彫刻家の言葉 ― 佐藤忠良 その2
ところで佐藤忠良の彫刻作品を概観すると、具象彫刻の領域を逸脱することはなく、徹底して保守的である。舟越保武が、現代美術のデフォルメというものに強い疑念をもっていたのと同様に、佐藤もさまざまな美術の潮流に与することなく、ひたすら写実の道を歩んできた。それは前にも触れたように、彼が自分のことを“職人”と呼ぶことと無関係ではない。
佐藤がみずからの人生と作品について語った本の中には、次のような容赦ない指摘がみられる。
《今こういう時代になったから、私はあえて“職人”といいたくなるのですが、一般的に、昔の職人という人たちに対して恥ずかしい思いをするほど、現在の仕事の出来がひどくなっていると思いますね。》(『彫刻の〈職人〉佐藤忠良』)
“今こういう時代”とは、どういう時代のことだろうか? それをひとことでいいあらわすのは難しいが、あえていえば、表現のためには手段を選ばない時代が到来しているということであろう。確かに昨今の美術の中には、“技術”よりも“個性”を重んじる傾向がかなり強く認められるのは明らかである。
*
結果的に美術の敷居が低くなり、誰もが自由に気軽に、美術表現に挑戦できるようになってきた。このことは決して非難されるべきことではあるまい。だが、美術とはそれほどお手軽なものだろうか? こういう問いが、佐藤の言葉のはしばしから聞こえてくるのだ。“個性”を支える“技術”の鍛錬が、ともすると軽んじられつつあるのではなかろうか・・・。
《ウケをねらった個性というのがありますね。個性ってことを知らないのじゃないかと思う。(略)
ダ・ヴィンチなんか、皆、徒弟制度の中で生まれてきたものです。その中では皆、ほとんど同じくらいうまい。でも、光り輝くような一人が出てくるわけです。
昔から「習い事は枠に入って、枠から出でよ」って言いますが、そこからじわっと出てくるのが、個性だと思います。》(『ねがいは「普通」』)
具象彫刻とは、まことに制約の多い芸術である。人間を写実的に表現しようとする以上、頭はひとつ、手は2本、足も2本と決まっている。他とはちがう“個性”をいくら追い求めたところで、手を3本にしたりすることはできない。彼らの“個性”とは、人体という限られた枠の中の表現を突きつめようと試行錯誤したあげく、まるで予期せぬもののように、ひとりでに立ちあらわれてくるものではあるまいか。
*
佐藤忠良はこうもいう。
《彫刻というのは我々の祖先が腰蓑一つで木をたたき、石をたたき、粘土を練ってきたのと、やっていることはほとんど変わらない。背広なんかを着ているだけで、結局は体をいじめて、体に覚えさせて、体で表現していくわけです。
それがこのごろ便利な道具ができてきて、コンピューターなんかでポンポンッてやってゲイジュツになってしまったりするでしょう?
だんだん人間が、生物が本来持っているはずの感覚をなくしてきていることが、本当に怖いと思うんです。》(同)
佐藤は、ただ彫刻のことだけを問題にしているわけではない。彼の視線は美術全般、さらには人間の感受性そのものにまで向けられている。一見すると古風に見える彼の創作態度は、こんにちに至ってますます重みを増しているようにさえ思われるのだ。それは現代という時代に芸術を生み出すことの困難さを、遠回しに語っているようである。
だが、佐藤は決して絶望しているわけではない。現に彼はもう何十年もの間、目まぐるしく移り変わる時代の表層 ― それは“流行”と呼ばれる ― をよそに、自己の信ずる道を着実に歩んできた。芸術院会員や文化功労者への推挙を断わり、地を這う根っこのような地道な創作活動をつづけてきたのである。それはまさに“職人”的な愚直さだといっていい。
佐藤が刻んだ多くの人体像は、まるで彼が植えた苗木のように、あちこちの美術館や街角に根を下ろしている。彼らは絢爛たる花を咲かせるわけではないが、気がつくとわれわれのすぐ近くにいて、じっと見守ってくれているかのようである。街行くぼくたちに向かってわれがちに主張を繰り広げる過剰な刺激に倦み疲れ、佐藤忠良の彫刻とひとり静かに向き合うとき、彼は節くれだった“職人”のような手で、何もいわずにがっしりと受け止めてくれるにちがいない。
DATA:
「第37回 日展」
2005年12月17日~2006年1月15日
京都市美術館
「ドイツ表現主義の彫刻家 エルンスト・バルラハ」
2006年2月21日~4月2日
京都国立近代美術館
「ニキ・ド・サンファル展」
2006年3月29日~4月9日
大丸ミュージアム・梅田
「アメリカ ― ホイットニー美術館コレクションに見るアメリカの素顔」
2006年4月4日~5月14日
兵庫県立美術館
参考図書:
「第35~37回 日展アートガイド」
小塩節『バルラハ ― 神と人を求めた芸術家』
日本キリスト教団出版局
「現代美術16 ニキ・ド・サン・ファール」
講談社
佐藤忠良・安野光雅『ねがいは「普通」』
文化出版局
奥田史郎・道家暢子編『彫刻の〈職人〉佐藤忠良』
草の根出版会
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ところで佐藤忠良の彫刻作品を概観すると、具象彫刻の領域を逸脱することはなく、徹底して保守的である。舟越保武が、現代美術のデフォルメというものに強い疑念をもっていたのと同様に、佐藤もさまざまな美術の潮流に与することなく、ひたすら写実の道を歩んできた。それは前にも触れたように、彼が自分のことを“職人”と呼ぶことと無関係ではない。
佐藤がみずからの人生と作品について語った本の中には、次のような容赦ない指摘がみられる。
《今こういう時代になったから、私はあえて“職人”といいたくなるのですが、一般的に、昔の職人という人たちに対して恥ずかしい思いをするほど、現在の仕事の出来がひどくなっていると思いますね。》(『彫刻の〈職人〉佐藤忠良』)
“今こういう時代”とは、どういう時代のことだろうか? それをひとことでいいあらわすのは難しいが、あえていえば、表現のためには手段を選ばない時代が到来しているということであろう。確かに昨今の美術の中には、“技術”よりも“個性”を重んじる傾向がかなり強く認められるのは明らかである。
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結果的に美術の敷居が低くなり、誰もが自由に気軽に、美術表現に挑戦できるようになってきた。このことは決して非難されるべきことではあるまい。だが、美術とはそれほどお手軽なものだろうか? こういう問いが、佐藤の言葉のはしばしから聞こえてくるのだ。“個性”を支える“技術”の鍛錬が、ともすると軽んじられつつあるのではなかろうか・・・。
《ウケをねらった個性というのがありますね。個性ってことを知らないのじゃないかと思う。(略)
ダ・ヴィンチなんか、皆、徒弟制度の中で生まれてきたものです。その中では皆、ほとんど同じくらいうまい。でも、光り輝くような一人が出てくるわけです。
昔から「習い事は枠に入って、枠から出でよ」って言いますが、そこからじわっと出てくるのが、個性だと思います。》(『ねがいは「普通」』)
具象彫刻とは、まことに制約の多い芸術である。人間を写実的に表現しようとする以上、頭はひとつ、手は2本、足も2本と決まっている。他とはちがう“個性”をいくら追い求めたところで、手を3本にしたりすることはできない。彼らの“個性”とは、人体という限られた枠の中の表現を突きつめようと試行錯誤したあげく、まるで予期せぬもののように、ひとりでに立ちあらわれてくるものではあるまいか。
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佐藤忠良はこうもいう。
《彫刻というのは我々の祖先が腰蓑一つで木をたたき、石をたたき、粘土を練ってきたのと、やっていることはほとんど変わらない。背広なんかを着ているだけで、結局は体をいじめて、体に覚えさせて、体で表現していくわけです。
それがこのごろ便利な道具ができてきて、コンピューターなんかでポンポンッてやってゲイジュツになってしまったりするでしょう?
だんだん人間が、生物が本来持っているはずの感覚をなくしてきていることが、本当に怖いと思うんです。》(同)
佐藤は、ただ彫刻のことだけを問題にしているわけではない。彼の視線は美術全般、さらには人間の感受性そのものにまで向けられている。一見すると古風に見える彼の創作態度は、こんにちに至ってますます重みを増しているようにさえ思われるのだ。それは現代という時代に芸術を生み出すことの困難さを、遠回しに語っているようである。
だが、佐藤は決して絶望しているわけではない。現に彼はもう何十年もの間、目まぐるしく移り変わる時代の表層 ― それは“流行”と呼ばれる ― をよそに、自己の信ずる道を着実に歩んできた。芸術院会員や文化功労者への推挙を断わり、地を這う根っこのような地道な創作活動をつづけてきたのである。それはまさに“職人”的な愚直さだといっていい。
佐藤が刻んだ多くの人体像は、まるで彼が植えた苗木のように、あちこちの美術館や街角に根を下ろしている。彼らは絢爛たる花を咲かせるわけではないが、気がつくとわれわれのすぐ近くにいて、じっと見守ってくれているかのようである。街行くぼくたちに向かってわれがちに主張を繰り広げる過剰な刺激に倦み疲れ、佐藤忠良の彫刻とひとり静かに向き合うとき、彼は節くれだった“職人”のような手で、何もいわずにがっしりと受け止めてくれるにちがいない。
DATA:
「第37回 日展」
2005年12月17日~2006年1月15日
京都市美術館
「ドイツ表現主義の彫刻家 エルンスト・バルラハ」
2006年2月21日~4月2日
京都国立近代美術館
「ニキ・ド・サンファル展」
2006年3月29日~4月9日
大丸ミュージアム・梅田
「アメリカ ― ホイットニー美術館コレクションに見るアメリカの素顔」
2006年4月4日~5月14日
兵庫県立美術館
参考図書:
「第35~37回 日展アートガイド」
小塩節『バルラハ ― 神と人を求めた芸術家』
日本キリスト教団出版局
「現代美術16 ニキ・ド・サン・ファール」
講談社
佐藤忠良・安野光雅『ねがいは「普通」』
文化出版局
奥田史郎・道家暢子編『彫刻の〈職人〉佐藤忠良』
草の根出版会
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