てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

物言わぬ群像 ― 人体彫刻をめぐって(7)

2006年05月30日 | 美術随想
彫刻家の言葉 ― 佐藤忠良 その2

 ところで佐藤忠良の彫刻作品を概観すると、具象彫刻の領域を逸脱することはなく、徹底して保守的である。舟越保武が、現代美術のデフォルメというものに強い疑念をもっていたのと同様に、佐藤もさまざまな美術の潮流に与することなく、ひたすら写実の道を歩んできた。それは前にも触れたように、彼が自分のことを“職人”と呼ぶことと無関係ではない。

 佐藤がみずからの人生と作品について語った本の中には、次のような容赦ない指摘がみられる。

 《今こういう時代になったから、私はあえて“職人”といいたくなるのですが、一般的に、昔の職人という人たちに対して恥ずかしい思いをするほど、現在の仕事の出来がひどくなっていると思いますね。》(『彫刻の〈職人〉佐藤忠良』)

 “今こういう時代”とは、どういう時代のことだろうか? それをひとことでいいあらわすのは難しいが、あえていえば、表現のためには手段を選ばない時代が到来しているということであろう。確かに昨今の美術の中には、“技術”よりも“個性”を重んじる傾向がかなり強く認められるのは明らかである。

   *

 結果的に美術の敷居が低くなり、誰もが自由に気軽に、美術表現に挑戦できるようになってきた。このことは決して非難されるべきことではあるまい。だが、美術とはそれほどお手軽なものだろうか? こういう問いが、佐藤の言葉のはしばしから聞こえてくるのだ。“個性”を支える“技術”の鍛錬が、ともすると軽んじられつつあるのではなかろうか・・・。

 《ウケをねらった個性というのがありますね。個性ってことを知らないのじゃないかと思う。(略)

 ダ・ヴィンチなんか、皆、徒弟制度の中で生まれてきたものです。その中では皆、ほとんど同じくらいうまい。でも、光り輝くような一人が出てくるわけです。

 昔から「習い事は枠に入って、枠から出でよ」って言いますが、そこからじわっと出てくるのが、個性だと思います。》
(『ねがいは「普通」』)

 具象彫刻とは、まことに制約の多い芸術である。人間を写実的に表現しようとする以上、頭はひとつ、手は2本、足も2本と決まっている。他とはちがう“個性”をいくら追い求めたところで、手を3本にしたりすることはできない。彼らの“個性”とは、人体という限られた枠の中の表現を突きつめようと試行錯誤したあげく、まるで予期せぬもののように、ひとりでに立ちあらわれてくるものではあるまいか。

   *

 佐藤忠良はこうもいう。

 《彫刻というのは我々の祖先が腰蓑一つで木をたたき、石をたたき、粘土を練ってきたのと、やっていることはほとんど変わらない。背広なんかを着ているだけで、結局は体をいじめて、体に覚えさせて、体で表現していくわけです。

 それがこのごろ便利な道具ができてきて、コンピューターなんかでポンポンッてやってゲイジュツになってしまったりするでしょう?

 だんだん人間が、生物が本来持っているはずの感覚をなくしてきていることが、本当に怖いと思うんです。》
(同)

 佐藤は、ただ彫刻のことだけを問題にしているわけではない。彼の視線は美術全般、さらには人間の感受性そのものにまで向けられている。一見すると古風に見える彼の創作態度は、こんにちに至ってますます重みを増しているようにさえ思われるのだ。それは現代という時代に芸術を生み出すことの困難さを、遠回しに語っているようである。

 だが、佐藤は決して絶望しているわけではない。現に彼はもう何十年もの間、目まぐるしく移り変わる時代の表層 ― それは“流行”と呼ばれる ― をよそに、自己の信ずる道を着実に歩んできた。芸術院会員や文化功労者への推挙を断わり、地を這う根っこのような地道な創作活動をつづけてきたのである。それはまさに“職人”的な愚直さだといっていい。

 佐藤が刻んだ多くの人体像は、まるで彼が植えた苗木のように、あちこちの美術館や街角に根を下ろしている。彼らは絢爛たる花を咲かせるわけではないが、気がつくとわれわれのすぐ近くにいて、じっと見守ってくれているかのようである。街行くぼくたちに向かってわれがちに主張を繰り広げる過剰な刺激に倦み疲れ、佐藤忠良の彫刻とひとり静かに向き合うとき、彼は節くれだった“職人”のような手で、何もいわずにがっしりと受け止めてくれるにちがいない。


DATA:
 「第37回 日展」
 2005年12月17日~2006年1月15日
 京都市美術館

 「ドイツ表現主義の彫刻家 エルンスト・バルラハ」
 2006年2月21日~4月2日
 京都国立近代美術館

 「ニキ・ド・サンファル展」
 2006年3月29日~4月9日
 大丸ミュージアム・梅田

 「アメリカ ― ホイットニー美術館コレクションに見るアメリカの素顔」
 2006年4月4日~5月14日
 兵庫県立美術館


参考図書:
 「第35~37回 日展アートガイド」

 小塩節『バルラハ ― 神と人を求めた芸術家』
 日本キリスト教団出版局

 「現代美術16 ニキ・ド・サン・ファール」
 講談社

 佐藤忠良・安野光雅『ねがいは「普通」』
 文化出版局

 奥田史郎・道家暢子編『彫刻の〈職人〉佐藤忠良』
 草の根出版会

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物言わぬ群像 ― 人体彫刻をめぐって(6)

2006年05月26日 | 美術随想
彫刻家の言葉 ― 佐藤忠良 その1

 人体彫刻についてとりとめもなく書いてきたが、その締めくくりとして、ぜひとも取り上げたいひとりの彫刻家がいる。今年94歳を迎える、佐藤忠良(ちゅうりょう)その人である。彼のことは「舟越保武へのオマージュ」の最終回に少し書いたが、83歳当時、かくしゃくとして等身大の人体像を作る様子をテレビで見て非常に驚かされたものだった。あれから10年余り、今でも元気で創作をつづけておられるだろうか。

 とはいうものの、舟越の場合と同様に、佐藤の彫刻に実際に接したことはあまりなかった。最初に彼の作品を目にしたのは、おそらく彫刻ではなくて、子供のころに読んだ「おおきなかぶ」の挿画であろう。ぼくが彫刻家としての佐藤忠良を意識するようになったのがいつごろのことかは、思い出そうとしてもはっきりしない。神戸市立博物館の階段の途中に壁龕のようにくぼんだところがあって、つばの大きい帽子をかぶった女性の頭部が置かれているのは前から知っていたが、それが佐藤の作品であるということを意識したのは、わりと最近のことのような気がする。

 佐藤の彫刻が常設展示されている琵琶湖畔の佐川美術館を訪問したのは、ようやく昨年のことであったが、残念なことにそのときはぼくの調子がよくなかった。小品から大作まで彼の彫刻がずらりと並んだ展示室を、ぼくは熱に浮かされたようにふらふら歩いただけで、個々の作品との対話を試みるどころではなかったのだ。長年恋い焦がれた相手と初めて相まみえるというその日に限って、いかなる天のいたずらか、つい体調を崩してしまうようなものである。ぼくはどうやら、本番に弱いたちであるらしい。

 というようなわけで、ぼくには佐藤忠良の彫刻を語る資格はほとんどないといってもいい。しかし、ぼくの中では彼の存在が薄れるどころか、尊敬の度合が日に日に高まってくるのには自分でも驚くばかりである。それは彼の言葉によるところが大きいようだ。彼が発する言葉はまことに素直で、正しく、そして深い。“芸術家”ではなく“職人”を自称する佐藤の物言いは、ちっとも偉ぶったところがなく、地に足がついている。決して雲の上の存在ではなく、いわば人生の先達として、彼はぼくたちと同じ地平に(うんと遠くにではあるが)立っているのである。

   *

 佐藤忠良の言葉とは、一冊の本を通して出会った。これもぼくの敬愛する画家、安野光雅との対談を収めた本である。そこにはふたりの顔写真も何枚か掲載されているが、彼らは実にいい顔をしていると思う。人生経験の豊かな積み重ねがそのままにじみ出した、まことに含蓄のある顔である。特に佐藤の写真を見ると、たいてい歯を見せて笑っている。芸術家にありがちな気難しさや、ある種のもったいぶった表情とは、彼は無縁だ。ぼくにはもうすでにこんな素敵な笑顔はできなくなってしまっているのではなかろうかと、思わず心配になってしまうほどである。

 しかし佐藤の送った人生は、決して平坦なものではなかった。彼は終戦から3年の間、シベリアに抑留されているのである(のちにロシアの民話「おおきなかぶ」の挿画を描くことになるのは、決して偶然ではないだろう)。画家の香月泰男もやはりシベリア体験をもち、帰国後それを作品化したことで知られているが、抑留期間は佐藤のほうが1年ほど長い。さらに香月のいわゆる「シベリヤ・シリーズ」が暗く深刻な内容を含んでいるのに対して、佐藤の彫刻作品はいずれも素朴で、健全な人間讃歌にみちみちているように思える。

 これはいったいなぜなのか? 佐藤自身の言葉の中に、そのヒントが隠されているだろう。

 《シベリア抑留時代、捕虜の中には、元は大学教授だったり社長だったり、土工さんだったり、お百姓だったりする人がいるわけです。でも収容所ではみんなただの男になって自分を見せ合っている。

 そうすると本当につきあっていけそうだなと思う人たちは、地位も何もないような、お百姓みたいな人だった。それがいつまでも身にしみていたんでしょうね。》
(『ねがいは「普通」』)

   *

 極寒のシベリア体験が、佐藤に“人間”を再発見させたのかもしれない。そこには社会的なステータスを脱ぎ捨てた、ありのままの、いわば裸形の人間像があった。これは人体彫刻を制作するうえで、かけがえのない、貴重な経験だったのではないかと思われる。

 ぼくはこの連載の最初のほうに、次のように書いた。ほとんどの人体彫刻は素材をむき出しにしたまま完成されている、現実の人間に近づけるために色を塗ったり服を着せたりすることはマネキンと同じだ、と。つまり人体彫刻は、具体的な人間の姿をかたどっているにもかかわらず優れた普遍性をあわせもっているということが、ぼくにとって大きな魅力であり、謎めいた部分でもあったのだ。

 ある特定の著名人を刻んだ肖像彫刻というものも、あちこちにあることは確かである。それは時の市長であったり、会社の創業者の顔であったり、歴史上の人物であったり、いろいろだ。京都の街をちょっとぶらついてみても、円山公園の中に坂本龍馬が立っていたり、近代的なホテルの壁を背にして桂小五郎が座っていたり、三条大橋のたもとでは高山彦九郎が土下座したりしているといった具合である(佐藤は同書の中でこの現象を“彫刻公害”だといっているが、彫刻家自身の口からこの言葉が出たことにぼくは驚かされ、また同時になんて正直な人だろうと感心したものだ)。

 しかし人体彫刻の本領は、それが誰かということではなく、人間の顔や肉体そのものを表現するところにあるのではなかろうか? 佐藤はかつて王貞治をモデルに彫刻を作ったとき、彼に野球帽をかぶせることも、バットを持たせることもしなかった。そんなことをしなくても、王貞治というたぐいまれな人間のあらゆる要素は、彼の表情にあらわれていたのである。

   *

 佐藤は次のようにも語っている。

 《彫刻というのは芸術の中でいちばん時間性が奪われているんですよ。演劇とか音楽とか文学と違って。文学ならたとえば一ページから三百ページの間で表現する。演劇なども一時間なり二時間の中で、意味がはっきりしてくる。でも、彫刻は彫刻そのもの、たとえば動かぬ顔が一つ、人体が一つあるだけです。

 人の顔をつくるとき、その人の怒りや喜びや過ごしてきた時間 ― 粘土の中にね、過去と現在と未来までも、かっこいい言い方すると時間性をぶち込もうとするんです。それが彫刻家の苦しさだと思う。》
(同)

 佐藤が王貞治の胸像を作ったのは、王がハンク・アーロンの本塁打記録を塗り替えた直後のことである。今や世界の頂点に立っているはずのこの男の顔には、額になぜか深い縦じわが刻まれ、瞳はまるで泣くのをこらえているかのように潤んでいる。華やかな大記録の陰には、人知れず積み重ねられた努力と意地と涙とがあったにちがいないが、佐藤はたった一体の胸像に、それをすべて盛り込もうとしたのだ。作品は『記録をつくった男の顔』と名づけられた。その顔は確かに王選手のものだが、名もないひとりの普遍的な人間像でもあるのである。

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物言わぬ群像 ― 人体彫刻をめぐって(5)

2006年05月19日 | 美術随想
太っちょ天使 ― ニキ・ド・サンファル

 ニキ・ド・サンファルのことを、彫刻家と呼ぶことはできないかもしれない。ニキは立体作品を多く手がけているが、それらは既製品や廃材を寄せ集めたものだったり、ポリエステルで作られていたり、ガラスや鏡の破片でできていたりする。彫刻の素材とは遠くかけ離れているといっていい。だが、彼女の作品が徹底して人体をモチーフにしていることは確かだ。そしてそれらは、人体像としてはおよそ前例がないほどに、カラフルな色に塗られているのである。

 よく知られた『ナナ』をはじめとするニキの人体は、まるで子供が作ったのかと思えるほどに屈託がない。天真爛漫で、動きも驚くほど軽快だ。あの巨大な乳房とお尻をもっているのに、いともかるがると逆立ちをしたり、片足で絶妙なバランスをとって立っていたりする。すべすべとした、はちきれそうな肌をもつ『ナナ』は、永遠の若さをたたえているようで、世の中のあらゆる苦痛と深刻とから解き放たれている。まさしく人生を謳歌しているかに見えるその姿は、現実という重い足枷を引きずりながら生きざるを得ないぼくたちにとって夢のようであり、ちょっと太めの天使のようでもある。

 だが、ニキは最初から自由を勝ち得ていたわけではなかった。ファッション誌のモデルをつとめたほどの美貌の持ち主で、一見すると華やかそうに思える彼女の人生は、実はもっとどろどろとした、凄絶なものだったようである。

   *

 銀行家の家庭に生まれたニキだったが、彼女が母親のお腹にいるあいだに大恐慌が起こり、父親は失業し、家族は行き場を失っていた。ニキは望まれざる子供として母親から疎まれ、祖父母のもとに預けられたり、修道院の付属学校にかよわされたり、抑圧された少女時代を送ったという。

 やがて美しく成長したニキはモデルとして活動を始めるが、ほどなくひとりの男性と結ばれる。しかし新しい家庭も、彼女の安住の地ではなかった。神経を病んだニキは、療養中に絵画と出会う。30歳で離婚すると、彼女の創作力は文字どおり、爆発する。“射撃絵画”の誕生である。

 数年前に公開された『ニキ・ド・サンファル ― 美しい獣(ひと)』というドキュメンタリー映画で、ぼくは“射撃絵画”の生み出される瞬間を見た。さまざまなオブジェを貼りつけ、その上から石膏を塗りたくった板に向かって、ハリウッド女優と見紛うばかりの美女がライフルを構え、実弾で“射撃”する。白い石膏に、鮮やかな絵の具が飛び散り、したたり落ちる。オブジェの中に仕込まれた絵の具の袋が撃ち抜かれ、流れ出すのだ。それはまさしく鮮血のほとばしるのを見るような、凄惨な眺めであった。

 ニキが銃口を向けていた相手は、いったい何だったのだろう。自分を苦しめた境遇? それとも男性優位の旧弊な社会? どうやらそれほど単純なものではないらしい。彼女は、巨大な女性の体をかたどったオブジェを標的にして“射撃”をしてもいるのである。全身が真っ赤な絵の具に染まった『赤い魔女』と題された作品は、まるで銃殺された死体のようだ。ニキは、女である自分自身の中のなにものかに永遠に訣別すべく、銃を撃ち込んだのである。生まれ変わりのようにして『ナナ』が誕生したのは、それから間もなくのことだ。

   *

 ぼくは先ほど、『ナナ』のことを太めの天使だといったが、これは決して荒唐無稽な連想ではない。修道院で勉強していたニキにとって、天使のイメージは親しいもの、いや正確には、むりやり親しまされたイメージであったろう。人一倍敏感な感受性をもち、鮮烈な色彩へのやむにやまれぬ欲求を内に秘めていた少女ニキにとって、陰気でストイックな修道院での暮らしは耐えがたいものだったにちがいない。事実、白亜の(実際は石膏の)祭壇の中から絵の具が噴出する“射撃絵画”を、彼女は制作してもいるのである。

 そういえば『ナナ』の目鼻のないずんぐりとした体は、キース・ヘリングが描くのっぺりとした人物を思い出させる。立体と平面のちがいがあるとはいえ、単純な輪郭をもつ人体を執拗に作りつづけた点で両者は共通しているといえるだろう。ニキが設計した家の内壁に、キースが絵を描いたこともあるようである。ふたりは無関係ではなかったのだ。

   *

 先日、神戸の美術館でアメリカ現代美術の優れたコレクションが来日しているのを観たが、その中にキースの立体作品があった。立体といっても人体彫刻ではなく、金ピカの衝立状のものにキース独特の人物群が浮き彫りにされている『祭壇衝立』という作品だが、これはエイズにかかっていたキースが亡くなる年に制作したものだという(鋳造されたのは没後のことである)。聖母とおぼしき人物の腕の中には、これもイエスとおぼしき幼子が抱かれていて、頭から光を発しているように、短い線が何本か描きこまれている。

 キースの作品によく描かれているこの線を、ぼくは何やら意味不明なものだと思っていたが、ひょっとしてこれは後光の表現なのではあるまいか、とそのとき気がついた。イエスに後光が射しているのは当然であるが、名もない赤ん坊がハイハイをしているような絵でも、キースはそこに後光を描き添えている。だとすれば、その人物はキースにとって、ありきたりの人間以上の誰かなのではなかろうか? 地下鉄の落書きから出発した彼は(落書き自体は決して許されるものではないけれども)、今いるところから救済してくれる得体の知れない存在を、手探りで探し求めていたのかもしれないのだ。

 巨体をくねらせて踊り、飛び跳ねる太っちょ『ナナ』が、ニキにとってそのような存在ではなかっただろうかという気が、ぼくにはするのである。『ナナ』のフットワークはあまりに軽やかで、引力を超越しているのみならず、人間世界のしがらみをも超越しているように感じられるのだ。“射撃”された教会から飛び出した太っちょ天使は、愛や死や夢や憧れや、あらゆるものをその体内に宿し、ニキの前となり後ろとなりながら、彼女の周りを飛びつづけたのである。

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物言わぬ群像 ― 人体彫刻をめぐって(4)

2006年05月12日 | 美術随想
コルヴィッツとバルラハ その2

 今年の2月から4月にかけて、京都で大規模なバルラハ展が開催されるまで、ぼくはこの彫刻家の存在をまったく知らなかった。その名前を小耳に挟んだことすら、ただの一度もなかったのである。それもそのはず、バルラハの本格的な回顧展としては日本で初めてのものだったらしい。

 ぼくはこの展覧会に行くべきかどうか、長いあいだ迷っていた。見知らぬ芸術家の大展覧会を観るということは、未知の作家の大長編小説を読むときのように、ある種のリスクをともなうこともあるからだ。相性がよければ、その芸術家の世界を新鮮な驚きとともに心ゆくまで堪能することができるだろうが、そうでないときの失望もまた大きいものだからである。

   *

 ただ、主催者側の力の入れようは大変なもので、そのチラシは通常の2倍の大きさのものが二つ折りにされていて、バルラハの生涯が概観できるという、ちょっとした小冊子の様相を呈していた。そこに掲載されているいくつかの彫刻の写真を観て、ぼくは心の中でなんとなく、コルヴィッツの彫刻を思い浮かべた。具体的にどこかが似ているというわけではないし、コルヴィッツの『母たちの塔』に対してバルラハの多くは単独の人体像であるが、ぼくの中ではなぜか、両者は赤の他人ではないような気がしきりにしたのである。

 先にも述べたように、ぼくはコルヴィッツの彫刻をテレビで知っているだけだったので、これはかなり根拠の薄弱な、無謀な直感だったといっていい。しかしいざバルラハ展に出かけてみて、コルヴィッツとバルラハとは同時代を生きていただけでなく、互いに深い交流もあったということを知った。なるほどやはりそうだったのか、と思うと同時に、昨年のコルヴィッツ展を見落としたことを、ますます悔やむ結果となったのである。

 それにしても、ぼくがバルラハの彫刻からコルヴィッツをただちに連想したのは、いったいなぜなのか? 彼らが同じ芸術様式を共有していたからだろうか? ぼくにはそうとは思えなかった。これはどうやら“皮膚感覚”としか呼びようのない、肉体的な記憶か何かにちがいない、と思えるのだ。この感覚は、やはり平面上のイリュージョンたる絵画からは得られないものかもしれない。

   *

 ぼくは何年か前に、実際に彫刻に触ったことがある。といっても、警備員の目を盗んでこっそりと触ったわけではない。展示されている彫刻には自由に手を触れてよいという展覧会をやっていたのだ。来場者はまずアルコールをしめらせた布だか紙だかを渡され、それでじゅうぶんに手をぬぐわなければならない。水分のついた手で不用意に触ると、ブロンズが錆びてしまうからかもしれない。

 そのときぼくが触った彫刻をいちいち思い出すことはできないが、兵庫の美術館が所蔵していたもので、かなり有名な彫刻家の作品が含まれていたと思う。ロダンもあったような気がするし、ミロの彫刻もあったようだ。触っていいとはわかっていても、なかなかおいそれと手を出すことができない。生まれて初めて女体に触れるときのように、勇気を出してそっと指を撫でつけてみたり、手のひらでやさしくさすってみたりしていると、作品によって感触がまったくちがうのに驚かされたものだ。でこぼこしたもの、つるりとしたもの、波打っているもの、実にさまざまである。展示されていたすべての作品に触れたあとで、手を鼻に近づけてそっと嗅いでみると、金属のにおいがしみついていた。子供のころに、ペンキのはげかかった公園の遊具でひとしきり遊んだあとのにおいに似ていた。

 そのとき以来、ぼくは彫刻を単なる視覚の芸術としては見られなくなった。彫刻の鑑賞には、実際に触れてみないまでも、やはり感触というものが介在するのである。そして微妙にではあるが、彫刻のにおいもただよっているにちがいない。それは映像を通じてテレビタレントを見ているよりも、もっと生々しいものであるだろう。コルヴィッツとバルラハの彫刻は、ぼくには確かに同じ感触をもっていると感じられたのである。

   *

 コルヴィッツは、第一次大戦で次男を亡くしている。彼女は、息子を守ることができなかった無力な自分を見据えて『母たちの塔』を刻んだ。

 一方のバルラハは第一次大戦後、ドイツ各地から慰霊碑の制作を依頼される。しかし彼は、戦没者を英雄として刻むのではなく、虐げられた市井の人々が悲嘆に暮れ、祈りを捧げる姿を表現した。この像は当時の市民たちから大きな非難を浴び(バルラハが刻んだのは、彼ら市民の姿だったというのに!)、撤去されるに至ったという。

 1938年にバルラハが没したとき、彼のなきがらは親しい人たちの手でひっそりと埋葬されたが、その中にコルヴィッツの姿もあった。コルヴィッツは第二次大戦でまたも、孫の戦死という悲劇に見舞われたが、終戦を待つことなく世を去った。

 コルヴィッツとバルラハとは同じ地平に立ち、ともに“退廃芸術家”の烙印を押され、作品は没収されたり公開を禁止されたりした。しかし20世紀の終わりから現在にかけて、激動する世界のあちこちで英雄をたたえる巨大な記念像が解体されたりしているのをよそに、彼らが刻んだ無名の人々は、その無名さゆえに、こんにちまで生きつづけている。

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物言わぬ群像 ― 人体彫刻をめぐって(3)

2006年05月08日 | 美術随想
コルヴィッツとバルラハ その1

 昨年はできるかぎり多くの展覧会に足を運んだつもりだが、どうしても時間の都合がつかず、泣く泣くあきらめたものも多かった。あるいは日々の労働に打ち負かされ、時間はあっても体がいうことをきかなかったこともある。ぼくにとって展覧会を観ることは(他の多くの人にとってもそうかもしれないが)、テレビを見るように受動的な行為ではない。あるいは読書のように、頭だけ働かせていればいいというものでもない。

 自分の体をわざわざ会場に運んで作品と対面することは、作品を全身で受けとめるということである。そこには心の充実と、肉体の疲労とが、あざなえる縄のように分かちがたく結びついている。考えてみれば、それは驚くほどスポーツに似ているではないか? ましてや、相手が人体彫刻だとすればなおさらだ。ぼくたちは作品とのあいだに見えない火花を散らしながら、丁々発止とやり合っている。美術から受ける感動とはそういうものだと、ぼくは信じて疑わない。

   *

 昨年の暮れに姫路で開かれていたケーテ・コルヴィッツの展覧会は、ぼくの念願としていたものだったが、姫路まで出かける都合がつかず、どうしても行くことができなかった。ついに会期が終了してしまったときには、“不戦敗”を喫した選手のようにしょげこんでしまったものだ。残念ながらいまだに、彼女の芸術についてじゅうぶんに知ることができないでいる。伊丹かどこかの美術館で数点の版画を観たことがあるだけだ。

 ぼくのコルヴィッツへの思いは、かつてNHKの衛星放送で、ベルリンにあるケーテ・コルヴィッツ美術館が紹介されていたのを見たことにはじまった。といってもずいぶん前の話なので、詳しい内容を覚えているわけではないが、あまり華々しく取り上げられることのないこの女性版画家を扱った番組というのは、非常に珍しいものだったにちがいない。ただ、ぼくの印象に強烈に刻まれたのはコルヴィッツの版画作品よりも、彼女が手がけた一体の彫刻だった。

 一体の、といったが、それはひとりの人体をあらわしたものではない。何人かの人物が、まるでおしくらまんじゅうをするようにくっつき合って、ひとつのかたまりをなしているのである。その人物とは、頭巾をかぶり前掛けをした、どこにでもいそうな母親たちだ。そして彼女たちの体のすき間からは、幼い顔がいくつかのぞいている。我が子たちを守るために、母親たちは身を寄せ合い、生きた盾となって敵の前に立ちふさがっているのである。

   *

 ぼくは、この彫刻のどこに惹かれたのだろうか? いや、惹かれたわけでは決してなかった。武器ひとつ持たない市民たちが体をくっつけ合って、大きなかたまりを作っている、その量感に圧倒されてしまったのだ(テレビを通して受けた印象なので、どこまで正確かは自信がないが)。だが人間の体で構成されたバリアは、鉄砲の弾をすら防ぎ得ないだろう。母親たちの集団は、たくましさと脆さとの奇妙な複合体として、そこにある。コルヴィッツは、無力な市民たちの精一杯の抵抗を、彫刻に刻みつけた。それは人体彫刻というより、文字どおり“量塊”として表現されている。

 ぼくはその彫刻の題名すらろくに覚えていなかったが、このたび調べてみると、『母たちの塔』というらしい。制作されたのは1937年から38年、ちょうどナチによる“退廃芸術”の排斥が猖獗を極めていた時期にあたる(コルヴィッツも標的にされ、すでに芸術院から追放されていた)。だとすれば、市民たちが身を挺して子供を守る姿は、みずからの表現を必死に守り抜こうとする芸術家の姿とも重なるのである。しかし彼らといえども、時代の奔流のただ中に踏みとどまることはできなかった。コルヴィッツの盟友ともいうべき彫刻家、エルンスト・バルラハが生涯を終えたのは、ちょうどこのころのことである。

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