てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

静かな静かな京の秋(1)

2013年11月26日 | その他の随想

〔荘厳なたたずまいを見せる東寺の五重塔〕

 『貴婦人と一角獣』について書きあぐねているあいだに、季節は容赦なく移り変わっていく。すでに過去の話となってしまった展覧会の記事をさしおいて、最近の話題を挟むのも許されるだろうと思う。

 紅葉狩りというわけでもないが、この時季になると京都が恋しくなる。けれども、人々がわんさと押し寄せ、まるでテーマパークのような賑わいを呈する場所はできるだけ避けたいという気にもなる。デリカシーのない観光客は、経済的には京都を活性化してくれるかもしれないが、風情を台無しにすること甚だしい。

 そこで足を向けたのが、東寺だった。拙ブログの読者の方はご記憶かもしれないが、今年の桜の季節にも東寺を訪れている(「咲き急ぐ桜」参照)。遠方から訪れる人も、新幹線の窓から東寺の五重塔が見えると、ああ京都に来たなと実感されることが多いのではあるまいか。そのわりには、さほど混み合っているという印象がないし、ぼく自身もあまり足を運んだことがない。

 この春は、無料で出入りできるエリアから枝垂桜越しに塔を傍観したぐらいで、おざなりの観光にとどまったうらみは残っていた。今度こそは、もう少したっぷりと弘法大師の足跡に触れてみたいと思っていたのだが、仕事の疲れが癒えて起き出したころにはすでに正午を回り、あわてて家を飛び出すという始末であった。

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〔境内の木々も紅葉しはじめていた〕

 近鉄の駅を降りて小走りで進むぼくの眼に、真っ青な秋空を背景に聳える五重塔が飛び込んできた。やはりいつ見ても、美しい。観光客を高みに押し上げて遠くを見せたり、眺めのいいレストランで飲み食いさせたりという、下心がないのだ。ただ、少しでも天に近づきたいという思いがみなぎって、そこに結晶している。

 けれども、ぼくが知っていたのは五重塔の外観にすぎなかった。今回はじめて、塔の初層の内部、要するに一階部分に立ち入らせていただいたのだが、心柱を背にして四体の如来が鎮座し、その両側にそれぞれ脇侍が二体ずつ配されるという大所帯である。壁面には空海をはじめ八人の高僧たちの肖像が描かれ、隅の柱には雄渾な龍が体をくねらせるさまが生々しく描写されていた。格式の高い格(ごう)天井には、菊の花らしい模様が一面に散らされている。

 もちろん人工の照明は何もなく、暗い。しかし眼が慣れてくると、細部がほんのりと浮き上がって見えると同時に、容易に立ち去りがたい静けさがぼくを包んだ。ときどき団体客が入ってきてぎゅう詰めになるが、しばらくすればまた静かになる。そんな空間が、心地よかった。

 ぼくは、決して信仰心の強いほうではない。むしろ逆で、お寺に来るときもろくに仏像を拝んだりはしない。ただ、ときには心の洗浄をしないと何物かにつぶされてしまいそうだから、神聖な空気に浸りにくるのだ。大勢の参拝客のなかに、こんな男がひとりぐらい ― いや、あるいはもうちょっと多く ― 混じっていたって、別にバチは当たるまい。

つづく

一角獣のいる楽園(2)

2013年11月18日 | 美術随想

〔黒川紀章が設計した福井市美術館。東京の国立新美術館を小ぶりにしたような印象〕

 ここで話は、少しとぶ。つい先日、秋の福井に帰省したときのことだ。朝に福井駅に着いたときはまだ寒くて、さすがは北陸だと思ったものだが、午後になってあちこち歩き回っていると、少し汗ばんでしまうほどでもあった。このときのことは、またのちに書くことになるかもしれない。

 さて、この日は「関西文化の日」ということで、関西地方には含まれないはずの福井の文化施設のいくつかも無料になるというサービスがあった。そのなかのひとつとして、福井市美術館の常設スペースが無料開放されていたので足を運んだのだ。ただ、このときは小中学生の作品展が同時に開催されていて、館内は子供たちの賑わいでごった返しており、常設展を覗いてみる人はほとんどいなかった。

 展示の内容は、高田博厚(たかた・ひろあつ)という彫刻家にまつわるものだ。高田は幼年期から青年期を福井に暮らしたため、この地には彼の作品が多く、ぼくが生まれてはじめて出かけた美術館である福井県立美術館にも高田の彫刻が飾られていたのだった。

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 ところで、高田は後年フランスに滞在することになるが、その地で彼に影響を与えた芸術を紹介したパネルのなかに、例のタピスリーの写真が何枚か含まれていたので驚いた。彫刻をなりわいとする高田にとって、ロダンやブールデルなどの作品に惹かれるのはよくわかるが、織物にまで心うたれるとは・・・。

 調べてみると、晩年に某大学で講演をした際、高田は「フランスに行くならサント・シャペルと、オランジュリー美術館の『睡蓮』の壁画と、『貴婦人と一角獣』のタピスリーは忘れずに観てきなさい」と語ったそうである。不思議なことに彫刻作品にはひとつも触れていないが、いずれも現地にまで行かないと対面することができないものであった。タピスリーが今年、海を渡って日本で展示されるまでは・・・。

 ブロンズ彫刻には、ご存じのように色彩の要素はあまりない。というよりも、ほとんど考慮されていない。彫刻とは、かたちの芸術だからだ。それなのに、高田博厚はあのタピスリーのどこに感動したのだろうか。

 ほかにも、リルケが代表作『マルテの手記』のなかで触れていることはよく知られているし、ジョルジュ・サンドも作品のなかで言及しているらしい。アメリカ人のトレイシー・シュヴァリエという現代作家はその名も『貴婦人と一角獣』という小説を書いている(ただしこちらは手の込んだフィクションである)。この織物の連作は、古今東西を問わず、実に多くの人にインスピレーションを与えてきたもののようだ。

つづく
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一角獣のいる楽園(1)

2013年11月14日 | 美術随想

〔国立国際美術館のエントランスに午後の日が射し込む〕

 子供のときは、オカルト好きというわけではないけれども、この世のものではない世界に興味があった。人を呪い殺すために姿をあらわす幽霊とか、そういう恐ろしいものは願い下げだが、妖怪とかUFOとか、もしどこかにいたら楽しいだろうな、と思わせるものは、幼いぼくの毎日を豊かにしてくれた。幼稚園のころなどは、絵日記を書いても妖怪のことばかりなので、親を心配させたりしたものだ。

 そういうぼくの性癖(?)を知ってか、親戚の人が一冊の本をくれた。タイトルはたしか「ネッシーと雪男」といって、人間の知識が及ばない不思議な生物について書かれた本だったように思う。子供向けのものではなかったが、鮮やかなカラーの図版がたくさん掲載されていたので、それを眺めるだけでぼくは満足していた。ネス湖で撮影された怪獣らしき写真や、人魚とか龍を想像して描かれた絵画などが満載だった(なかには「男の人魚」という、あまり馴染みのないものもあった)。

 そんななかで、一角獣について書かれた一章にぼくは惹きつけられた。頭部に一本の長い角を生やした、白馬にも似た姿をしている。もちろん想像上の動物であるが、遠い昔にはどこかに存在していたかもしれないという、不思議な印象があった。その角が、どうやらクジラの一種のイッカクという生物に由来しているらしいと知ったのは、ずっとあとのことである。

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 その本には、ぼくの心に強く刻まれた写真があった。優美に着飾った女性の膝に前足をのせ、少女漫画のように潤んだ瞳で何かを見つめる、一角獣の絵だ。

 いや、正確にはそれは絵ではなかった。大きな織物の連作の、そのうちの一枚らしいということを知ったのは大人になってからのことだが、そんなことはすでにどうでもよく、ぼくの記憶の奥深くには、人魚とか妖怪とかの不気味な連中をさしおいて、人間にそっと寄り添う優しそうな一角獣のイメージがひっそりとしまい込まれていた。

 その織物がひと揃い、日本で展示されるという。フェルメールだとかダ・ヴィンチだとか、知名度の高さにはすぐに飛びつく日本の物見高い人たちも、作者不明の古いタピスリーにはあまり関心が向かなかったかもしれない。だが、これはおそらく、今後二度と実現することのない千載一遇の機会だと思われた。

 幼いころからぼくの脳裏に住んでいる一角獣の“現物”に対面するのは、少しこわいような気がしないでもなかったが、いつもは現代美術を展示することの多い中之島の美術館のエスカレーターで地階に向かいながら、少しずつ時間を遡行しているかのような心地よさに身をまかせていた。フランスの中世への旅と、ぼくの夢多き幼少時代の回顧と、ふたつの意味をもつ体験が、これから待ち受けているはずだった。

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今年もまた、「正倉院展」へ(6)

2013年11月12日 | 美術随想

『漆金薄絵盤』(正倉院 南倉)

 今年の最大の呼び物は、やはり『漆金薄絵盤(うるしきんぱくえのばん)』だったろう。昨年の『瑠璃坏』のときのように、この宝物を間近で観るためだけの行列が、館内に作られていた。そこに並ばないなら、ちょっと遠目から拝むだけで我慢しなさい、ということだ。

 前回は迷ったすえに断念したのだったが、今度は思い切って列の最後尾についた。正倉院宝物は、一度展覧会に出陳されると、しばらくのあいだはお披露目されない。同じものを二度観たという経験は、ぼくのような新参者には皆無なのだ。もしこの機会を逃したら、次はいつ観ることができるかわかったものではない。

 さて、写真をご覧いただけばわかるように、この宝物はぜひとも顔を近づけて細部をじっくり眺めてみたくなる姿をしている。蓮の花をかたどった蓮弁はそれぞれ異なる色で塗り分けられ、さまざまな文様が描かれていて、全体に統一感がはかられているとは思えない。32枚あるという蓮弁の付きかたも、何だか不安定で、今にも取れてしまいそうだ(実際、そのうち一枚は取れてしまって、別個に展示されていた)。空気が動くと花びらも動くような、ごくデリケートな細工が施されているという。

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 30分あまりも待って、ようやく華麗な色彩を眼の前で眺めることができた。正直にいって、この品は上から眺めても、あまりおもしろくない。皆がやや腰をかがめて視線を低くし、外側に描かれた絵柄を覗き込む姿勢は、はたから見ていると滑稽だったが、いざ自分の番になってみると、我を忘れてかぶりつくように眺め入ってしまった。

 たしかに保存状態がよく、橙や青や緑がしっかり残っている。しかもそれぞれの蓮弁の文様が、不安定な曲面の上に描かれたとは思えないぐらい細かく、西洋の細密画にも劣らないような優れた技術であると思った。中腰になりながらガラスケースを一巡すると、天平の色彩が夢のように、眼の前に展開しては去っていった。

 ただ、一見すると何に使ったものかわからないし、題名も用途には触れていない。単なる飾りのようでもあるが、実はそうではなく、お香を焚くときの台座として使われたということだ。この華麗ともいえる器のなかから煙が立ちのぼるさまは、それこそ極楽浄土のきらびやかさを現出させる装置でもあったことだろう。

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〔博物館の中庭にある茶室「八窓庵」〕

 出陳点数は多くないながら、すべてを観終わってスロープを下るころにはかなりの時間が経っている。いつものことだが、「正倉院展」を観たあとには時空を超えた旅をしてきたような心地よい疲労感が残っている。

 また来年は、どんな未知の宝物に出会うことができるのであろうか。この展覧会を年中行事みたいにして、次なる秋の到来を楽しみにする人の気持ちが少しだけわかったような気がした。

(了)


DATA:
 「第65回 正倉院展」
 2013年10月26日~11月11日
 奈良国立博物館

参考図書:
 杉本一樹「正倉院 歴史と宝物」(中公新書)

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今年もまた、「正倉院展」へ(5)

2013年11月11日 | 美術随想

『投壺』と『投壺矢』(正倉院 中倉)

 「正倉院展」には、遊戯に使用された道具もよく展示される。前回は双六の盤であったが、今回は『投壺(とうこ)』と、それに付随する『投壺矢(とうこのや)』であった。

 カンのいい人なら、この写真を観ただけで遊びかたがわかるのではないだろうか。要するに、壺に向けて矢を放つ。壺のなかに入れば、得点になる、というわけだ。単純極まりない、幼児の輪投げにも類する遊びだといってもいいかもしれない。

 といっても、その歴史は驚くほど古い。そもそもは古代中国の宴会の余興として使われたという。なるほど、酔いが回れば回るほど焦点が定まらなくなり、ゲームが白熱するのが眼に見えるようだ。

 ものを投げて的に入れる、あるいは当てるという原理では、現在でもおこなわれている投扇興(とうせんきょう)に似ているような気もしたが、調べてみると、やはり投壺は投扇興のルーツにもなったという記述があった。ただ、投扇興は日本流にアレンジされて、源氏物語などの知識が必要となってくるので、遊びとしての投壺の素朴さは失われてしまっているだろう。

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 正倉院事務所長である杉本一樹氏は、著書のなかでこんなエピソードを披露している。

 ある年、鳥羽法皇が南都に滞在中、正倉院の扉を開けて宝物を見せよという話になった(今ではもちろん、こんな暴挙は許されない)。あまりに突然のことなので、錠前が錆びついてしまって開けられず、やむなく扉の一部を壊して内部に入ったようだ。この当時は、定期的な曝涼などはおこわなれていなかったのだろうか。

 やがて、数ある宝物のなかから、聖武天皇ゆかりのものが鳥羽法皇の前に運ばれる。それに解説を加えるために呼び出されたのが、藤原通憲(みちのり)という学者だった。また、この銅の器は何か、という法皇の問いに通憲は、これは投壺の器です、と答え、中に小豆が入っていたりしませんか、と付け加えた。

 そこで係の者が壺を倒すと、中から実際に小豆の粒が転がり出た、というのだ。通憲がこんな予言をしたのは、投壺で遊ぶ際に、矢が壺から飛び出さないための錘りとして小豆が入れられることを知っていたからである。それを知らない周囲の者は感嘆したというが、正倉院にはひょっとしたらまだどこかに日の眼を見ぬ宝物が眠っているかもしれない、という可能性を示す話でもあるだろう。もしそのときの小豆が今でも残っていたら、それも正倉院宝物のひとつとして数えられていたはずだからである。

 なお、藤原通憲はのちに出家し、信西(しんぜい)と名を改め、平清盛と組んで世の中を動かしたが、平治の乱で晒し首となった。昨年の大河ドラマにも登場していたが、正倉院の内情にも通じていたとは、驚くべき博学の徒であったにちがいない。

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