〔荘厳なたたずまいを見せる東寺の五重塔〕
『貴婦人と一角獣』について書きあぐねているあいだに、季節は容赦なく移り変わっていく。すでに過去の話となってしまった展覧会の記事をさしおいて、最近の話題を挟むのも許されるだろうと思う。
紅葉狩りというわけでもないが、この時季になると京都が恋しくなる。けれども、人々がわんさと押し寄せ、まるでテーマパークのような賑わいを呈する場所はできるだけ避けたいという気にもなる。デリカシーのない観光客は、経済的には京都を活性化してくれるかもしれないが、風情を台無しにすること甚だしい。
そこで足を向けたのが、東寺だった。拙ブログの読者の方はご記憶かもしれないが、今年の桜の季節にも東寺を訪れている(「咲き急ぐ桜」参照)。遠方から訪れる人も、新幹線の窓から東寺の五重塔が見えると、ああ京都に来たなと実感されることが多いのではあるまいか。そのわりには、さほど混み合っているという印象がないし、ぼく自身もあまり足を運んだことがない。
この春は、無料で出入りできるエリアから枝垂桜越しに塔を傍観したぐらいで、おざなりの観光にとどまったうらみは残っていた。今度こそは、もう少したっぷりと弘法大師の足跡に触れてみたいと思っていたのだが、仕事の疲れが癒えて起き出したころにはすでに正午を回り、あわてて家を飛び出すという始末であった。
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〔境内の木々も紅葉しはじめていた〕
近鉄の駅を降りて小走りで進むぼくの眼に、真っ青な秋空を背景に聳える五重塔が飛び込んできた。やはりいつ見ても、美しい。観光客を高みに押し上げて遠くを見せたり、眺めのいいレストランで飲み食いさせたりという、下心がないのだ。ただ、少しでも天に近づきたいという思いがみなぎって、そこに結晶している。
けれども、ぼくが知っていたのは五重塔の外観にすぎなかった。今回はじめて、塔の初層の内部、要するに一階部分に立ち入らせていただいたのだが、心柱を背にして四体の如来が鎮座し、その両側にそれぞれ脇侍が二体ずつ配されるという大所帯である。壁面には空海をはじめ八人の高僧たちの肖像が描かれ、隅の柱には雄渾な龍が体をくねらせるさまが生々しく描写されていた。格式の高い格(ごう)天井には、菊の花らしい模様が一面に散らされている。
もちろん人工の照明は何もなく、暗い。しかし眼が慣れてくると、細部がほんのりと浮き上がって見えると同時に、容易に立ち去りがたい静けさがぼくを包んだ。ときどき団体客が入ってきてぎゅう詰めになるが、しばらくすればまた静かになる。そんな空間が、心地よかった。
ぼくは、決して信仰心の強いほうではない。むしろ逆で、お寺に来るときもろくに仏像を拝んだりはしない。ただ、ときには心の洗浄をしないと何物かにつぶされてしまいそうだから、神聖な空気に浸りにくるのだ。大勢の参拝客のなかに、こんな男がひとりぐらい ― いや、あるいはもうちょっと多く ― 混じっていたって、別にバチは当たるまい。
つづく