てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

城をめぐりて(1)

2021年02月26日 | その他の随想

(1月、晴れの日の大阪城)

 最近、大阪城によく行く。あまり家にいたくないので、いつもどこへ出かけるか考えているが、大阪城は定期券だけで行けるので、交通費はかからない。

 ただ、ぼくが大阪城に惹きつけられる理由は、それだけではないだろう。ここのところ城ブームのようで、日本の名城をランク付けするテレビ番組があったりするが、ぼくは別段、城マニアというわけではない。むしろ大阪城は、エレベーターが完備されるなど近代的すぎて、これまでちょっと敬遠してきた傾向があった。

 どちらかといえば、急峻な階段を苦労しながらのぼる姫路城のほうが好きだったものだ。天守閣の険しさを、身をもって教えてくれるのが姫路城でもあったのである。だが最近はコロナの影響で、あまり遠出する気も起きない。それに姫路市立美術館がメンテナンスのため休館中なので、姫路に行く用事もない。わざわざ城だけを見に行くほど、城が好きでもないというわけだ。

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 では、最近のぼくはなぜ、大阪城に足が向くのか。何年かぶりに天守閣にものぼったが、歴史に疎いぼくにとっては、さほど興味をそそられる展示品もない。それに、大河ドラマ「真田丸」も見ていないので、事実関係がまったく分からない。ただ、淀殿が自刃したと伝わる場所を通るときに、ちょっとばかり薄気味悪い感じがしたばかりである。

 思うに、梅田の中心地に勤務しているぼくは、やはり都会のよそよそしい喧噪にウンザリしているのではなかろうか。世間はコロナ禍だの巣ごもりだの“おうち時間”だのといいつつも、個人的にはマスクをしている以外、規則正しい電車の走行に揺られ、従来どおり家と会社の往復をつづけている。判で押したような変化のない生活のリズムが、際限なく繰り返されているのである。

 ところが、そのような日常的な生活の反復といったものから遠く離れた戦国の世、明日をも知れぬ命を懸命に生きつづけた昔の人々に、シンパシーを覚えるようになってきたのかもしれない。いや、今の人々が歴史小説に熱中し、城めぐりがブームになったりするのも、現代生活のつまらなさの裏返し、ともいえるのではなかろうか。つまり、今を生き抜くための堅実な“世渡り”というものが、人間性の奥底を揺すぶることのない、形式的でつまらないものに思えて仕方ないのではなかろうか。

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 こんなものをどうやって運んだのだろう、という気にさせられる途方もない巨石で築かれた石垣を横目に、決して足もとのよくない道をくねくねと歩きながら、やがて天高く聳える城の偉容の前にたどり着くとき、たしかに現代から失われた興奮なり切実さなりが、ふつふつとわき上がるのを感じるのである。

 この年になって、“生活の安定”よりも別の場所によろめきつつあるぼくが、果たして褒められるような者か否か、それは分からないけれども。

つづく