てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

物言わぬ群像 ― 人体彫刻をめぐって(2)

2006年04月25日 | 美術随想
“精神”の人体像 ― 中村晋也

 「日展」には毎年出かけるが、いつも彫刻部門から観ることにしている。彫刻の展覧会が開かれることは概して少なく、「日展」はぼくにとって貴重な機会である。そこに出品されているのは、ほぼ等身大の人体彫刻が大多数で、かなり保守的な作品群だといえるだろう。しかし見方を変えれば、ギリシャ以来の正攻法で堂々と勝負しているということでもある。

 ただ「日展」の展示方法には、いささかの不満がないでもない。彫刻がことごとく台の上に乗せられているのである(これは京都展の場合で、他の会場ではどうか知らない)。もちろん彫刻には、胸像など比較的小さな作品もあるので、ある程度の高さを補うことも必要であるにちがいない。しかし等身大の全身像を台に乗せるとなると、まるで英雄をたたえるモニュメントのように、どうしても下から見上げざるを得なくなってしまうのだ。


 彫刻家たちは、非の打ちどころのない、理想化された人間像を作ろうとしているのだろうか? だとすれば、ぼくたちには手の届かない存在として、一段高いところに置かれてしかるべきだろう。だが現代の彫刻家は、人間というこの不可解でつかみどころのない存在のありようを、名もない人物の姿を借りて形象化しようとしているのではあるまいか? それをつぶさに感じ取るためには、彫刻家と同じ目線で作品を観る必要があるだろうと思うのだ。高い台の上に立ち、視線がどこか遠くを向いている人物に向かって、対話を試みることは難しい。せめて等身大の彫刻だけでも、地面に直接置いてもらえないものだろうか・・・。

   *

 台の上で堂々と胸を張り、豊満な肉体を惜しげもなく晒している健康的な人体像に囲まれていると、痩せぎすで貧弱な体しか持ち合わせていないぼくとしては、少々やるせない気分になってくる。ぼくたちは結局のところ、人体彫刻を観ているときには心底冷静ではあり得ないのかもしれない。やはりみずからの体のことを振り返らずにはいられないからである。相手は作りものであるとはいえ、やはり人体に変わりはなく、それは自分自身の体との絶好の比較対象なのだ。

 しかしそんな彫刻群の中にあって、中村晋也の作品は異彩を放っているように思う。ぼくが中村の存在をはっきりと意識したのは、彼が2002年に文化功労者に選ばれたことがきっかけだが、それ以来「日展」で彼の彫刻を注意して観ていくうちに、その独特の造形感覚に惹きこまれていった。


 「日展」の会場に居並ぶ、生命感にみちあふれた肉体の中にあって、中村晋也の人体像はひ弱で、貧しい。男性的でもなく、だからといって女性的な目立った特徴があるわけでもなく、どちらともつかない。それはいわば、性別や年齢や人種などの属性を超越したひとりの人間そのものであって、それ以上でも以下でもない。そしてその人物は、おのれの肉体を誇示するどころか、もてあましているようにさえ見える。いや、彼は(あるいは彼女は)肉体を見捨て、精神の深みにたゆとうているのである。頬はこけ、腕は痩せ細り、衣服といえば粗末な布切れを身にまとっているにすぎない。

   *

 中村はこのところ、一貫してこのような連作を手がけてきた。題名を『MISERERE』という。ミセレーレとは、旧約聖書に由来する言葉で、憐れみたまえという意味である。いうまでもなく、ルオーの偉大な版画集と同じ題名でもある。

 この彫刻家は、もしかすると舟越保武と同じように、敬虔なクリスチャンなのかもしれない。事実、「日展」の書物に彼が寄せた文章を読むと、いかにもそれらしい言葉にぶつかる。

 《精神的な昇華を、飾ることなく表現したいと考えました。しかし御恵みによる平安の世界への誘われは、命の極みにおいてしか得られないものかもしれません。》(「第35回 日展アートガイド」)


 “精神的”な昇華を、人体という“かたち”を借りて表現する・・・。彫刻家として、これ以上に困難な仕事があるだろうか?

   *

 このたび、この稿を書くためにいろいろ調べものをしていて、意外な事実に突き当たった。中村は『MISERERE』の連作と並行して、奈良の薬師寺に『釈迦十大弟子像』を奉納してもいたのである。ぼくは薬師寺をたびたび訪れているのだが、このことは今の今までまったく知らなかった。

 中村彫刻を支えている造形意識は、どうやらキリスト教だけに根ざしているわけではないようである。彼は特定の宗教に限定されない広い視野で、人間における“精神的”なものについて考えているにちがいない。そしてひとりの彫刻家として、“精神的”なる人物像を追い求めてきたのにちがいない。彼の人物像が、ときに聖像にも似た高潔感をただよわせる所以であろう。彼にとって、彫刻は単なる“かたち”ではないのである。


 中村は今回の「日展」出品作をもって、10年にわたる『MISERERE』のシリーズを終えることを表明した。しかし、おそらくまた別の人物像のもとに、彼の“精神”は刻み込まれることだろう。ぼくはそれを楽しみにしている。

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物言わぬ群像 ― 人体彫刻をめぐって(1)

2006年04月22日 | 美術随想
序章、またはロダンについて

 2001年9月11日、ニューヨークの空高く聳える世界貿易センタービル目がけて飛行機が突っ込んだ。始まったばかりの新しい世紀が、やはり平和の世紀ではあり得ないということを決定づけた瞬間だった。2棟の高層ビルは相次いで崩落し、2749人もの人が犠牲となった。同時多発テロと呼ばれることになるこの事件の象徴的なシーンとして、この映像は今なお、さまざまなメディアで繰り返し流されつづけている。

 そのビルの上層階に、ある金融会社が巨大なオフィスを構えていた。乗っ取られた飛行機はそのすぐ下の階に突入したため、逃げ道はなかった。社員のほとんど全員が死亡したとされる。それだけではなく、同社は世界有数といわれるロダンのコレクションを所蔵していた。人々の命とともに、300点あまりのロダンの彫刻がこの世から失われた。


 人命と彫刻と、どちらがかけがえのないものかと訊かれたら、それは人命に決まっている。しかし、ロダンが心血を注ぎ込んだ300体もの人体像が、建物の崩壊とともに粉々に砕け散ったかと思うと、胸がえぐられるような気がする。この事件は、美術史上の一大損失にとどまらず、ぼくの心の中に生々しい喪失感をもたらした。これはいったいなぜだろう?

   *

 彫刻とは、まことに不思議な表現形態だと思う。とくに人体彫刻を前にするとき、ぼくはある名づけようのない想念にとらわれる。それは、絵画によって呼び起こされる心の動きとはまったく異質のものだ。


 絵画は、いわば視覚にうったえるための表現である。ときには視覚を通して人の内面に影響を及ぼし、肌を火照らせたり、涙を流させたりといった、肉体的な変化をもたらすこともある。しかし絵画それ自体は、実体をともなっているわけではない。いかなる名画であろうとも、平面上に構成されるものである以上、窓枠のように壁に貼り付いているばかりだ。画家は色彩や陰影を駆使することによって、現実世界と仮象の世界との境界を乗り越えようとする。まさにイリュージョンである。

 ところが彫刻は、イリュージョンではない。それは実体としてそこにある。とりわけ人体彫刻の場合は、その多くが等身に近い大きさと量感をもって、確固として存在しているのである。そのかわり、絵画のように彩色されることはあまりない。いや、衣服すらまとわぬ裸体として表現されることが圧倒的に多いのではなかろうか。


 ぼくたちが彫刻展の会場でおびただしい裸体像を目にしたとき、あまりにもリアルな肉体をそこに見たとしたら、とても落ち着いて鑑賞することはできないだろう。ギリシャ神話のピュグマリオンのように、彫像と人間の境界を見失ってしまうことだろう。しかしほとんどの人体彫刻は、ブロンズや木や石といった素材をむき出しにしたまま完成されているのである。現実の人間に近づけるために、肌に色を塗ったり、服を着せたりすることはない。それは彫刻ではなく、マネキンや蝋人形のたぐいと同じであるからだ。

 人体彫刻は、生身の人間をモチーフにしてはいるが、人間を再現しようとしているわけではない。真の彫刻家たちは、人間の体から出発して、人間そのものではない何かを生み出そうとしているにちがいない。それが成功したとき、彫刻ははじめて、芸術となるのである。そしてそれは、あらゆる表現形態の中でも、もっとも困難なものであるかもしれないとも思う。

   *

 ぼくは過去に一度だけ、舟越保武という彫刻家について書いたことがある(「舟越保武へのオマージュ」)。だが、それ以外にはほとんど彫刻について触れてこなかった。もちろん彫刻を観る機会がないわけではなく、ぼくは彫刻に出会うたび、その不思議な存在について考えようとしてきたのは事実である。まだ機が熟したとはいえないが、ここでじっくり腰をすえて彫刻のことを書き綴ってみるのも、あながち無駄ではないかもしれない。

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菊池契月と少女たち(2)

2006年04月15日 | 美術随想
 さて、ぼくが改めて菊池契月のことを書こうなどと思ったのは、京都の美術館に貼り出されていたポスターを見たからであった。そこには契月の少女像のひとつ、そのものズバリ『少女』という題名の絵が大きく印刷されていた。そればかりか、同じデザインのチラシがたくさん置かれてさえいたのだ。

 いよいよ契月の展覧会をやってくれるのか、やれうれしやと思い、近づいてチラシを手にとってみると、それは京都ではなく長野で開かれる展覧会の告知なのだった。契月の没後50年を記念して、彼の生誕の地である長野で“里帰り展”が開催されるというのである(正確には昨年が契月の没後50年目にあたる)。


 年が前後するが、この『少女』は『友禅の少女』の前の年に描かれたものだ。しかし、こちらのほうがやや大人びて見えるような気もする。彼女たちのモデルはすべて同一人物ではないかと、ぼくは先に書いたが、もしそうでない可能性があるとすれば、『少女』のモデルはほんの少しだけ年かさであるかもしれないとも思う。だが女性は往々にして、着ているものや髪形、化粧の仕方ひとつで別人のように見えてしまうこともあるから、そのへんは何ともいえない。

   *

 初めて『少女』を観たのはいつのことだか覚えていないが、ぼくはとにかく、ある感銘にうたれたものである。大きなくくりではもちろん“美人画”に属する絵だが、この少女は男の意味ありげな視線に玩弄されるだけの存在ではない。彼女は、背景も小道具も何ひとつ描かれていない空間に、淡い色の着物をまとい長い髪を後ろに垂らした姿で、膝をかかえるようにしてひとり座っている。いわゆる体育座り(三角座り)に似たポーズだが、その姿は意外なほど伸びやかで、若々しい弾力を秘めているかのようだ。

 契月は少女の体を横から描いているが、顔だけはこちらのほうを向いている。それは非常に整った、凛とした、しかし決して冷たくはない表情である。だが『友禅の少女』と同じように、彼女と目が合うことはない。にもかかわらず、ぼくは彼女の目に射すくめられたように感じ、思わず立ち止まってしまう。少女の端整な容姿に見入りながら、同時にこちらも見られているという気が強くするのである。


 少女はいったい誰なのか、今どこにいるのか、説明的な要素はいっさい省かれている。しかし、そんな説明を誰が必要とするだろう? 彼女の正体がわかったところで、どうなるというのだろう? そういいたくなるほど、この少女の存在そのものが圧倒的な求心力でぼくをつかまえるのだ。

 そしてぼくはたちまち、彼女の前から身を隠したいという欲求にとらわれる。なぜなら彼女が見ている前で、次第にぼくの下劣さが覆いようもなくあぶり出されてくるような気がするからだ。それこそ白魚のように美しい指をもち、清潔そうな素足をすらりと伸ばした、純潔そのもののような少女と、下等な欲望や欺瞞の渦巻く現実社会を這いずりまわって生きてきたこの不甲斐ない男とが、対等に向き合えるわけはない。ぼくは少女の前に立ちつづけるのが恥ずかしくもあり、彼女の姿をいつまでも仰ぎ見ていたくもあり、複雑に引き裂かれた心境をいだいたまま、その場にたたずむほかないのである。

   *

 この翌々年に描かれた『散策』。早春とおぼしき郊外を、少女が2匹の犬を連れて散歩している。前髪は真っ直ぐ切りそろえられ、後ろ髪がそよ風になびいて揺れる。着物はよそいきのものではなく、彼女が普段から身に着けているようなくだけたものだ。帯を高い位置に巻いて、素足に草履を突っかけたいでたちでさっそうと歩くこの少女は、『友禅の少女』でみられたような憂愁とは無縁である。

 彼女は、人生をうまくすべり出すことができたのかもしれない。その視線は、何のこだわりもなく、素直にこちらに向けられている。道でたまたますれちがい、あいさつを交わしたときのように、ぼくたちも自然な気持ちで、彼女と初めて目を合わせることができるのだ。観ていてこんなにすがすがしい気分になれる絵というものを、ぼくはほかに知らないのである。

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菊池契月と少女たち(1)

2006年04月10日 | 美術随想
 ぼくが京都の美術館で出会うのを楽しみにしている少女がいる。といっても、もちろん生きた少女ではなく、日本画に描かれた少女である。


 菊池契月という名前はそれほどポピュラーではないかもしれないが、京都画壇にとっては極めて重要な存在だ。生まれは長野だが、画家になるべく故郷を出奔し、四条派の菊池芳文に入門、のち彼の婿養子になった人物である。さらに菊池塾という画塾を開き、逸材を世に送り出しもした。付け加えれば、契月の長男の一雄は彫刻家として大成し、もうひとりの息子の隆志は日本画家として父と同じ道を歩んでいる。

 義父の芳文は桜の名手と呼ばれるほどの存在で、花鳥画に優れた作品が多い。だが契月の場合はぼくの知るところ、巧みな線描で描かれた人物画がほとんどだ。そして、京都市美術館に所蔵されている少女を描いた3枚の絵は、ぼくの最も愛するもののひとつである。

   *

 その少女たちに初めて出会ったのは、いつのことであったか。少女といっても子供ではなく、十代の後半から二十歳くらいの女性だと思う。モデルが同一人物かどうかわからないが、面影がよく似ている。これらの絵が近接した時期に描かれているところからすると、同じ女性だと考えるほうが自然だし、ぼくはそう信じて疑わない。


 その中のひとつ、昭和8年に描かれた『友禅の少女』は、青い友禅の着物に身を包んだ少女が洋風のしゃれた椅子に座っている姿を、斜めから見た構図の絵である。体は斜め向きだが、少女の顔はこちらに向けられている。しかし絵の前に立っても、彼女と目が合ったという感じはしない。少女はこちらを見ているようでいて、実は何も見ておらず、深い物思いに沈んでいるようである。きれいな着物を着せてもらっているのに、表情にはかすかな憂いがある。

 しかし彼女は、自分の感情をあらわにしているわけではない。その顔つきはあくまで凛として、高潔である。その昔、まだカメラというものが貴重だった時代に撮影された肖像写真に、この少女像と相通ずるたたずまいを見つけることができるように思う。写真館であらたまった写真を写すときの風情である。

   *

 この絵と比較するのにちょうどいい絵がある。安井曾太郎の代表作のひとつ、有名な『金蓉』である。こちらはもちろん油彩画だが、モデルが青い衣装を身にまとっているところといい(着物ではなくチャイナドレスであるが)、椅子に腰かけた斜め向きの構図をとるところといい、『友禅の少女』と共通点が多い。モデルと椅子の位置関係など、ぼくも写真を見比べて驚いてしまったほど、非常によく似ているのである。しかも不思議なことに、『金蓉』が描かれたのは『友禅の少女』の翌年のことなのだった。

 もちろん、安井が契月のまねをしたなどというのではない。何しろ描かれている女性がまったくちがうのである。『金蓉』の女性はすでに若いとはいえない。彼女は自分の人生をすでに長いあいだ背負ってきている。その表情は暗黙のうちに、今までの人生が決して平坦ではなかったことを物語っているようにも思える。彼女の目線はこちらに向けられることはなく、自分の来し方をそっと噛みしめるようにしながら、画家の筆におのれの姿を託しているのである。


 人生の入口に立ったばかりの『友禅の少女』は、まだ過去を振り返ることはないだろう。だからといって、未来を見据えてみても、そこにはどんな不安なことが待ち受けているかわからない。しかし彼女は人生に向かって、果敢に歩みはじめようとしているにちがいない。『友禅の少女』の、気高い顔つきとためらいがちな視線は、彼女の微妙に揺れ動く心情を見事にとらえているように思えるのである。

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小さな居場所(2)

2006年04月05日 | その他の随想
 ときどき、ぼくの記憶の中から頭をもたげてくる人物像がある。それはぼくが就職して間もないころ、通勤電車の地獄の中に何とか居場所を見つけ出そうと努力していた時期のことだ。

 学歴のないぼくは、ある工場のようなところに勤めていた。そこは古ぼけた会社で、地鳴りのような機械音がうなりつづけ、ゴムのような臭いが立ち込めていて、おまけに空調がこわれていた。


 昼になると、皆はてんでに弁当箱をかかえて集まるか、社員食堂に列を作るかして、がやがやと昼休みを過ごすらしかった。しかしぼくは彼らから逃れるように、作業服の上にジャケットを羽織った姿で、ひとり外に出た。近所に名曲喫茶があるのを見つけたからである。ぼくは毎日欠かさず、昼休みにそこへかよった。クラシック音楽に耳を傾けながらサンドイッチを頬張り、ゆったりとコーヒーをすすっていると、ぼくの渇いた心はにわかに潤い、本来の自分を取り戻すことができたのだ。

 その店の常連客は、ぼくだけではなかった。ぼくが小さなベルのついたドアを押し開けて入っていくと、カウンターのいつも決まった席にひとりの女性が座っていて、やはりサンドイッチを食べているのだった。その人はぼくと同じく、会社の昼休みを利用してここにかよっているらしいことは、地味な制服を身につけていることからも知れた。事務服というよりも作業服に近いような服だった。

 見たところ決して若くはなく、特に美しい人でもなかったが、ぼくと似たような境遇ではないかと思うと、共感を覚えずにはいられなかった。彼女もやはりクラシックが好きで、雑然たる職場をひとり抜け出し、ここで心の洗濯をしているのだろう。彼女はいつもサンドイッチを食べ終わると、空いた皿をカウンターの中にいるマスターのほうへ黙って差し出した。

   *

 ある日、いつものように喫茶店のドアを開けて中へ入ってみると、カウンターにはその女性を囲んで3人ほどのグループが座っていた。全員が女性で、似たような制服を着ているように見えた。ぼくは自分の席に着きながら、ちょっと意外なことだったな、と考えた。この女性は、会社の中でひとり孤立していたわけではなかったようである。クラシックの流れる素敵な店があるからと、同僚を連れてきたのかもしれない。

 まあ、そんなことはどうでもよかった。ぼくは右手でサンドイッチをつまみ、コーヒーを口に運びながら、左手で本のページをめくり、つかの間の自由な時間を楽しんだ(ぼくは昼休みも読書の時間にあてているのである)。


 ふと、例の女性たちのグループのことが気になり、カウンターのほうを見た。なぜなら、彼女たちはあまりにも静かだったからだ。友達を連れてきたにしては、先ほどから何の会話も聞こえてこないのである。

 その女性たちは、みんなそろって音楽に耳を傾けているのだろうか? そうではなかった。彼女たちは、胸の前に差し出した両手をさかんに動かして、実に活発に会話していたのである。いったい何を話し合っているのか、手話を理解できないぼくには知りようがないが、ずいぶん熱の入った話しぶりで、ときどき言葉にならない声がもれたりした。どうやら単なる世間話ではないようだった。ぼくが店を立ち去る時間になっても、彼女たちの論議はつづいていた。

   *

 それにしても、あの女性もきっとクラシックが好きなのにちがいない、というぼくの想像ははずれていたことになる。だとすれば、彼女はなぜあの店に毎日かよっているのだろう? いや、こんな詮索も、またどうでもいいことだ。

 翌日、その女性はまたひとりでカウンターの席に座っていた。まるで、昨日の嵐のような話し合いは何でもなかったといわんばかりだ。彼女はいつものようにおとなしくサンドイッチを食べ終わると、空いた皿をマスターのほうへ黙って差し出した。マスターは、どうもありがとうございます、と声に出して礼をいった。

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