と美術とを直結させる作風へと進んだ。

 そんな時代に、クラシック音楽へと耳を傾け、現実とは遠く離れた楽園を感じ取ったとき、デュフィの絵も音楽への讃歌となって結晶した。これはむしろ、彼にとって自然な成り行きではなかったかといいたい。

 なおこの絵には、オルガンか何かの鍵盤楽器の上に置かれたヴァイオリンのほかに、右側の壁にはデュフィの自作の絵画も描かれている。単なるバッハへの憧れではなく、彼自身の生活と密着して描かれていることは注目すべきだろう。

 なかでも画面の大半を占めるのは、装飾豊かな壁紙である。ここには、デュフィ自身がかつてデザインした模様が使われている。バッハへの敬意と同時に、みずからが歩んできた人生を回顧する意味も込めた、記念碑的な作品だと思う。

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〔あべのハルカス16階から大阪城方面を望む〕

 思ったより時間をかけて、じっくりと楽しむことのできた展覧会だった。これからも多彩な企画が準備されているようなので、心待ちにしておきたい。ぼくにとっては新たな観光スポットの誕生というより、単純に美術館が増えたということのほうがうれしい。

 とはいえ、最後は同じ階にある展望フロアに出て、地上16階からの眺めを堪能して帰宅したのであった。

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あべの付近、天から地から(4)

2014年10月27日 | 美術随想

ラウル・デュフィ『突堤 ― ニースの散歩道』(1926年頃、パリ市立近代美術館蔵)

 『突堤 ― ニースの散歩道』は、デュフィの特徴をよくあらわしている一枚だと思う。テレビなどで紹介されているところによれば、赤い服を着た少女が走る姿を眼にしたとき、赤色の残像が見えたことから、色彩と輪郭が分離する絵を描きはじめたのだという。

 たとえば、この絵の左下に描かれている女性(?)が、まさしくそういった例だろう。彼女はこちらに背を向けて歩き去っていこうとしているところだが、右側では赤い色彩が体からわずかにはみ出して塗られている。したがって、その反対側は輪郭線だけになっているという理屈になる。

 ただ、デュフィが目撃した上記の劇的な印象は、新しい絵画を模索する画家にとって一種の啓示をもたらしたかもしれないけれども、彼には常に色彩がズレて見えていたというわけではないのである。動きのあるものを明確な輪郭のない描きかたでとらえるのは、たとえば印象派の画家たちもやっていたことだし、対象の形体を重視したとされるセザンヌでさえも、木の枝が激しく風に揺れ、色彩だけが躍動するような描写を残している。

 その点、デュフィは決して輪郭をおろそかにはしなかった。ここが、他の画家とは異なるのである。ぼくはむしろ、線描を自由自在に扱ったという意味では、ロートレックからピカソへと通じる線の魔術師の系譜に連なるひとりだったのではないかと思いたい。線が生きているからこそ、色の補助がなくても絵が成立するのだ。

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ラウル・デュフィ『馬に乗ったケスラー一家』(1932年、テート蔵)

 ところが、それから数年後に描かれた大作『馬に乗ったケスラー一家』では、色彩と輪郭の遊離が最小限にとどめられているといえるだろう。

 実は、それはこの絵が描かれた事情とかかわっている。大富豪だったケスラー氏は、わざわざデュフィをイギリスまで呼んで(この絵がデュフィには珍しくイギリスの美術館に所蔵されているのはそのためだ)、自分たち家族の集団肖像画を描かせた。しかし最初にデュフィが描いたものは、彼の気に入らなかったらしい。画家がその奔放さにブレーキをかけて、依頼主の機嫌を損ねないように描き直したのが、この作品だということになる。

 画家は生きていくうえで、しばしばこういう不本意な創作を強いられるのが世の常だし、とりわけ肖像画においてはこういうエピソードに事欠かない。たしかに仕上がった作品を観ると、すべての人物がお上品に馬にまたがり(7人全員が騎馬像というのも奇異な眺めだが)、おそらくは個人の区別がつくように細心の注意が払われている。精悍な主人、優しそうな奥さん、そして賢そうな子供たち(彼らは皆、同じようなかっこうをさせられている・・・)。

 しかし、そんな退屈なモチーフを、デュフィはあふれ返る色彩の讃歌として演出してみせた。空の青が、人物たちの帽子や、つやつやした馬の肌や、下草にまで反映し、決して派手というわけではないが、森林のなかにたたずむような清涼感をキャンバスに充満させたのだ。

 デュフィという、激動の20世紀を生き抜いた画家のしたたかさが、この絵から垣間見えるような気がする。

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あべの付近、天から地から(3)

2014年10月22日 | 美術随想

ラウル・デュフィ『サン=タドレスの大きな浴女』(1924年、伊丹市立美術館蔵)

 ぼくは関西在住であるから、何年かに一度は、伊丹市立美術館に足を運ぶ。行列ができるような人気の展覧会とは無縁の渋い企画を連発する、いってみればクロウト向けの場所だといえるが、ぼくはドイツ人による講義も聞いたことがあるし、まあ活用させてもらっているほうである(ただ、そのときに通訳を無視して講師と直接質疑応答したオジさん、いくらドイツ語がわかるからといって、あれはないよ)。

 所蔵品のラインナップにも、独自のセンスが垣間見える。誰もが好きな印象派や、ゴッホなどはない。社会的なメッセージをこめた版画(いわゆる風刺画)がやたらと多く、美術館のホームページを見ても、筆頭に紹介されているのはオノレ・ドーミエである。ほかにも浜田知明(ちめい)のコレクションが充実していて、もし国内で回顧展を開催するなら、伊丹の地が最もふさわしいのではないかと思えるほどである(「20世紀版画おぼえがき(2)」参照)。

 そんななかで異彩を放っているのが、デュフィの『サン=タドレスの大きな浴女』だった。最初にこの絵と出くわしたとき、「どうして伊丹にデュフィが?」と、本気で首を傾げてしまったほどだ。今ではもう慣れてきたが、ほの暗い地下展示室の一画に、そこだけ鮮烈な女の水着姿が大迫力で鎮座しているのは、やはり場違いな感じがする。

 そういう絵でも、他のデュフィの作品と並べて陳列されていると、色彩が比較的暗めに見えてくるから不思議である。タッチも奔放になり、お馴染みのデュフィらしさが感じられもするのだが、油彩画の重厚さをどこかに残してもいる。

 だいたい、このモデルのポーズが、当時としては現代的な水着を着ていることとは裏腹に、どこか古めかしいのだ。時流の最先端を走るファッションと、古典的な風格が同居することによって、妙なせめぎ合いが感じられる。それを中和させ、巧みに均(なら)していくことが、デュフィの作風の円熟へとつながっていくのであろう。

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ラウル・デュフィ『ニースの窓辺』(1928年、島根県立美術館蔵)

 南仏のニースといえば、マティスが長年暮らしたお気に入りの場所だ。マティスから大きな影響を受けたデュフィにとっても、ここは特別な場所だったにちがいない。しかも、マティスお得意の“窓”というモチーフを使ってその風景を描くとは、なかなか野心にあふれた一枚だといえる。

 ここに来て、デュフィの色彩感覚はほぼ完全に開花したように見える。水彩画のような平塗りのタッチ、原色の大胆な組み合わせ。絵を調和させるリズミカルな線描と、バランスのいい構図。楽器が描かれているわけではないが、そこからは音楽が響いてくるような気がする。

 おもしろいのは、ニースの海岸の景色が、戸棚の鏡のようなものでぶった切られた構成だ。まるで三連画のような、一種の荘厳さをもちあわせてもいることが、この絵ならではの個性であろう。よくよく眺めると、画面の両脇にわずかに描かれ、鏡のなかにも写っている壁紙の縦縞模様が、どことなくパイプオルガンに見えてきてしまう。

 飛翔する軽みと、それを引き締める重さ。デュフィの絵は、絶妙な力関係の均衡のうえになりたっているのだ。

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あべの付近、天から地から(2)

2014年10月21日 | 美術随想

〔「デュフィ展」のチケット〕

 絵を眺めていると、画面から音楽が聞こえてくることがある。たとえばカンディンスキーやクレー、マティスがそうだ。カンディンスキーは実際の音楽会の印象を絵画化したこともあるし、後年の抽象画には五線譜に似たモチーフがあらわれる。クレーは、本人がヴァイオリンを巧みに演奏したことが知られている。マティスは『ジャズ』と題した切り絵の連作を残している。

 デュフィもまた、そんな音楽との親近感を感じさせる画家のひとりだ。実際、彼の作品には作曲家に捧げたものや、オーケストラの演奏風景などが頻繁に登場する。かつて文学的なものに多くを依存していた絵画は(ストーリーを知らないと絵が理解できないのはそのためだ)、近代に至ってにわかに音楽との蜜月がはじまったような印象がある。

 前の記事で、ゴーギャンとデルヴォーは家に飾りたくないということを書いたが、デュフィは是非ともリビングの壁に掛けて、日々眺め暮らしてみたいものだと思う。ふと眼に入っても、人の考えを妨げることはないし、土足で踏み込んでくることもない、まるでBGMのように生活に溶け込んでくれるような気がする。

 何かと自己主張の強い20世紀絵画のなかでは、彼はかなり異色の存在だといえるだろう。美術史では「野獣派」の一員ということになっているが、デュフィの絵から野獣性を感じたことはほとんどないのである。

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ラウル・デュフィ『マルティーグ』(1903年、ズィエム美術館蔵)

 しかし、当然のことながら、彼は最初からデュフィだったわけではない。

 ラウル・デュフィはフランス北部ノルマンディー地方のル・アーヴル生まれで、かのモネと同郷であり、海を好んで描いたあたりに共通点も感じられる。

 先日、やはりノルマンディー出身の作家モーパッサン(彼も海が好きだった)が書いた長編『女の一生』を久しぶりに読み返したのだが、モネが繰り返し描いたエトルタの海岸が登場するなど、美術鑑賞のうえでも大きな示唆を与えてくれた。そんななかで、たとえば次のような描写がある。

 《ジャンヌが足りないと感じていたもの、それは海だったのだ。二十五年間そばで眺め続けてきた海、潮風の吹く海、怒る海、うなり声のような波音、激しい風の吹く海。》(モーパッサン『女の一生』永田千奈 訳、光文社古典新訳文庫)

 ぼくが想像していたよりも、はるかに荒っぽい海だ。人格形成期のデュフィが、こういった穏やかならぬ自然を相手に暮らしていたことはつい忘れがちだが、注意しておいていいのではないかと思う。

 『マルティーグ』は、北ではなく、南仏の港町だそうだ。遠近法を踏まえて見事に描かれているが、陽気さはそこにはないし、のちのデュフィを特徴づける鮮やかな色彩感覚もあまりない。ただ、水に浮かぶ黄色の船と、海面に映るシルエットとが、やがて画家が見いだすことになる色と輪郭との自在な関係をはるかに予言しているようである。

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あべの付近、天から地から(1)

2014年10月20日 | 美術随想

〔地上300メートルの高さを誇る「あべのハルカス」〕

 日本で最も高いビルという触れ込みの「あべのハルカス」が全面開業したのは、今年の3月のことだ。

 それ以前から、南の方角に姿をあらわしつつあるノッポのやつは何だろう、と思っていたが、その正体がそれだった。かつての東京スカイツリーのときもそうだが、日本一の建物を作るというときにも、一般市民にはあまり知らされることなく(小さくは報道されたのかもしれないが)、もの自体が完成に近づくにしたがい、いやでも人の眼につくころになって、やれ大変なことになった、と周囲が騒ぎだす。

 といってもぼくは、高層建築ができたからといって、心がわき立つタイプの人間ではない。京都タワーや、神戸のポートタワーにのぼったことは過去1回ずつしかないし、東京タワーも2年前にはじめてのぼったほどだ。スカイツリーは遠くから眺めたことがあるだけだし、大阪の通天閣にもまだのぼったことがないのである。

 あべのハルカスの内部に新しく美術館ができるという話も聞いてはいたが、なかなか足が向かなかった。今や各地の百貨店に美術館があるのは珍しくないが、梅田や神戸の大丸ミュージアムのように、かつては意欲的な展覧会を立てつづけに開いてくれたものの、最近はぼくの食指に触れるような企画展をやってくれなくなった場所もある。それに、地上16階という途方もない高さが、そこまで足を運ぶことを何となく面倒な気にさせるのもたしかだ(例の「東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館」は42階にあるし、六本木ヒルズの「森アーツセンターギャラリー」に至っては、実に52階という高さにあるのだが)。

 よって、はじめて「あべのハルカス美術館」を訪ねたのは、オープンから半年近くも経った9月のことだった。開館記念展は東大寺の展覧会だったが、貴重な古い文化財をビルの上まで上げたり下げたりするのは非常に神経を使うことだろうと想像しながら、出かけるのを見送っていたのだ。いざその気になって天王寺まで行き、駅を降りると高いビルを見上げる余裕もないままに、直通のエレベーターへと誘導される。係員の丁寧な案内とともに、大勢の人ごみが渦をなしている16階のフロアへと足を踏み入れたが、それらの多くはさらに上へ、60階の高さにある展望台に向けて列を作る人たちだった。

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〔エッフェル塔を模したような「あべのハルカス美術館」の入口〕

 ぼくをわざわざ、あべのの高層階までやって来させたのは、デュフィだった。関西でデュフィの展覧会が開かれるのは、かなり久しぶりのことではなかろうか。数年前に、それこそ大丸ミュージアムかどこかで彼の色彩豊かな作品群に触れ、一気に魅了された覚えがあるのだ。

 それに、この日は何となく“デュフィ日和”でもあった。まだ残暑の厳しい時季ではあったが、空は見事に晴れ、白い雲がもくもくとわき上がるなか、デュフィのからっとした軽快な油彩画は、一服の清涼剤のように心を潤してくれるような気がしたのである。

 ところで、天気のいい日に高所からの眺めを楽しもうという人々を尻目に、デュフィの絵画のなかにこそ至福の眺めを求めて美術館へと向かう自分は、何だか世間の動向といくぶんズレているようにも感じられる。しかし実をいうと、それが快感でもあり、ささやかな誇りでもあるのである。デュフィもまた、そういう誇りを胸に抱きながら、彼自身の創作活動をつづけたのにちがいない。

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