てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

たまには、ミナミへ(8)

2015年03月31日 | 美術随想

高屋肖哲『弘法大師像』(1928年)

 高野山を開いたのは、いうまでもなく空海である。またの名を弘法大師といい、「弘法も筆の誤り」ということわざがすぐに思い出されるように能書家として知られているわけだが、金釘流をもって自認するぼくとしては、何ともケムタイ存在でもあった。

 その一方で、いわれなき親しみを感じさせる存在でもある。それはぼくが特に真言宗を信仰しているからではなくて、東寺や四天王寺で開かれる縁日が、毎月の21日と決まっているからだ。21日というのは、ぼくの誕生日なのである。もっとも、縁日が開かれるのは、空海が21日に没したことにちなんでいるという。

 空海ほど昔の人になると、生まれた日がいつなのかはっきりしないのかもしれないが、亡くなった日に大きなイベントをやるというのが、ぼくには興味深い。“月命日”には、もちろん何らかの法要もあるのかもしれないけれど、仏教とはあまり縁のなさそうなモノの売り買いが大っぴらにおこなわれるというのは、不思議である。空海が杖で地面を突くと、そこから温泉が噴き出したなどという伝説が各地に伝わるのも、この人物が聖なるものと俗なるものとのハギアワセであるかのような印象を与えなくもない。

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 実際、ぼくには上に記した以上に、空海について深い知識はない。ただ、ずいぶん前に奈良国立博物館で密教の展覧会を観て、金剛杵(しょ)や金剛鈴(れい)といった法具にはじめて出会い、その造形的なおもしろさに撃たれた覚えがある。

 そういえば、福井の実家にはなぜか、澄んだ音色を奏でる三鈷鈴(さんこれい)のようなものがあった。持ち手の端っこが3つにわかれ、さらに先端が丸まっている。昆虫の化石のようでも、突き刺しにくいフォークのようでもあった。なぜそんなものが家にあるのか、それこそ弘法市で買ってきたのかどうか知らないが、ぼくは意外なほど幼いころから、そうとは知らずに法具を身近に置いていたのだ。もちろん、当時はそれを単なる楽器の一種として認識していたはずだけれど・・・。

 ところで、いろんなところで見かける空海の肖像は、どれも似たような姿をしている。座った状態で、右手に金剛杵を、左手に数珠を持っているのである。たとえば他の宗教で、キリストが最後の晩餐に臨むシーンや、十字架にハリツケにされるところを描いた絵画などでは、作者によってさまざまなバリエーションがあるように思うのだが、なぜ空海に関しては、いつも判で押したように同じ格好をしているのか、昔から疑問に思っていた。しかも右手の角度が、いかにも不自然なのだ。

 どうやら、これは一種の“印”を結んでいる姿らしい。それがどういう意味をもつものなのか、ぼくはまったく知らないけれど、たとえば手を合わせたり、眼をつむったり、平身低頭したりする仏教お馴染みのポーズとは、まったく似ても似つかないのが驚きでもある。

 そして、その空海本人が、気味がわるいほど無表情に描かれているのだ。キリスト教の宗教画は、おそらく観ただけで即座に感情移入でき、クリスチャンの涙を誘うように考えられているのではないかと思うが、空海の肖像には仏画などにも通底する“表情の曖昧さ”が、あまりにも歴然とあらわれている。観る者が、その距離感を乗り越えて信仰の域に至るのは、なかなか難しいことであるのかもしれない。

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たまには、ミナミへ(7)

2015年03月30日 | 美術随想

〔電飾で彩られた高島屋の屋上〕

 高島屋史料館を出て、オタクの聖地を横目に、難波駅へと戻る。ついでに、というと何だが、高島屋のなんば店で高野山にまつわる展覧会が開かれているのを観るつもりだった。ここは以前、かなり足繁くかよった美術スポットだったが、最近はちょっとご無沙汰だ。

 なお、高島屋の「なんば店」と書いたが、正式には「大阪店」だそうである。「大阪の中心はミナミや」とでもいったような、往年の大阪人の気概が透けて見えるネーミングだといえようか。

 そして、ここで高野山関連の展示がおこなわれるのにも、もちろん理由がある。難波駅は南海電車の始発駅でもあるので、その気にさえなれば、すぐさま南海高野線に乗って高野山に行くこともできるのである。今、世間の注目は「構想50年」という北陸新幹線へと集まっているのかもしれないが、こちらは「高野山開創1200年」という、ケタはずれに長い歴史を引っさげて、旅客を集めようというのかもしれない。

 ただ、かようにアクセス至便をアピールする高野山ではあっても、ぼくはなかなか足が向かぬ。日本橋とはちがい、こちらは真の意味での“聖地”であるが、それゆえに、あまりお手軽に出かけることができるというのもいかがなものか、という気がするからである。

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 ぼくがよく利用する京阪の駅には、鉄道会社の垣根を越えて、なぜか南海高野線の大きな看板が掲示されている。それは「天空」と名づけられた列車で、写真を見るかぎり、車内はまるでホテルのロビーのような豪華さだ。それに揺られて「極楽橋」というものものしい名前の終着駅に着いてから、ケーブルカーに乗り換えて高野山の山上へのぼるという行程らしい。

 こう書くと、それこそ天の向こうの極楽にでも行けそうな雰囲気である。けれども、1200年という途方もない歳月にわたって修行のために高野山を目指した無数の人々は、自分を追いつめる究極の場所として、あの霊山をとらえていたのではあるまいか。本来ならば、観光気分で訪れるところでもないような気がするが、京都にしても奈良にしても、あるいは鎌倉などにしても、仏教と観光産業とを巧みに結びつけることが、どうも日本人はお得意らしい。

 そしてまた、高野山のほうからでも、こうやって山を下りて、我々の暮らす近くまで宝物などを出前してくれる。ありがたいような、そうでないような、複雑な心境で、久しぶりに高島屋のエレベーターに乗り込んだ。

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たまには、ミナミへ(6)

2015年03月20日 | 美術随想

〔平凡社刊「日本の美女」の表紙に使われた北野恒富『婦人図』(1929年)〕

 高島屋史料館は、もともと美術館として設計されたわけではないので、建物に風格はあるけれども、どことなく地方の博物館のような野暮ったさもある。それがまた、魅力のひとつであるかもしれない。最近の新しい美術館は、何やら高級なレストランが入居したりして、そこまで敷居を高くする必要もないのではないか、といいたくなる。

 館内の奥には、やや細長いひと部屋があり、たしか床には絨毯のようなものが敷きつめられていたように記憶する。展覧会では、絵画などを眺めながらコツコツと静かな靴音を立てて歩くことが楽しみのひとつでもあるのだが(まさに「プロムナード」という感じだ)、その意味では不適当な部屋かもしれない。かつては会議室とか、ある種の社交のスペースに用いられていたのだろうか。今はゆったりしたベンチがいくつも置いてあって、ぼくが部屋の内部をのぞいたときには、お客のおばさんが気持ちよさそうに居眠りをしていた。

 他の展示をすっかり観終わって、おばさんが退散したのを見計らい、その一室にいよいよ足を踏み入れてみると、ぼくはあっと声を上げそうになってしまった。そこには、見慣れたポスターの絵が・・・。といっても、街頭で見かけたわけではない。図書館から借りてきたコロナ・ブックス「日本の美女」という本の表紙にその絵が使われていて、しばらくのあいだ、ぼくの身近にずっと置かれてあったのだ。

 タイトルは『婦人図』となっている。作者の北野恒富は、出身は石川県だが、のちに大阪画壇の重鎮として重きをなした。けれども、全国的にはそれほど知られていないのかもしれない。ぼくもかつて、このブログで『暖か』という絵を一度だけ取り上げたことがあるぐらいだ(「滋賀県で、芸術を(7)」参照)。

 『暖か』も、やや退廃的な妖艶さのただよう絵だったが、こちらは片方の胸がすっかり露出していて、かなり大胆である。しかも、当時長堀橋にあった高島屋での展覧会のためのポスターだというから、ここまで脱がせる必要があったのかどうか、首を傾げたくもなる。なお、完成したポスターには与謝野晶子の「香くはしき近代の詩の面影を装ひせんと明眸のため」の歌が刷られたらしい。駅に貼り出されるや否や、たちまち盗まれてしまったともいう。

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 ところで、最近NHKのドラマで再現されて話題になった現サントリーの「赤玉ポートワイン」のポスターはよく知られているだろう。21世紀の眼から見ればまことに地味で、余分なところのまったくない、シンプル極まる広告である。だから余計に、モノクロの女性の裸体が引き立つ。日本のポスターではじめてヌード写真を用いたとされるものだが、当時はまだ大正時代のことで、世間に与えた衝撃は大きかったにちがいない。

 もちろん、このヌードは胸の辺りから巧妙な影のグラデーションで隠され、肝心なところは見えないようになっている。いや、ワインの宣伝であるからには、肝心なところがあらわになって観る者の気をそらすようでは駄目なのだ。これは現代に至るまで、広告の大原則であると思う。

 だが北野恒富は、このタブーを破ってみせた。こちらは写真ではなく、絵画だったので、さほどの抵抗はなかったのかもしれない。それにしても、その雪のように白い肌と、何やらもの問いたげな女の表情は、ポスターの前に立つ人の心を大いに駆り立てたであろうことが想像されるのである。

 それにしても、気になることがひとつある。ぼくは酒を飲まないので居酒屋に出入りすることはないが、お好み焼き屋であるとか、お客にアルコールを提供する飲食店には、決まって水着姿でビールのジョッキを持った若いモデルのポスターが掲示されていたことだ(今はどうなっているか知らないけれど)。

 これは、泳ぎのおともにお酒を、といっているように見える。しかし、体のためにはよくないのではあるまいか。かつて、ボクサー上がりの「たこ八郎」という芸人が、飲酒後に海水浴をして心臓マヒで急死し、「たこが海に還った」などといわれたことをふと思い出した。

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たまには、ミナミへ(5)

2015年03月17日 | 美術随想

横山大観『蓬莱山』(1949年)

 「院展」といえば、やはり横山大観抜きで語ることはできない。毎年の「院展」を熱心に鑑賞することから近代日本画への興味を深めていったといえるぼくにとって、ある意味では恩人といってもいい存在である。

 けれども、彼の作風を全面的に賞賛するかというと、ちょっと躊躇してしまうのもたしかだ。国粋主義的というか、戦時中は絵を売ったお金で爆撃機を献納するなど、今からすれば芸術家としての行為の範疇を逸脱しているように思えることもある。富士山とか朝日とか、日本を象徴するテーマを好んで描き、西洋での見聞を積極的に自作に取り入れようとした竹内栖鳳とは対照的ともいえる(大観と栖鳳とが同時に第1回文化勲章を受賞したことは、誰が決めたか知らないが、絶妙なバランス感覚が発揮されたものだというべきだろう)。

 このたび高島屋史料館で展示されていた大作『蓬莱山』も、ひと眼観ただけで「ああ、いつもの大観だな」と思った。蓬莱山とあるが、描かれている山は、明らかに富士山である。おまけに、旭日旗のような放射状の光線が描かれてもいる。このとき、画家はすでに80歳を超えていたはずだが、技術的には揺るぎがなく、さすがにうまい。ただ、同じようなモチーフを何度も見せられると、さすがにマンネリというか、テレビで繰り返し流れるCMをいちいち熱心に観察することがないように、ああまたか、で終わってしまう危険がある。

 ただ、そういったリスクを冒してまで彼が富士山を描きつづけたのは、単に彼の思想的傾向によるとは思わない。もしそうだったら、さまざまな価値観が乱立している現代において、大観の作品はとっくに忘れられてしまっていてもいいはずだ。

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 かつて、日本美術院が谷中の地で産声を上げたとき、岡倉天心は次のような歌を詠んだ。のち、大観が書と絵をまじえて描いたものを何かの展覧会で観た覚えがある。

 谷中鶯 初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい
 気骨侠骨 開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい


 今、芸術に立ち向かおうとするとき、死んでもよい、などといいきるひとがどれだけいるだろうか。しかも、「堂々男子は死んでもよい」などという文句は、勇ましいけれども、まるで軍歌の一節のような血なまぐささを感じさせないこともない。当時の彼らが、命がけで日本画と取り組んだことがイヤでもわかるというものだが、花鳥風月の優美な視覚的表現でもあったこの国の美術の伝統に照らして考えると、どうしても異質な、座りのわるさが鼻についてしまう。

 しかし大観は、天心亡きあとも、日本美術院を体現する存在として、“堂々たる男子”を演じつづけねばならなかったのだ。それが時代の風潮の変化につれて、多少キナ臭い側面を帯びてこようとも・・・。

 大観には、ごくプライベートな心境で描かれたと思われる、肩の力が抜けた洒脱な水墨画のような作品もある。そういった絵を眼にすると、あのイカツイ日本画の巨人の、ちょっと可愛らしい一面を垣間見たようで、微笑ましくなるのである。

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思い出す日

2015年03月11日 | その他の随想


 この時季になると、あの震災の記憶を風化させまい、という声がしきりとテレビから流れる。3月11日は、日本中の皆が口を揃えて“絆”を再確認する日であるかのように思われる。

 けれども、東北から遠く離れたぼくの日常は、まるで何ごともなかったかのように、日常の歯車に合わせて回転しつづけている。そうしなければ生きていけないのだ。全国でおよそ23万人が避難生活を余儀なくされている一方で、圧倒的多数の人々は、震災前と何ら変わらない、当たり前の生活を送っている。これが、現実なのであろう。

 点と線、という言葉があるが、かつては線として伝わってきた被災地の状況が、今や点でしかなく、しかも点と点との間隔が次第に広がっていくのを感じずにはいられない。ただ、東北に暮らしていた人や、近親者を亡くした人にとっては、いつまで経っても線なのだ。たとえ4年が過ぎようとも、5年が経とうとも、線でありつづけるはずである。この落差は、おそらく埋めることができまい。

 ぼくにとっては、1月17日のほうが、鮮烈な記憶として刻みつけられている。こちらの震災からは、すでに20年が経過したというのに。それはもちろん、ぼく自身があの日の朝の大きな揺れを体験しているからだ。身辺に犠牲者こそ出なかったが、水や電気が使えなくなったり、コンビニに出かけても食品の棚が空っぽだったり、公衆電話に列を作ったりして(まだ携帯が普及する前の話である)、かなり不便な生活を強いられた。避難所生活をすることはなかったものの、ほんの数秒のうちに世界が嘘のように壊滅してしまい、それをまた再建するためには途方もない時間がかかるということを、じかに見てきたつもりである。

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 ぼくの父方の祖父は、終戦から3年後に福井を襲った地震で、入院先の病院が倒壊して亡くなったと聞いている。仏壇には、まだ若かった祖父の遺影がいつも飾ってあったものだ。もちろん面識はないのだが、妻がいうには、ぼくはその祖父とよく似ているらしい。

 福井地震が起こったのは、6月28日である。今でもその日になると、福井では慰霊祭のようなものがおこなわれているかもしれないが、福井県民以外でその日のことを知っている人は、ほとんどいないのではないかと思う。

 だから、地震の記憶が風化したとは思わない。福井という名前のもとになったとされる「福の井」という井戸の残る福井城の石垣は、大きく崩れた痕跡が今もある。われわれは物心つくと、学校で教わったり、親から話を聞いたりして、かつて福井にも大きな震災があったのだということを知る。

 東日本大震災は、発生から4年経つとはいえ、いまだに原発の問題がくすぶりつづけ、行方不明の人も減らず、一向に“過去のこと”にならない。その生々しさが、3月11日になると、改めてあぶり出されてくる感じだ。それは、この震災が現在進行形であることの証しというべきだろう。

 風化を望むわけではないが、この災害が過去のものとなり、人の記憶の底深く沈み、すべての人々の生活が日常の回転を取り戻すことを切に願う。ただ、それまでには乗り越えなければならない課題が山積していることも、たしかなのだけれど。

(了)

(画像は記事と関係ありません)